皿倉山が見える街道
今回の散策は、筑前六宿のひとつ「黒崎宿」を出発し、豊前国・小笠原藩の居城「小倉城」までの散策です。その間、およそ10km。現在ではこの区間は北九州市(八幡西区~八幡東区~小倉北区)ですが、かつては筑前国と豊前国とに分かれていました。北九州市は小倉を都心、黒崎を副都心と位置づけていることからも、異なる経済的・文化的背景が両地域にあったことがうかがえます。
国境争いが絶えず、国境石が多く建てられ、今回の散策でも見かけました。

中世には麻生氏がこの地域一帯を支配し、その居城となる花ノ尾城は皿倉山(標高622m)にありました。皿倉山はその頂上からの夜景がきれいなことで有名ですね。この区間、どこを歩いても皿倉山が見えます。その存在感は圧倒的です。昔は高い建物もなかったのでひときわ目立ったことでしょう。

黒崎~小倉 散策
近代日本を支えた八幡製鉄所。その跡に建つ商業施設、都市高速や鉄道がこの地域の発展に貢献しました。福岡市に次ぐ九州第2位の政令指定都市らしく、今回の街道散策は街中散策です。スタートは黒崎宿の「東構口跡」、ゴールは小倉城の入り口にあたる「清水口門跡」としました。
街道は黒崎から八幡へ進むと、スペースワールド跡地の商業施設や博物館のある東田という地域に出ます。このあたりは現在も開発が著しく、都市高速やバイパスが通り分岐します。ここで街道は、戸畑・若松方面の洞海湾沿いではなく、皿倉山の麓・板櫃川の流れる大蔵・高見・荒生田という地域を進みます。

散策日は7月末、最高気温32度。暑さの割には風が強くて心地よかったです。素晴らしい青空と白い雲が一日中続き、今回の散策を最高のものにしてくれました。荒生田の板櫃川と皿倉山の景色がベスト。この記事の冒頭画像です。本当に、本当に、景色が美しい!天候に、自然に感謝です。街道を寄り道することなく歩けば約10kmですが、相当寄り道をしました。9時間近く歩いたと思いますが、楽しかったです。水分補給と休憩をはさみながら無理なく歩きましょう!

① 黒崎宿 東構口跡
さて、スタートとなる東構口跡にやって参りました。ここには海蔵庵という大変古い寺院があります。そしてここから東へ100mほど進むと「黒崎湊の常夜灯」「城石村開作成就の碑」のある田町東交差点。北には黒崎宿を開いた井上周防之房の黒崎城がある道伯山。これらの史跡については「黒崎宿」で散策しました。詳しくはこちらをご覧ください。


街道は写真のように田町東橋という高架下を通り、踏切を渡って国道3号線へ出ます。

② 風景
国道3号線を東へ進みます。写真は陣山二丁目交差点にかかる歩道橋から望んだ道伯山です。

③ 風景
写真はボウリング場が目立つ桃園二丁目交差点。街道はこの交差点で国道を外れ、前田の住宅地へ進みます。

④ 前田の一里塚跡
一里塚とは街道におよそ4kmごとに置かれた道標で、松や榎が植えられていました。馬や駕籠で移動するときの運賃の目安ともなりました。今回の散策では、ここ前田と荒生田に一里塚があります。

⑤ 仲宿八幡宮
街道から外れますが、前田の一里塚から南へ500mほど離れた仲宿八幡宮を訪れました。神功皇后の三韓征伐に由来がある神社で、神功皇后がこの地に中宿りされたことによります。したがって御祭神は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后です。朱色が美しい神社です。

もともとは室町時代にこの地域を支配した麻生氏が、この地に八束髪神社を建立し、京都の八坂神社からスサノオノミコトを勧請したことが始まりです。したがって祇園祭が毎年7月に奉納され、山笠巡行が行われます。前田祇園山笠行事は市の無形民俗文化財に指定されています。私が訪れたのは祭りの後でした。

境内ではちょうど夏越大祓祭の準備で茅の輪づくりが行われていました。茅の輪くぐりとは、正月から半年間の厄をお払いし、心身を清め、夏以降の無病息災・疫病退散・家内安全などを祈願する神事です。

