国道34号線に沿う長崎街道
今回の散策は轟木宿から中原宿の宿場間(約5.5km)と中原宿(約700m)です。この間に安良宿・村田宿という間の宿があります。現在の交通路が鳥栖を分岐点として佐賀・長崎へ延びているように、長崎街道も鳥栖の轟木宿から西へ大きく方向転換し、佐賀・長崎へ続いています。
今回歩く長崎街道は、国道34号線と長い距離で被ることになります。国道は常に交通量が多く飲食店が立ち並び騒がしいです。街道は自然の地形に沿って緩やかなカーブを繰り返しながら佐賀へ続いていたことでしょう。国道はそんな街道を串刺しにするように真上に一直線に造られた様子です。

鍋島藩内の複雑な支配領域
佐賀藩内の散策をする際には佐賀藩の複雑な構成を把握しておくと便利です。今回の散策で立ち寄った村田宿・中原宿は鍋島家の親類が支配していました。以下『佐賀巡り』という中学生向け郷土学習資料を参考にさせて頂いてます。
藩領図を見れば複雑さは一目瞭然です。まず、戦国時代に肥前国を支配していた龍造寺氏。その家臣である鍋島氏が跡を継ぎ佐賀藩主となります。しかし諫早・多久・久保田・須古には竜造寺の庶流が残り、鍋島氏と同格の神代・松浦・後藤など在地の領主も存在しました。これらは領地支配を認める代わりに藩内の重役に就き鍋島氏に従うことになりました。鍋島氏としてはこれら旧勢力の牽制が必要です。初代勝茂の子息を鹿島・小城・蓮池に分家させて御三家とし、さらに親類四家を領内に配置しています。こうして多くの所領が藩内に複雑に分散する状態となりました。

村田宿・中原宿は親類四家の村田鍋島家・白石鍋島家の所領に当たる宿場町です。中原宿は長崎街道の本宿として知られていますが、佐賀藩内には村田宿や安良宿のような宿場町が幾つも存在し、その規模や賑わいは本宿以上のものもあったと言われています。実際、中原宿の直ぐ西に寒水宿があり、こちらの方が栄えていましたが、中原宿は白石鍋島家の宿場町であったため本宿とされたと言われています。

成富兵庫茂安の治水事業
佐賀県杵島郡の瀬戸内海沿岸に白石町がありますが、白石鍋島家の白石と読みが異なります(ややこしい)。白石町と白石鍋島家の所領(現みやき町)は遠く離れていますが無関係ではありません。
竜造寺・鍋島の両家に仕えた重臣で、治水の神様と呼ばれる成富兵庫茂安がいました。茂安は肥後の加藤清正が1万石で召し抱えようと持ち掛けても断る程、竜造寺氏への硬い忠義心を持つ人物でした。鍋島氏とも硬い信頼関係を築き、佐賀藩内の治水工事を一手に引き受けています。例えば、佐賀平野を流れる嘉瀬川が氾濫しても壊れない井堰を造り、佐賀城内や農地に水を安定して供給できるようにしました。(大井手堰・石井樋)。
茂安の携わった治水事業は、筑後川の千栗土居、鳥栖市の五反三歩の堤など100数か所に及び、現場で寝泊まりし作業者と共に働いたと言われています。「守るのは人であって、自然界の中でお互いに制しあうものである。我々人間はこれを利導すれば良い。自然に逆らって、自分の意のままに仕事をやれば思いもよらぬ禍根を残す」と言っています。

また、茂安は白石鍋島家の初代に当たる直弘の教育係でした。嘉永11年(1634)に茂安が亡くなった時、直弘は白石邑(現みやき町)に居を構え、白石鍋島家を称します。この白石は茂安が杵島郡白石(現白石町)に知行を持っていた事に由来すると言われているのです。
今回の散策では茂安が手掛けた五反三歩池と茂安と直弘を神として祀る白石神社を訪れています。

中原宿 散策
散策の始点を轟木宿の薬師川とし、国道34号線に沿って街道を進み中原宿へ。終点は中原宿を出て直ぐの六ノ坪橋とし、最後に大きくルートから外れますが、白石神社を見に行きました。
① 薬師川
では散策スタートです。写真の橋を左に進みます。右は轟木宿です。轟木宿についてはこちらをご覧下さい。

