佐賀が誇る近代日本の礎を築いた賢人達
佐賀の町を散策すると、教科書に出て来る幕末・明治に活躍した偉人を多く輩出した町であることを知らされます。薩長土肥と言われるように近代化の必要性を一早く認識し、藩政改革を進め、新しい日本を作る先取の精神が佐賀にはあったのです。そんな佐賀の町では功績のあった人物を「佐賀の七賢人」として大々的にアピールし、佐賀の誇りとなっています。

その中の一人、歴代藩主の中でも第10代鍋島直正はずば抜けた先進性を持つ名君としてこの町では別格の扱いを受けています。藩の財政が逼迫していたため役人の大量リストラを敢行し、借金の8割を放棄させ、残りを50年賦にするというかなりの力技で藩政改革を進めました。自身も質素倹約な生活を送っています。

教育に力を入れ藩校弘道館を拡充し、蘭学寮を設置します。医者の世襲制を免許制に切り替えたことは日本初でした。また天然痘を根絶するため種痘を自らの長男で試し、信頼性を世に示しています。

佐賀藩は福岡藩と共に長崎警備の任務を負っていましたが、佐賀藩はこれを機に外国の技術を積極的に取り込んで行きました。長崎で国防のためには兵器が必要であることを痛感した直正は、鉄製大砲鋳造のため築地に反射炉を築いたり、理化学研究所「製煉方」や海軍伝習機関「三重津海軍所」を設置しました。

品川に幕府用の大砲を鋳造したのは佐賀藩です。製煉方絵図には蒸気機関車の模型の試運転を見守る直正公と弘道館の学生、蒸気船の模型が描かれています。三重津海軍所では藩の蒸気船凌風丸を建造。国産初の蒸気機関の開発にも成功した佐賀藩は、日本最先端の技術力があることを中央にも知らしめました。

創建当時の佐賀城は天守閣がありましたが、二度の火災に見舞われ、一時藩政の中核となる場所を失っています。そこで直正は天保9年(1838)本丸御殿を再建。本丸御殿は平屋造りで天守はありませんでした。現在城内にある歴史博物館「佐賀本丸歴史館」はこれを復元したものです。写真は鯱の門で、これもその時建設されました。

佐賀神社の御祭神は直正で、その功績を称え昭和8年(1933)に造られました。隣の松原神社は藩祖直茂を祀るため安永元年(1772)に創建され、直茂の法号に因んで日峯社と呼ばれました。後に龍造寺家・鍋島家の功績のあった人物が合祀されています。松原とはこの地域の名称です。

街道沿いに見える日本一の恵比須像
佐賀城下を通る長崎街道は、城や武家地の外側に位置する町人地を通過するように設定されています。これは敵の侵入や攻撃を防ぐため、外の人間に城下の構造を明かさないようにするためでした。従って、旅人は城内は勿論、武家地への立ち入りは原則禁止であり、街道以外の通行も制限されていました。街道からはお城は見えなかったと言われています。街道は城の北方を何度も折れ曲がるように通っています。これは豊前小倉城下の長崎街道でも見られる構造です。

城下には沢山の恵比須像があります。市内で約800体もの恵比須像があり、これは日本一の数です。鯛を脇に抱え片足を下げている半跏姿勢の恵比須像が多いのですがバリエーションは豊富です。写真は点屋町で見つけた鯛負い恵比須。恵比須様の背丈程の大きな鯛を背負っています。

佐賀城下 散策
今回の散策は、東の牛嶋構口から西の高橋までとしました。主な通過する町は、牛嶋町・上今宿町・柳町・蓮池町・呉服町・元町・白山町・中町・多布施町・伊勢屋町・点屋町・六座町・長瀬町・嘉瀬郷八戸宿です。見所満載の町です。今回は街道沿いのスポットを中心にご紹介します。なお、掲載の地図や絵図は現地の案内板や佐賀本丸歴史館から撮影したものです。
佐賀城下の手前に位置する境原宿とその街道散策は、こちらをご覧下さい。
① 牛嶋構口・番所跡
佐賀城下の東端に位置する牛嶋構口は、城下の大手口として格式が高く、厳重で閉鎖的な造りをしていたことが調査で分かっています。写真のように構口の一部が再現されています。また、傍には番所がありました。構口から次の思案橋までが牛嶋町です。


200m程北になりますが、御神木である楠の大木が迫力満点の牛嶋天満宮があります。楠の中は空洞で中に入って祠にお参りできます。池や太鼓橋などがあり木々が鮮やかで美しい神社ですので、こちらも是非立ち寄りましょう。

