肥前を代表する石工集団・砥川石工
前回の牛津宿散策では、牛津宿の西側エリアの舸子町(牛津新宿)・砥川町までを紹介しました。この先の長崎街道は、西方に見える山裾を沿うようにして続いて行きます。この山間に広がる地域を砥川谷村と言い、江戸時代に肥前を代表する石工集団がここを拠点として活躍しました。今回の散策の前半部では、街道から少し外れますが、この石工の里を紹介します。

江戸時代の砥川地域は龍造寺系の多久家の領地でした。元和7年(1621)佐賀鍋島本藩の財政難を救済するため、三部上地で領地を没収された多久の百姓がこの地に移り住みます。しかし、田畑の少ないこの地は百姓として生計を立てることが難しかったため、多久邑主から石工として出稼ぎが許可されました。こうして彼らは半農半工で生計を立てながら、後に肥前を代表する石工集団「砥川石工」として知られるようになります。

砥川石工は肥前・肥後一帯で活躍しました。特に平川与四右衛門という石工の棟梁は、これまでの彫刻技術を一新した名工として知られています。彼の石仏は木彫りのようだと表現されるように、高い技術と繊細さがあり、また当時日本中で流行した中国由来の黄檗宗の様式を石仏に取り入れました。

彼の作品は多くの寺院や有力な檀家に評価され、砥川石工の標準様式となりました。貞享4年(1687)から宝暦9年(1759)までの約70年の間に佐賀・長崎・熊本の三県に跨って40体もの在銘像が確認されており、全国的にも例がないとのことです。平川与四右衛門は少なくとも三代に渡って襲名され、これらの作品を作製したのではないかと考えられています。

牛津~小田、砥川石工の里 散策
散策の始点は牛津宿の西方に位置する最勝寺、終点は小田宿広場としました。現在の地名では小城市牛津町から江北町上小田に該当し、この間凡そ6km、砥川石工の里の散策が片道約1.5kmです。これらを一気に見て回ると、寄り道等も含めて10kmは軽く超える距離となります。砥川石工の影響か、今回の散策で普段見かけない大黒天像を4体見つけることができました。また六地蔵も沢山ありました。
はじめに 真夏の散策はご注意を
私が散策した日はお盆休みの猛暑日で、石工の里を歩いただけで汗で全身びしょびしょになり、このまま歩くと倒れるのではないかと思って中断する程、危険な日でした。従って今回の散策は二日に渡って実施。石工の里で見て回れたのは主要な箇所に絞って半分程です。山を登って行けば石切り場や他にも寺院があります。時間と体力のある方はそちらも見て回ると面白いかもしれませんが、くれぐれも無理のないように散策しましょう。

また暑いとはいえ、半袖・半ズボン・サンダルでの散策は、虫に刺されたり日焼けするため避けましょう。田舎の山や寺院は人気がなく手入れが不十分です。草木は茫々で荒れています。頻繁に絡まる蜘蛛の巣や、汗を掻いた体に集る虫の羽音は大変不快。茂みはトカゲがガサガサ動き、蛇が出やしないかと気掛かりでした。真夏の散策は大変危険であると実感しました。ただ天気が良かった分、綺麗な青空と日光で光り輝く風景を写真に収めることができたのは良かったです。
① 最勝寺
それでは散策開始!写真は浄土真宗本願寺派の最勝寺。最勝寺の前が長崎街道で、ここで国道207号線と合流します。矢印のように左へ進みましょう。なお、牛津宿の散策は下のリンクからご覧下さい。


❶ 砥川石工の里入口
国道207号線は片側二車線の広い道で、周りには田圃が広がります。最勝寺から400m程進むと、ローソンとみのり保育園があり、ここを右折。ここから石工の里へ向かいます。

❷ 愛宕神社
350m程進むと右手にこんもりとした小さな山があります。ここを登って行くと愛宕神社です。愛宕神社は軻遇突智神を祀り、火の神として防火の御利益があるとされます。伊邪那美から生まれる時、その炎で伊邪那美を死に至らしめたことから、伊邪那岐に殺されるという経緯を持ちます。総本社は京都の愛宕山にあります。福岡市西区の愛宕神社は日本三大愛宕の一つとして知られていますね。

この愛宕神社は山伏の石蔵坊(後藤遊山)が開基したとのこと。山の右側には写真のように青面金剛や猿田彦などの庚申塔があります。石に文字が刻まれただけのものですが、青面金剛はなかなか目にすることがないので驚きでした。

