長崎街道

九州唯一の脇街道

江戸時代、徳川幕府は江戸中心の政治体制を構築するため、街道かいどうと宿場の整備、参勤交代の制を敷きました。街道には五街道ごかいどう脇街道わきかいどうがあります。五街道とは江戸に繋がる幹線道路で、東海道とうかいどう中山道なかせんどう日光にっこう街道・奥州おうしゅう街道・甲州こうしゅう街道があります。それに準ずる街道が脇街道で、九州では小倉と長崎を結ぶ長崎街道が唯一の脇街道でした。

内野宿

長崎街道は57里(約230km)あり、25か所の宿場がありました。この内、福岡黒田藩の領内にある黒崎・木屋瀬こやのせ・飯塚・内野・山家やまえ原田はるだの各宿は筑前六宿ちくぜんむしゅくと呼ばれ、大きく賑わいました。

黒崎宿

肥前の長崎街道は幾つかのルートに枝分かれしています。それはこの地域の河川が頻繁に氾濫し、足止めを余儀なくされることが多かったからです。武雄・嬉野・大村経由の彼杵通そのぎどおりが一般的ですが、塩田・嬉野経由の塩田通、鹿島・多良たら経由の多良海道たらかいどう、他に有明海沿いの浜道はまみちがあります。

浜宿

長崎街道が他の街道と違って特徴的なのは、鎖国体制を敷いていた当時の日本において、外国との通商や政治・文化の窓口となっていた長崎と江戸を繋ぐ重要な役割を担っていたという点です。オランダ商館長をはじめ多くの外国の使節が長崎街道を通って江戸へ向かいました。外国からの献上品として象や孔雀などの動物が通ったことも記録されています。九州の諸大名や長崎奉行、多くの知識人もこの道を歩きました。

長崎街道を通じて外国から日本へ伝わったものの一つに砂糖があります。街道沿線は菓子作りの技法が伝わり、カステラや金平糖をはじめ多くのお菓子が生まれました。こうしたことから令和2年(2020)に「砂糖文化を広めた長崎街道~シュガーロード~」として日本遺産に認定されました。

冷水峠

長崎街道の宿場町

それでは長崎街道の宿場町を東から順に列挙します。クリックして該当の記事をご覧になれます。

豊前小倉・筑前六宿

肥前佐賀路(彼杵通)

肥前佐賀路(塩田通)

肥前佐賀路(多良海道)

肥前長崎路

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