② 思案橋・上今宿町の風景
さて、次の地図は牛嶋構口から続く長崎街道のルートと町名を記しています。右側が北です。
紺屋川に架かる思案橋は、最近の発掘調査のお陰で、雁木という階段状の石段や石垣の護岸などの存在が明らかになり、舟で運ばれた物資を陸揚げする荷揚げ場だったことが分かっています。紺屋川は有明海の干満の影響を受けて水位が変動し、これを利用して舟運が行われました。
紺屋川と並走する形で裏十間川が流れており、この二つの川による物流が、この地域の商業的発展に繋がっています。
思案橋を過ぎると直角に2度折れ曲がる町通りになっており、そこには白壁の家屋が立ち並びます。綺麗に再現されており、町並みは美しいです。ここは上今宿町と呼ばれ、様々な商家があり、城下で最も賑やかな場所だったとこのことです。



③ 柳町・蓮池町の風景
写真は柳町・蓮池町の風景です。ここは旧○○家といった白壁の家屋が立ち並び、無料で中へ入れる所もあります。写真は旧久富家です。
因みに、この手前の交差点には江戸時代初めにドミニコ会士によって建てられた南蛮寺がありました。禁教令によって1640年代には廃止され町屋になったとのことです。現在は案内板が立っています。
では、東から順に幾つか見て行きましょう。



専福寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。ここには佐賀蘭学者の始祖島本良順の墓があります。良順は蓮池町で医業を営んでいましたが、西洋医術を習得するため長崎へ赴きます。佐賀に戻ってからは、佐賀藩医学寮の寮監、蓮池藩主の侍医を務めました。幕末の医学の発展に貢献した郷土の偉人です。

旧古賀銀行の洋風煉瓦造りの建物は最も華やかで、現在は佐賀市歴史民俗館として展示室やカフェになっています。

その隣にある旧古賀家は明治17年(1884)建築の和風のお屋敷です。古賀銀行頭取の邸宅で、漆喰に墨を混ぜた濃灰色の壁は味があって好きでした。





④ 肥前通仙亭
肥前通仙亭は肥前蓮池生まれの煎茶の祖、売茶翁を伝える施設です。売茶翁の顕彰碑が入口に立っています。日本各地で修行や学問に励んだ知識人・文化人で、晩年は京都に通仙亭を構えて売茶業を始めました。

この人物が尊敬されたのは、自身の高僧としての身分を捨て、身分の差別なく布施も取らずに禅を人々に説いて廻ったことです。佐賀の賢人に数えられています。

⑤ 呉服町の風景
大通りの向こうには長崎街道の大きな看板があります。ここを渡って晒橋を過ぎると呉服町です。

写真のように現在はマンションが立っている所が本陣跡でした。塀で再現されています。幕府の役人が宿泊する施設です。

その先の分岐点には、人差し指で「こくらみち なかさき道」と彫られた道標があります。その右にも小さい石で「右 おふくわん道」の道標もあります。江戸時代から残っている道標の一つです。恵比須像は道しるべ恵比須像として親しまれています。

⑥ 願正寺・称念寺
願正寺は浄土真宗、称念寺は浄土宗の寺院で、道を挟んで隣り合うように建っています。両寺とも幕府の役人や他藩の藩主が宿泊する本陣・脇本陣として利用されました。
願正寺は藩祖鍋島直茂・初代勝茂が関ヶ原の合戦の際、西軍について敗れたため、徳川側に謝罪することになった時、浄土真宗西本願寺の准如上人が間に入って事無きを得たという一件から、その恩に報いるために建てられた寺院です。これ以後、肥前領内の真宗寺院は全て西本願寺派になり、願正寺はその全ての中心寺院として肥前国総道場と呼ばれました。

また、願正寺には蘭方医で鍋島直正の侍医だった大石良英のお墓があります。彼が直正公の息子に天然痘の接種を行いました。その様子のレリーフがあります。

称念寺は安土・桃山時代に称念上人の弟子真誉上人によって開かれました。キリシタン禁教を徹底するための宗門改めの手続きが称念寺で行われるなど、佐賀藩の宗教政策で重要な役割を担いました。

⑦ 元町・白山町の風景
元町は米の取引所や町人の税の納付所、旅人達が利用する駅場などがありました。写真右手のショッピングセンター「エスプラッツ」内を街道は通っており、建物南出入り口から中に入ると写真のような「長崎街道」の標識があります。