さて、階段を上って行きます。誰も人が来てないのでしょう。蜘蛛の巣を掻き分けながら上って行きます。頂上にある社殿は朽ちていて木々は茫々です。立ち入り禁止を示す綱を越えて社殿の左側へ向かうと、大黒天像がありました。

大黒天と聞いて日本人がイメージする一般的な認識は、まず福徳をもたらす七福神の中の一柱で、五穀豊穣と財福の神であるということでしょう。打ち出の小槌と大きな袋を持ち、米俵に乗って微笑んでいる姿です。
しかし、これは大黒天が日本へ伝わり、室町時代以降から大国主命と習合されたことで生まれた姿です。その大元を辿れば、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ、直訳すると「大いなる暗黒の神」が由来となっています。その名の通り、体は青黒く、しかも憤怒相で、我々の知る大黒天とは真逆だったのです。

❸ 熊野権現社の布袋像
熊野権現社も後藤遊山によって寛永年間(1624~1644)に開山されました。島原の乱(1637)の鎮圧に向かう多久茂辰が武運長久を祈願するためにこの地に熊野権現を勧請したと言います。肥前鳥居から階段を上って行くのですが、道が荒れ、暑さもあって断念しました。

肥前鳥居の左横には平川与四右衛門の銘が刻まれた布袋像があり、これは現存する中で最も古い元禄4年(1692)に造られたものです。
布袋も七福神の中の一柱ですね。元々は唐から五代時代にかけて実在したとされる仏僧です。大きな袋を背負った太鼓腹の風変りな姿ですが、素直な人物で、人々を満ち足りた気持ちにさせる不思議な力を持っていたとのことです。魅力的なキャラクターですね。

❹ 千手観世音菩薩像
谷区公民館の隣には、平川与四右衛門が造った石造千手観世音菩薩坐像があります。背面に陰刻されている文は、平川与四右衛門の墓がある常福寺の南談和尚によって記されており、それによると、この村の男子・女子の安全を願って造られたと言います。また、平川与四右衛門の名前「信照」が刻まれており、こうした例は貴重であるとのことです。


❺ 常福寺
常福寺に向かうには、千手観世音菩薩像のあった谷区公民館から250m程西へ進みます。常福寺は砥川石工集団の拠点であった谷村を見下ろす山麓に位置し、平安時代に真言宗の寺院として創建され、桃山時代末期に古月印和尚によって臨済宗南禅寺派の寺院として再興しました。
御本尊の木造薬師如来坐像と木造帝釈天立像は共に国の重要文化財です。見てはいませんが、木造薬師如来坐像は、本堂左手にある瑠璃殿の中に安置されており、木造帝釈天立像は、佐賀県立博物館に貸し出され、常設展示されているそうです。また、奥の院があって弘法大師を祀っています。

さて、常福寺は砥川石工の多くを檀家とし、確認していませんが、平川与四右衛門の墓もここにあります。境内には砥川石工による石造物が沢山あるのですが、写真の右から二つ目は石造如意輪観音菩薩半跏坐像で、享保21年(1736)に平川与四右衛門によって奉納されたものです。中央の最も大きいものが石造地蔵菩薩坐像で、作者不明ですが元禄2年(1689)に造られたものです。


❻ 平川与四右衛門の生家跡
再び田圃の広がる最初の道へ接続します。この交差点に平川与四右衛門の生家がかつてあり、案内板が立っています。また、その向かいには月待信仰で立てられた二十三夜塔があります。月待信仰とは、特定の月齢の夜に仲間が集まって飲食を共にし、お経を唱えて月を拝み悪霊を追い払う行事です。最も盛んに行われたのが二十三夜講で、講を行ったことを記念してこのように塔が立てられました。祠の中にいるのは勢至菩薩と思われます。二十三夜講で勢至菩薩は月の化身として祀られました。


❼ 阿弥陀如来堂
平川与四右衛門の生家跡から西へ730m程進むと内砥川公民館があります。その敷地内にある阿弥陀堂の阿弥陀像はつるつるに擦り減ったように丸みを帯び、可愛らしいお姿です。昔から人々が触っていたのでしょうか。

❽ 大黒天像
内砥川の道端に立つ大黒天像で、今回の散策で二体目です。

❾ 内砥川八幡神社
内砥川八幡神社は砥川三所八幡宮の上宮に当たります。中宮は下砥川にあり、後述の「④下砥川八幡神社」です。下宮は宿古賀で先述の「①最勝寺」の南側にありますが、今回は訪れていません。これら八幡神社の由緒は、鎌倉時代末期にこの地域を支配していた千葉胤貞が、鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請したことによると伝えられています。

