河川の氾濫と街道
塩田宿は佐賀県嬉野市の東部・塩田町に所在し、北は鳴瀬・西は嬉野・東は鹿島へと続く街道の分岐点に当たる宿場町です。鳴瀬から塩田宿を経由し嬉野へ至る街道を塩田通、塩田宿を起点に鹿島、多良、湯江、永昌へ至る街道を多良通(多良海道)と言います。一般的に長崎街道は武雄方面ルート(彼杵通)が主要路とされるため、塩田通も多良通も長崎街道の脇街道という位置付けです。その理由としては河川の氾濫により足止めを余儀なくされることが常だったためです。
有明海に注ぐこの地域一帯の河川は、水上交通の利便性をもたらす半面、少々の降水でも増水し水害をもたらしました。塩田にも嬉野から鹿島へ向かって塩田川が流れています。塩田川は雨季には有明海の高潮で潮が逆流し氾濫を繰り返す暴れ川として知られ、「塩田川で人が流されないと、梅雨は明けぬ」と言われた程です。
水神水象女神を祀る丹生神社
塩田宿周辺の塩田川には丹生神社という水象女神をお祀りした神社が5社あります。丹生神社は奈良県吉野郡川上村に鎮座する丹生川上神社から勧請したものと言われ、御祭神の水象女神は水神であることから、塩田の人々にとって塩田川がいかに大切であったかを物語っています。
水象女神は伊邪那岐・伊邪那美という国生みの神から生まれ、皇室の御先祖と言われる天照大神の姉妹です。神様の中でも別格と言えます。今回の散策で訪れた丹生神社は二の宮と五の宮です。一の宮は二の宮のある常在寺から3km西の宮ノ元にあります。

陶石の集散拠点・塩田津
塩田には塩田津と呼ばれる湊がありました。江戸時代には熊本・天草の陶石が船で有明海から塩田川を上り、ここで荷揚げされ各地へと運ばれたとのことです。川港としての塩田の発展は昭和まで続きました。現在、港は憩いの広場に整備され、荷揚げに使用したクレーンが再現されています。


焼物商売で栄えた塩田宿
塩田は寛永16年(1639)佐賀藩の支藩である蓮池藩(52000石)の所領となりました。蓮池藩は佐賀県蓮池町に館を構えており、藩祖は鍋島直澄です。塩田は蓮池藩にとって周辺地域の統治拠点として重要な地域であったため、頭人役所が置かれました。直澄は寛文5年(1665)塩田町五町田に別邸を構え隠居し、現在は吉浦神社(現:和泉式部公園)の御祭神として祀られています。

塩田は先述のように陶石の集散拠点であり、それを扱う塩田商人がいて繁盛していました。塩田を訪れたドイツ人医師ケンペル(オランダ使節団)は『江戸参府旅行記』で、塩田は煙の多い村で木材を積んだ船が多くあり、陶工が陶器を作っている、と当時の様子を記述しています。現在の塩田宿は嬉野市の伝統的建造物群保存地区に指定され、白壁の家屋が立ち並ぶ美しい町並みを楽しむことができます。町通りには恵比須像も多く見られ宿場町を見守っています。


塩田宿 散策
今回の散策の始点は、塩田宿の北側に位置する「立専寺」とし、宿場内を散策した後、鹿島へ向かいました。多良海道を東へ進み鹿島城下の入口付近に当たる「殿の橋」を終点としました。宿場内は800m足らずで、塩田川を渡って殿の橋までは約3.2kmです。道中は鹿島平野で、北側には田畑が広がり、山々が壁のように連なります。国道498号線は交通量の多い道ですが、平坦で歩道も確保されているので歩き易いです。

① 立専寺
立専寺は浄土真宗の寺院です。塩田には加工しやすい安山岩が産出し、江戸時代から石工が活躍しました。筒井系と永石系の系統があり、ここには筒井系の石工が作った水盤があります。また、塩田津において寺子屋発祥の寺と言われています。

② 本応寺
1586年開基の浄土宗の寺院です。本応寺の仁王像は筒井系で、曲線的で柔らかく、恐ろしさを感じさせない表情がユーモラスです。



③ 常在寺・丹生神社(二の宮)
常在寺は見晴らしのいい高台にある真言宗の寺院です。708年行基により開基され、1184年には後鳥羽天皇の病気回復祈願が成就した、古い歴史を持ちます。常在寺の境内には丹生神社の二の宮と塩田大明神があります。塩田大明神は稲荷神社で、地元では「コンコン様」と呼ばれていました。




④ 蓮乗院
街道は嬉野市役所(塩田庁舎)の区画に沿って細い道を直角に曲がり、嬉野市役所東交差点に出ます。今はありませんが、この交差点に追分石があったようです。追分石には「ながさきみち 左 かしまみち」と彫られており、「ながさきみち」とは交差点をそのまま直進して細い道を進む塩田通、「左 かしまみち」とは塩田橋を渡って東へ進む多良通(多良海道)のことです。塩田橋を渡る前に蓮乗院があります。楼門や境内には仏像が並んでいます。

⑤ 塩田橋
写真は橋の上から塩田川を望んだ風景です。橋を渡って150m程進むと、街道は写真の矢印のように左へ曲がります。国道498号線から逸れますが、後に合流します。


⑥ 丹生神社(五の宮)
五の宮神社は鹿島平野にぽつんと存在する標高24mの山にあります。水神である水象女神をお祀りした丹生神社の五番目の分社です。また伊弉冉命の第5子であることからもこのように呼ばれます。和銅2年(709)建立と由緒は別格に古く、肥前鳥居は鹿島藩3代藩主鍋島直朝が寄進しました。五の宮神社の隣には塩竈神社があり、御祭神は塩椎神です。潮流を司る神として知られ、これも海・川・水との関係があります。

楠の木に覆われた山は森岳城という中世のお城がありました。天正4年(1576)この地域に勢力を張っていた有馬氏を攻めるため、肥前国の戦国大名・龍造寺隆信は家臣の犬塚鎮家をこの地に送り込み、築かせたお城です。塩竈神社から山頂まで登ることができます。大きな岩がごろごろ転がっていましたが、城の形跡は分かりませんでした。山の北側には多目的研修センターがあり、その隣に犬塚鎮家夫妻と子息の眠る五輪塔があります。

⑦ 殿の橋
国道498号線を進むと国道207号線と交差します。この大きな交差点を殿の橋と言います。写真の奥に見える信号がその交差点です。しかし旧街道の殿の橋は、その手前に三叉路です。殿の橋は街道の合流(分岐)点で、写真左手から長崎街道の脇街道・浜道に接続します。浜道とは現佐賀県白石町を通る有明海側のルートです。牛津から六角・高町を経て、この殿の橋で多良通(多良海道)と合流し、鹿島へ至ります。


今回の散策はここまでです。鹿島城下へは殿の橋交差点を右斜めへ進みます。鹿島城下の散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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