⑥ 前田観音堂
仲宿八幡宮の鳥居から20mほど北に前田観音堂があります。この観音堂は麻生氏が信仰した観音様をお祀りしています。また「帆柱四国八十八ヵ所」の第十三番札所でもあります。
ちなみに、帆柱とは帆柱山のことで皿倉山のことではありません。帆柱山は標高488mで皿倉山より小さく、皿倉山の西側にある山です。

さて、この前田観音堂、江戸時代の伝承「おさよと沢七」にゆかりがあります。内容は次の通りです。
沢七という大分出身の若者は、年貢米を集めて殿様へ納める仕事をしていました。しかし年貢米の増納に耐えかねた百姓は、沢七に増納中止の願い申し出を託すことになります。沢七は役人から目を付けられ、故郷を逃げ出してしまいました。
前田にやって来た沢七は平穏に暮らしていましたが、しばらくすると追手がやってきました。沢七は前田を後にしてまた逃げます。その後、旅芝居の役者になるなどして人気者になるも、また追手に見つかり、再び前田にやってきました。
そのころ前田では、おさよという美しい娘が母親を亡くして諸国巡礼をしており、この観音堂に参籠していました。その美しさは前田の村人のうわさになって、多くの若者が言い寄っていました。沢七とおさよは共に故郷を離れたもの同士、いつしか相思相愛となります。これをねたんだ村の若者が沢七殺害を企て、仲宿八幡宮のお祭りの際に喧嘩を売って殺してしまいました。しかも、前田の浜を牛で引き回し、海岸の松に括り付けて焼き殺すという残忍なやり方でした。これを知っておさよも自殺。
この事件後、村では牛の疫病や不審火・暴風雨が起こり沢七のたたりと恐れられます。そこで黒崎の田町にある浄蓮寺で沢七の霊を慰め、以後異変はなくなっていきました。
『おさよと沢七』
観音堂の右側には沢七の墓があります。これはもともと違う場所にあって粗末な状態になっていたのを大正時代にこの観音堂へ改葬したとのことです。

しかしながら、何とも残忍な殺され方。今でいうリンチです。このような残酷な出来事が昔もあったのですね。昔の日本人は穏やかで道徳心が高く、善良な人たちだったというイメージを抱きやすいものです。しかしそれは一面であり、いつの時代も人間の心はそんなに単純ではありません。私たちの思考は「みんな同じ」という「一般化」に陥りやすいといえます。過去を知り、気づき得る。そこから人間を知り、現在を知り、未来を予測する。これが歴史を学ぶ意味でしょう。
もうひとつ、この観音堂で毎年8月24日に奉納される「前田の盆踊り」があります。市の無形民俗文化財に指定されており、浄蓮寺の檀家である大和家を中心として保存されています。

⑦ 真照寺

⑧ 小伊藤山公園
街道は北九州市立八幡病院へ続きます。病院からJR八幡駅へまっすぐ国際通りが延びており、きれいに整備されています。JR八幡駅も近代的で立派でした。

国際通りの脇には小伊藤山公園があります。この地域一帯の丘陵地を小伊藤山といい、太平洋戦争時にはたくさんの防空壕が造られました。昭和20年(1945)8月8日午前10頃、米空軍による焼夷弾攻撃で付近一帯は焼け野原となり、防空壕に避難した300人が火炎に包まれ窒息死しました。昭和27年(1952)戦災死者を追悼するために公園と慰霊塔が造られました。

⑨ 旧八幡図書館記念碑
北九州市立八幡病院の入り口に立つ煉瓦の壁。これは旧八幡図書館のもので、開館は昭和30年(1955)、閉館は平成28年(2016)です。煉瓦は八幡製鉄所で製鉄の際にできる不純物から生まれたものです。設計は八幡製鉄所で勤務したこともある建築家・村野藤吾。

⑩ 旧百三十銀行八幡支店
街道は国道3号線に合流します。交差点に建つ旧百三十銀行の建物。東京駅の設計で有名な日本近代建築の先駆者・辰野金吾の主宰する辰野・片岡事務所が設計し、大正4年(1915)建造されました。百三十銀行は国の政策で全国に設立された153行のひとつで、大阪を本店とする銀行です。現在はアートギャラリーとして活用されています。

