鳴瀬宿

長崎街道

六角川の水運で栄えた宿場町

鳴瀬なるせ宿は佐賀県武雄市の南部・たちばな町にあり、西には六角川ろっかくがわが流れ、東には杵島山きしまやまが見えます。2019年の佐賀豪雨で武雄市や大町おおまち町など平野部が浸水する被害がありましたが、昔からこの地域は水害に悩まされてきました。裏を返せば水運の便が良く、多くのモノが行き交う場所でもありました。

長崎街道は小田おだ宿(佐賀県江北こうほく町)から長崎へ向かう時、北方きたかた町追分交差点(佐賀県武雄市)で二手に分かれます。東へ進めば「彼杵通そのぎどおり」、南へ進めば「塩田通しおたどおり」です。鳴瀬宿は塩田通を進んだ時の最初の宿場町です。

かつては塩田通が主要ルートでしたが、毎年のように水害が生じて往来に支障をきたしていたことから、彼杵通がメインとして使用されるようになったと言われています。

実績浸水深

鳴瀬宿

鳴瀬宿の西側には六角川の川港があり、肥料や日用品を搬入し、農産物や特産品のカメや薪を搬出していました。宿場は宿屋・魚屋・人力車屋など多くの問屋が立ち並び大変繁盛していたようです。しかし大名や上級役人が宿泊する本陣がなく、西岸寺というお寺が代用されました。現在の鳴瀬宿は県道36号線からひとつ逸れた狭い一本道沿いに町並みが残っています。車通りが少なくのんびりと散策できます。宿場を過ぎると片白かたしろ楢崎ならさきという山沿いの地域を街道は進みます。山辺の静かで色鮮やかな風景は美しく、何度も心打たれました。

鳴瀬宿の風景
片白の風景

鳴瀬宿 散策

今回の散策は成瀬宿から街道を南下し、片白楢崎を経由して群境石までとしました。

① 「塩田道」石柱

写真の石柱は県道36号線から小道に入るとすぐ見えます。

「塩田道」石柱

② 「鳴瀬宿」石柱とお堂

石柱や案内板はここ最近設置された新しいもので、こうした宿場を保存しようとする動きは嬉しいです。

「鳴瀬宿」石柱とお堂

③ 西岸寺

本陣の代わりとして使用された浄土真宗西岸寺です。佐賀本藩・鍋島家の家紋の付いた玄関があるようですが、見過ごしてしまいました。

西岸寺

④ 鳴瀬神社

鳴瀬神社の鳥居の一つは、肥前鳥居という丸みが特徴の鳥居でした。拝殿は簡素に再建された新しいものでしょう。

肥前鳥居
拝殿
拝殿からの眺め

⑤ 片白の六地蔵

宿場を出て国道498号線を南下、暫くして再び小道に入ります。その入り口手前の丘の上にあるのがこの六地蔵で、見逃しやすいです。

片白の六地蔵
片白の風景

⑥ 梅宮神社

梅宮神社は、1237年京都にある梅宮神社の分霊を、橘氏がこの地に地頭として赴いた時に持ってこられたのが由来です。その時に分霊の神輿を担いでいたお伴の者が、白い鳥の羽を付けていたことから「肩白」という地名になり「片白」の由来となりました。

梅宮神社

⑦ おつぼ山神籠石

神籠石こうごいしは古代の山城と言われていますが、実際のところ謎が多く、北部九州と瀬戸内海の地域に点在しています。水門や列石が山を囲むように造られているのが特徴です。おつぼ山神籠石の調査によって、版築はんちくという土塁を作るための柱の穴が見つかったことから、神籠石は山城であると認識されるようになりました。

水門跡
列石

⑧ ドウサマ墓地

ドウサマとは道祖王ふなどおうという奈良時代の皇族のことです。757年に「橘奈良麻呂たちばなのならまろの乱」がありました。道祖王は奈良麻呂らと共謀し、朝廷での権力独占を始めた藤原仲麻呂に対して反乱を起こします。しかしこれは未遂に終わり、道祖王は処刑され、奈良麻呂はこの地に配流となりました。そのとき奈良麻呂は道祖王の分霊をこの地に祀ったようです。なお「楢崎」の地名は奈良麻呂に因んだものと言われています。

ドウサマ墓地
道祖王の墓石

⑨ 南楢崎の六地蔵

南楢崎の六地蔵

⑩ 玉島古墳

玉島古墳は田んぼの中に立ち一際目立ちます。5世紀末頃の有力な首長の墓と考えられています。登って剥き出しになった石室を見ることができます。

玉島古墳

⑪ 群境石

郡境石には「是從 南藤津郡 北杵島郡」と刻まれています。現在でもここで武雄市と嬉野市に分かれます。写真のように高い所にあるため、表示がないと絶対に気付かないでしょう。刻まれている字を読み取るのは困難です。

郡境石

最後まで読んで頂き有難うございました。

参考

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