② 長崎街道案内板
街道は工場群の中を通っていて殺風景ですが、写真のような案内板が立っています。奥にこんもりとした朝日山が見えます。新幹線の高架を潜り安良宿へ向かいます。




③ 安良宿の風景
安良宿は朝日山の麓に広がる集落で、旅籠はありませんでしたが「人家40軒ばかり茶屋多し」という記録が残っているようです。轟木宿に近いため、参勤交代時に轟木宿に宿泊客が多い場合はここに分宿していたとのことです。しかし現在は、当時を偲ぶ遺構は残っていません。

安良川を渡ると右に観音堂があります。その先の公民館に安良宿の案内板が立っています。階段を上ると祠があり神社の境内のようですが、何という名の神社なのか分かりませんでした。



④ 朝日山城跡
では朝日山(133m)へ立ち寄ってみましょう。小さな山ですので頂上の宮地嶽神社までは30分位で辿り着けます。車なら頂上付近の駐車場まで上ることができます。頂上の眺めは抜群です。新幹線新鳥栖駅もはっきりと見下ろせます。

朝日山には「ウシどんの足跡」という伝説があります。巨人ウシどんがもっこで山を担いで運ぼうとしていたところ、転げ落ちた山がこの朝日山で、もう一つが小郡市の花立山となったという。ウシどんの足が地中にのめり込んでできた足跡が鳥栖にある堀となったと言います。その堀は現在埋め立てられました。

朝日山は古代から烽火が置かれ、西九州と太宰府を結ぶ交通の要衝に立つ山です。古墳時代には山麓や丘陵地に多くの古墳が造られています。
山城としては建武元年(1334)小弐一族の朝日但馬守資法が築城し、200年間朝日一族の居城となりました。以降は筑紫一族の支城となり、天正14年(1586)薩摩島津軍に攻め落とされています。写真は空堀で、曲輪や畝状竪堀など山城の遺構が残っています。

江戸時代は村田鍋島家の狩猟地となりますが、明治7年(1874)の佐賀の乱では佐賀軍と政府軍の攻防で激しい砲撃を受けています。大正時代には大正天皇が10万の筑後川大演習を一望されました。御野立所道の石碑が立っています。

古墳も含め見所は多く、じっくり散策すると時間が掛かるでしょう。麓はゴルフ場になっており球避けネットのトンネルを街道は進みます。


⑤ 村田宿の六地蔵
ゴルフ場のネットのトンネルを抜けると鳥栖市一本松交差点に出ます。ここで国道34号線と交差しますが直進です。六地蔵が見え、村田町の住宅地を進みます。

江戸時代の村田村は「人家40軒ばかり茶屋、酒屋あり」と記録に残っているようですが、こちらも安良宿と同様、町並みは失われています。町を治めた村田鍋島家の城下町・宿場町として栄えました。写真は公民館の隣に立つ案内板です。道は狭いですが車は多いです。数か所恵比須像が立っていました。

⑥ 村田八幡宮
村田八幡宮は村田鍋島家の惣社です。写真の鳥居は丸みのある肥前特有の肥前鳥居です。また秋には村田浮立と呼ばれる豊作に感謝する踊りが行われているようです。地元ではおくんちと呼ばれているようです。



境内にある天満宮には写真のような像があります。菅原道真が仏像のようになっています。

⑦ 国道34号線
村田八幡宮を後にして街道を進みます。写真は国道34号線との合流地点です。矢印のように今度は右の脇道を進みます。しかしまた国道に合流します。このように国道の左右を街道が通っており離合を繰り返します。

写真は佐賀競馬場前の歩道橋から国道を見渡した様子。一直線のこの道を暫く進みます。

競馬場の先で写真のように街道は左へ曲がります。

⑧ 五反三歩池
五反三歩池とは、治水の神様・成富兵庫茂安が造った灌漑用水池です。五反三歩の広さの水田を潰して造られたことからこう呼ばれています。
公民館の生垣に案内板が立っていますが、椿で覆われて読めなかったのが残念。当時の物と思われる石垣とトンネルが道路下の水路に見えました。草が生い茂り足場が悪いため、近くまで下りて行くのは危険です。