街道は白山町を進み、ここはアーケード付きの商店街になっています。当時も町人が住む町でした。

⑧ 高寺・龍造寺八幡宮・楠神社
白山商店街のアーケードを抜けた交差点付近は高札場が置かれたため札の辻と呼ばれました。
高寺は臨済宗の寺院です。元は龍造寺と言い、現佐賀城内の高台にありました。遠く有明海からも望まれる程だったためこう呼ばれましたが、佐賀城築城により龍造寺八幡宮と共にこの地に移されました。

天井絵の龍は、夜な夜な抜け出して境内の水を飲むので、和尚が法力で画中に返し、その時鱗が一枚落ちたため画龍は神通力を失い、再び抜け出すことはなくなったという逸話があります。実際見てみましたが、消えかかっている所もあり龍の姿はよく分かりません。

龍造寺八幡宮は文治3年(1187)龍造寺家の始祖高木南次郎季家が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請して建立されました。戦国時代までは龍造寺一門の守護神、江戸時代は歴代藩主の産土の神です。佐賀特有の石造りの肥前鳥居が建っています。左手のお社は楠神社です。

楠神社の御祭神である楠木正成は後醍醐天皇に忠誠を尽くした人物です。拝殿には父正成と子正行の父子像があります。正成は足利尊氏の軍勢に戦う前に自分が死ぬのを悟り、正行に自分に代わって天皇に忠節を尽くすようにと別れを告げました。この像はその場面なのです。
楠木正成を祀る神社としては神戸市にある湊川神社が知られていますが、この楠神社は湊川神社が造られる29年も前に、楠公父子の忠誠に感激した佐賀藩士深江信渓によって寛文3年(1663)建造されました。
こうした勤王思想は幕末の尊王運動へ繋がって行きます。佐賀藩の国学者枝吉神陽の尊王論によって義祭同盟が1850年に結成され、その石碑が境内に立っています。

⑨ 中町の恵比寿像
この恵比須像は寛政5年(1793)建造で、市内で最も古く損傷も少ない恵比須像です。

⑩ 善左衛門橋
街道は国道に出ると、そこから南へ進みます。護国神社側の細い道が街道です。
写真の石橋は多布施町と伊勢屋町の間に架かっている善左衛門橋です。明和元年(1764)に多布施町の資産家である宇野善左衛門が自費で老朽化した土橋を石橋に架け替えました。


⑪ 伊勢神社
伊勢神社はここから約4km北の蛎久という地域にあった伊勢皇大神宮の分霊を勧請して創建されました。そもそも伊勢屋町は中世に栄えた蛎久町を移転してできた町人の町です。藩祖直茂公夫妻の信仰も厚かったとのことです。肥前鳥居、肥前狛犬が現存しています。


⑫ 伊勢屋本町の道標
呉服町でも見かけた長崎街道の道標です。江戸時代から現存するものの一つです。

⑬ 真覚寺
真覚寺は浄土真宗の寺院で、ここには二人の郷土の偉人の墓があります。一人は日本の刀剣史において功績が大きいとされる桃山時代の刀工初代忠吉、もう一人は国学・神道思想家で藩校弘道館の教授を務めた南里有鄰です。
初代忠吉はこの先の長瀬町で活躍し、橋本新左衛門とも言います。忠吉は代々鍋島藩の刀鍛冶を務め、8代目は大砲製造方に任命され近代化にも貢献しています。境内には忠吉一門が使用していた水舟や研ぎ石もあります。



⑭ 天徳寺・北面天満宮
天徳寺は臨済宗南禅寺派の寺院ですが、この寺院も「⑩伊勢神社」と同様に、蛎久町にあった蛎久天満宮とその本地仏を祀る天徳寺を、直茂公が現在地に移転したものです。天徳寺は鍋島家の祈禱寺として栄え、佐賀のわらべ歌「雪やこーろ」の歌詞にも出てきます。境内には蘭学者で弘道館の教導も務めた大庭雪斎の墓もあります。雪斎は佐賀蘭学の始祖島本良順に師事しています。


北面天満宮で興味深いのは、楼門裏の河童の像です。佐賀には河童にまつわるスポットが幾つかあり、拝殿に観光マップが置いてありました。河童と言えば人間を水に引きずり込む恐ろしい妖怪のイメージですが、子供達を水難事故から守る存在でもあるのです。


⑮ 本行寺
ここで寄り道です。国道207号線まで南へ進み本行寺を訪れました。本行寺は龍造寺胤家が永正15年(1518)建立した日蓮宗の寺院です。ここには龍造寺・鍋島両主君に仕え、治水事業に大きな功績を残した家臣の成富兵庫茂安、鍋島家の親類である白石鍋島家、初代司法卿の江藤新平の墓があることで知られています。