写真は内砥川八幡神社の一の鳥居で、ここから参道を通って二の鳥居、三の鳥居と続きます。こうした鳥居も砥川石工の手によるもので、二の鳥居には三人の棟梁の名前が陰刻されています。三の鳥居は肥前鳥居で制作時期は最も古く天正期(1570年代)と考えられています。因みに一の鳥居の右手にも二十三夜塔が立っています。



❿ 西光寺
それでは最後に西光寺へ向かって砥川石工の里散策を終わりにしましょう。内砥川八幡宮を北へ進みます。この辺りの集落は古い家屋や直角に折れ曲がった細い道もあり、昔の風景を残しているようでした。

西光寺は臨済宗南禅寺派の寺院で、正和3年(1314)に開山されています。 禅宗の寺院らしく本堂前には盛砂がありました。墓地の先には金毘羅神社があり、神社とお寺が一体となった感じです。



② 大黒天像
さて、国道207号線に戻り西へ進みます。写真のようにローソンと歩道橋がある所で左へ進み、下砥川と言う地域に入ります。

早速、今回三体目の大黒天像を発見。漫画のようなゆるキャラです。

③ 永福寺
大黒天像の向かいにあるのが永福寺で臨済宗南禅寺派の寺院です。また、小城市にある円通寺の末寺であるとのこと。山門は街道に面し、本堂は堂々とした大きさです。そしてここにも平川与四右衛門作の石造地蔵菩薩半跏坐像があり、享保21年(1736)に奉納されています。


④ 下砥川八幡神社
先述の通り、砥川三所八幡宮の中宮に当たる下砥川八幡宮。山の中に鎮座しており、街道に面した肥前鳥居から上って行きます。参道は整っているので上り易いですが、境内は草が茫々でした。拝殿は割と新しい様子で、肥前狛犬がやっぱりありました。簡略化され愛おしい造形です。



⑤ 宿場ようかん
街道が直角に折れ曲がる所に羊羹屋があります。小城の銘菓と言えば羊羹ですが、ここの羊羹は機械を使わず、手練りで作っているとのことです。甘さも控えめで評判なようです。と言うことで早速購入。帰宅後ペロっと食べてしまいました。確かに食べやすい甘さで美味しかったです。


⑥ 妙蓮寺
妙蓮寺は日蓮宗の寺院で、小城市にある妙勝寺の末寺とのことです。

⑦ カンカン石
街道は国道207号線に再び合流し江北町に入ります。この大通りの傍にカンカン石という石があり、これを小石で打てば、鉦を打つような音がするというので江戸時代から街道の名所であったとのこと。カンカン石は磁鉄鉱を含む讃岐岩(サヌカイト)です。傍には観音堂があり、当時はその庭石だったとのこと。動画のように確かに金属音がして面白いです。立ち寄った際は是非実際に打ち鳴らしてみて下さい。

⑧ 宗光寺表門・佐留志村道路元標
国道207号線はこの先でJRの線路を越えるため高架を通りますが、長崎街道は下道です。写真のように矢印の方へ進みます。

この地域は旧佐留志村です。住宅地の中を通る街道は、綺麗に整備されていますが、細くて昔の面影を感じます。八十八か所巡りの観音堂もありました。

しばらく進むと十字路があり、そこには宗光寺のものと思われる表門と佐留志村の道路元標があります。この門を潜った先に宗光寺、堤雄神社、福正寺という三つの寺社があります。

道路元標は大正時代、里程調査のため市町村役場の前や市町村の中心となる主要な道路の交差点に設置されました。従ってここが佐留志村の中心地であり、多くの村人が住み、長崎街道を往還する旅人や三つの寺社へ参拝する人々で賑わっていたであろう様子が想像されます。

⑨ 堤雄神社
それでは宗光寺の表門を潜って、堤雄神社まで向かいましょう。60m程進むと少し開けた場所になっていて、左手に堤雄神社の一の鳥居が現れます。これは肥前鳥居です。この鳥居の先を西へ進み階段を上って行くと堤雄神社に到着です。ここから神社まで250m程あるので頑張りましょう。因みにこの開けた場所にはお堂や宗光寺へ通じる山門、六地蔵など様々な遺物があります。