⑨ 大刀洗峠
街道は再び国道34号線に合流し、そのまま西へ進みます。100m程進むと白石東交差点に出ます。ここからの上り坂が大刀洗峠で、現在は何の変哲もない緩やかな坂道ですが、江戸時代は中原宿へ向かう最後の難所だったと言われています。
大刀洗という名はこの峠で旅人を襲う盗賊が盛んに出没し、襲撃に使った刀を川で洗っていたためと伝えられています。オランダ商館の医師シーボルトはその紀行文の中で、その話を聞かされたことを記述しています。交差点の角に案内板があり、昭和45年(1970)の大刀洗峠の写真が掲載されていました。
写真では分かり辛いですが、下には大刀洗川が流れており、そこに民家が今もあります。恵比須像もあったので、江戸時代は今よりももっと下から川を越え峠を越えて行ったと思われます。


因みにこの交差点から佐賀県みやき町です。南へ行けば白石鍋島家の中心地域で、白石神社や白石焼の窯元などがあります。ここはひとまず峠を越えて中原宿へ向かいましょう。
写真は峠頂上のY字路です。矢印のように左へ進みます。ちょうどこの辺りに郡境石があったと言われ、養父郡(鳥栖方面)と三根郡(みやき町方面)の境でした。現在は中原宿の標石が立っています。


⑩ 恵比須像・白石神社の石燈籠
中原宿の直前に三叉路があります。その角の祠には立派な耳たぶをした恵比須像が立っています。南へ延びる道の両脇には白石神社の石灯籠が立っています。
白石神社へはここから1.5km程離れていますが、中原宿から白石神社へ向かう際に使われたルートなのでしょう。また馬頭観音像・山神社もあります。



⑪ 中原宿の風景
中原宿の成立時期はよく分かっておりませんが、正保3年(1646)に幕府に提出された「正保絵図」には宿を示す記号があることから、この頃には成立していたと言えます。
さて中原宿の町並みですが、明治18年(1886)に全80戸中74戸を飲み込んだ大火災により、面影を伝える遺跡がほとんど残っていないのが実情です。以下東から順に見て行きましょう。

中原宿の出入口には木戸があり、東の木戸は中原川を渡って祇園宮へ向かう途中にあったようです。佐賀の宿場町には筑前六宿で見られる構口はなく、代わりにこうした木戸がありました。
祇園宮は素戔嗚尊を祀る神社ですが、ここでは成富兵庫茂安も霊神として祀られているとのことです。

茂安が中原宿で行った治水事業としては中原水道があります。これは祇園宮の西脇に流れる小さな水路です。現在は石柱が立っていますが彫られている文字は読み取れませんでした。

中原宿にあった旅籠は6件で現在も残っているのは写真の岡崎屋です。二階手摺には「中原驛岡崎屋御定宿」と一文字ずつ透かし彫りで表記されています。


岡崎屋の向かいは酒屋跡で陰陽石が立っています。陰陽石とは男女の性器をかたどった石です。子孫繁栄を願ってこうした性信仰は全国的に見られるようです。

岡崎屋から300m住宅地を進んで行くと写真の地点に出ます。ここが西の木戸と言われており、中原宿はここまでです。写真のように矢印の方へ進みます。
矢印の先は中島村で「人家10軒ばかり茶屋あり」と記録にあるようです。中原宿には食事を提供する茶屋がなかったため、この中島茶屋を利用する人が多かったとのことです。

⑫ 夜泣き地蔵
竹藪の方に二体の地蔵像があります。赤子を抱えているのが分かります。

⑬ 六ノ坪橋
散策の終点、寒水川に架かる六ノ坪橋です。「~の坪」という名称は古代の条里制の名残と言われています。川を渡ると寒水宿です。寒水川は水が綺麗でした。隣は三養基高校でチャイムの音やグラウンドから生徒の掛け声が聞こえてきます。


⑭ 白石神社
それでは最後に、中原宿を管轄する白石鍋島家ゆかりの神社へ向かいます。「⑩恵比寿像・白石神社の石灯籠」まで戻り三叉路を南へ、白石神社へ向かいます。

白石神社は文政6年(1823)白石鍋島家第6代鍋島尚章によって創建されました。御祭神は初代白石邑主である鍋島直弘、白石焼の先駆者で第8代の鍋島直暠、治水の神様成富兵庫茂安です。

神社には磁製の燈籠があるようですが、今回は見物できませんでした。また社殿は工事のため柱で支えがしてありました。人気のない静かで落ち着いた空間が気持ち良かったです。

今回の散策はここまでです。六ノ坪橋から神埼宿までの街道散策は下のリンクからご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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