⑯ 六座町の風景
六座町も城下町整備のため蛎久町からこの地へ移転してできた町で、穀物座や金銀座などの6つの市場が移って来たことが由来になっています。六座町は佐賀城下で一番古い歴史を持ち、市場発祥の地として賑わっていたとのことです。現在は写真のように跡地には案内板が立つのみです。天祐寺川付近は風情があります。


200m程北にある天祐寺は曹洞宗の寺院で、龍造寺高房を弔うため鍋島直茂が建立しました。大黒天の緩くて可愛らしいお姿が印象的でした。


⑰ 長瀬町の風景
長瀬町は「⑫真覚寺」にお墓のある刀鍛冶の初代忠吉(橋本新左衛門)が住んでいた町人の町です。町名は忠吉が北方にある長瀬村から移住して来たことが由来です。
長瀬町は、鞘師・弓師・鉄砲師など武具を扱う御用職人や英彦山の銅の鳥居を造った鋳物師の谷口家などが暮らす職人の町でした。1850年に築地反射炉が造られたのもこの町です(現在の日新小学校)。佐賀藩の命を受けて製造された大砲や反射炉は、この町の在来の技術を取り入れながら苦心の末に出来上がったものであり、それを実現するのに相応しい場所だったのです。

鋳物師の谷口家の墓は日蓮宗の泰教寺にあります。刀鍛冶の橋本左伝次(河内大掾藤原正廣)の屋敷跡には案内板が立っています。


長瀬町を西へ進むと写真の道標があります。「ながきさへ こくらみち」「いさはやとかいば」(諫早渡海場)と彫られており、ここから南へ進むと海を渡って諫早へ行くことができました。

⑱ 八戸新宿の風景
佐賀城下町は長瀬町までで、この先は嘉瀬郷八戸宿と呼ばれる宿場町でした。それも八戸新宿・八戸古宿・高橋宿と3つに分かれます。多くの寺院や白壁の家屋が残る地域です。

ではまず、八戸新宿を東から順に見て行きましょう。八戸新宿は鯰橋から地蔵橋までのエリアです。鯰橋の傍には北島邸と恵比須像があります。

写真は旧枝梅酒造前の風景ですが、家並みが斜めに配置され、街道は鋸の歯のようにギザギザになっています。これは敵が襲来した時に身を隠したり、不意に攻撃するためと言われています。
旧枝梅酒造は明治40年(1907)創業で現在は飲食店・居酒屋になっています。

久保薬局は城下で最も古い生薬屋と言われ「醫局監製 牛黄清心圓」の看板が掛かっています。当時薬の調製には佐賀藩醫局の好生館役人の立会いが必要でした。牛黄は牛の胆石で、この薬は精神を安定させ体を強める漢方です。

地蔵橋手前から北へ100m程進むと曹洞宗の龍雲寺があります。この墓地には『葉隠』の語り手であった山本常朝のお墓があります。葉隠は山本常朝が語った言葉をまとめ上げた書物で、鍋島家に仕える侍として泰平の世をいかに生きるかを説いています。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」などが有名で、藩士達は皆これを読んでいました。


⑲ 八戸古宿の風景
八戸古宿は地蔵橋から番所までです。地蔵橋の袂には大きな地蔵菩薩像があり印象的です。このお地蔵様は宝暦6年(1756)長瀬町の鋳物師であった谷口安左衛門兼品によって鋳造された銅製の像でしたが、戦時中に拠出され、現在は石像となっています。

大通りを挟んで150m程先にも地蔵院という曹洞宗の寺院があり、地蔵菩薩像が立っています。これは享保17年(1732)の大飢饉で亡くなった魂を鎮めるために建てられたと言います。

刀鍛冶の忠吉は長瀬町で活躍しましたが、二代目からの忠吉一門の墓があるのが浄土真宗本願寺派の長安寺です。

⑳ 高橋宿の風景
高橋宿は番所跡から高橋までです。写真のように鉤型に折れ曲がっている所に番所が置かれました。その先の白壁の家屋は井手邸です。


そして、本庄江川に架けられた橋が高橋(扇町橋)です。橋桁を高くし、船の帆柱や竿が支障なく通れるようにしたため、このように呼ばれるようになったと言われています。高橋は佐賀城下の西の出入口であると共に、船の積み荷の集積地であり、市場は大変賑わいました。

今回の散策はここまでです。最後まで読んで頂き有難うございました。ここから次の牛津宿までの散策はこちらをご覧下さい。
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