さてこの堤雄神社ですが、その由緒は大変古くて珍しいです。私がインターネットで調べた限りの情報では、景行18年(88)に景行天皇がこの地に立ち寄り、大嶽大明神をお祀りしたのが始まりとなっています。神社の裏山が御岳山なので、大嶽大明神とはこの山の神様なのでしょうか。

その後、天平元年(729)藤原不比等の連れ子である武松成満がこの地(北裏尾の荘)に下向し、その子である猿千代麿と石若麿が永住しました。堤雄神社はこの父子三人を御祭神としてお祀りしているようです。因みに拝殿内の扁額には「正一位裏尾大明神」と記されていました。

また佐留志と言う地名の由来は、猿千代麿と石若麿の頭文字から取って「猿石の荘」となり、佐留志と呼ばれるようになったと言います。また、猿千代麿をお祀りするのが堤雄神社で、石若麿をお祀りするのが境内にある乙宮社であるとの情報もあります。

またこの父子三神は住吉三神ではないかとの説もあります。住吉三神は住吉神社の御祭神で航海の守護神として知られます。またオリオン座の三つ星を表し、星信仰との関わりを指摘される神様でもあります。古い歴史を有するからこそ何か秘密があるのではないかと思ってしまいます。とは言え、古くから藤原氏と関わりのあったこの土地特有の歴史が感じられて面白いです。

境内には文殊社や稲荷社、他にも多くの石仏・石祠があります。境内に大黒天像があったのは驚きでした。今回の散策で四体目で、今まで見てきた三体と同じ形態です。砥川石工の手によるものでしょうか。

⑩ 東照寺
街道に戻って西へ進みます。山裾をくねくねと続く細い道は街道らしくて印象的です。JR江北駅近くまで来ると東照寺という曹洞宗の寺院が見えてきます。

東照寺は立派な本堂や多くの六地蔵塔、西側に広がる墓地が印象的です。また、本堂裏には高さ10m程のコンクリート製の身代わり観音像があることで知られています。福崎日精というコンクリート仏師が昭和28年(1953)に建立しました。


⑪ 追分の恵比須像
街道はJR江北駅の駅前通りへ出ます。因みにこの地域は旧山口村だったため、駅名は肥前山口駅だったのですが、2022年9月に江北町の知名度向上を狙って江北駅に改称されました。長崎街道は矢印の方向へ進み山口の古い町中を進んで行きます。


追分とは街道の分岐点という意味ですが、写真の三差路が長崎街道を二手に分ける追分でした。このまま直進すれば小田宿へ向かう彼杵通、左へ曲がれば浜道です。
長崎街道佐賀路は複数のルートがあり、ここが長崎へ向かう際の最初の分岐点です。彼杵通はよく知られていますが、浜道は有明海沿いの街道で六角宿、高町宿を経て鹿島に至ります。この浜道ルートもいつか散策してご紹介したいと思います。

この追分には三つの石造物があります。まず上の写真で左へ曲がる角に四角い石柱が見えますが、これが山口村の道路元標なのだそうです。実際に見ましたが、そのような文字は確認できませんでした。次に、横断歩道先の電柱脇に屋根の付いた祠があって、その中には恵比須像があります。写真では暗くてよく見えませんがちゃんと釣竿を手に持っています。そして右の電柱下にある浮彫りで作られた恵比須像です。どの恵比須様にも花が捧げられていました。


⑫ 江北町郷土資料館
追分を直進し街道は江北町役場の裏道を通ります。江北町役場には郷土資料館があり、事前に連絡すれば見学することができます。主な展示品はこの町の古い家屋から出てきたもので、展示品は少なく保管・展示の様子も雑多ですが、興味のある方は見学してみて下さい。

面白いのは発掘でクジラの骨が見つかったこと。つまり何万年も前はここが海だったという証です。海水面は次第に下降したとは言え、縄文時代でもまだここは海辺だったと思われます。当時はどんな景色が広がっていたのが、想像が膨らみます。

因みに神社にある肥前狛犬はその見た目の愛くるしさから人気があるようで、盗難に遭って高値で売られるケースがあるとのこと。この資料館にはその難を逃れるために保管されているものもあるとお話をお聞きしました。
⑬ 小田宿広場
街道は再び交通量の多い県道に合流。暫くして県道から外れ、写真のように朝鍋宿というバス停を過ぎます。かつてはここにも小規模な宿場町があったのでしょう。

そこから先は小田宿へ向けて一直線の道です。田圃の広がる風景を約1km歩きます。そして終着地点の小田宿広場に到着です!


今回の散策はここまでです。この先の小田宿の散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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