⑪ 豊山八幡宮
同交差点の東にある山。ここに鎮座するのが豊山八幡宮です。この神社も神功皇后の三韓征伐に由来し、弓矢を山中に納め、天下が豊かになることをお祈りされたため豊山とよばれるようになりました。よって、御祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后です。

また、この神社は八幡の地名発祥の由来になっています。明治22年(1889)の市町村制実施の際に、尾倉・大蔵・枝光の村が合併することになります。その三村の氏神様が八幡神社であったため、合併後は八幡村と称したといわれています。

豊山八幡神社でも夏越大祓祭を控えていました。御手水には風鈴がセッティングされ、風を音で感じました。動画は短いですがもっとも風が吹いた時の様子です。
⑫ 東田第一高炉
街道は東田地区へ。ここは八幡製鉄所のあった地域で、現在ではショッピングモールなどの商業施設や博物館が立ち並びます。
東田第一高炉は明治34年(1901)に建てられた製鉄所の建物。建物上部に「1901」とあるのはそれを意味しているのでしょう。昭和47年(1972)に役割を終え、現在は市指定文化財として保存されています。建物下にはパネル展示などがありましたが、建物の老朽化のため立ち入ることができなかったのは残念でした。

⑬ 東田の松並木
街道は都市高速道路の高架下を進みます。平成26年(2014)に北九州市ウォーキング協会が創立50周年を記念してここに松を植樹しました。街道をウォーキングコースとして歩く。歴史を健康と結びつけたのですね。

東田の松並木は国道3号線に合流。東に向かって進むとV字路になっています。街道は右に続くのですが、ここには横断歩道がなく、中央分離帯には柵が設置してあるので、向かい側へ渡ることができません!仕方がないのでこのV字路を左へ進み、「戸畑バイパス下」交差点から右へ曲がって合流しましょう。

⑭ 鶴屋本舗
八幡中央町商店街の一角にある「鶴屋」という八幡饅頭で有名なお店に立ち寄りました。鶴屋は1930年に創業し、製鉄所で栄えた八幡の町の人に愛されてきました。製鉄所が役割を終え、地元経済が落ち込み始めると売り上げが減少し、2014年に閉店となりました。しかし2021年、カフェを備えた店舗となって復活しました。

鶴のマークの入った紙袋に包まれています。見た目は千鳥饅頭です。というのも、飯塚に本店のある千鳥饅頭の創業者の弟さんが作ったからです。「八幡」の焼き印、中は白餡。地域おこしになることを願いながら美味しく頂きました。

⑮ 風景
鶴屋本舗から大通りをおよそ1km。緩やかな上り坂です。頂上まで行くと大蔵交差点です。ここを左へ曲がります。

⑯ 風景
街道は大蔵の住宅地を通ります。古い家屋のある細い道です。


⑰ 高見神社
細い住宅道を抜けると大変立派な神社があります。高見神社は、これまた神功皇后と関わりがあり、戦勝祈願のため現在の東田に天神皇祖十二柱をお祀りしたのが始まりです。

下って明治29年(1896)八幡製鉄所建設により、高見神社は豊山八幡神社の宮前に移されることになります。現在の高見神社は昭和8年(1933)、日本の近代化産業の守護神としてふさわしい神社にするため、国家事業として建立されました。その際、高見の町は八幡製鉄所の高等官舎が立ち並ぶ近代的な都として、京都の条里制に倣った町づくりがなされました。


⑱ 三条の国境石
高見の住宅地の一角に残る国境石。「従是西筑前国」と刻まれ、福岡藩が建てたものです。銘文の筆者は藩の祐筆・二川相近で、彼の筆による国境石は筑紫野市の三国坂にもあります。筑前と豊前の国境争いは激しいものがあり、その境界を明確にするためこのような国境石が多く建てられました。

さきほど高見神社でも述べましたが、高見の町は国家事業として条里制の町が造られました。三条・五条などの名称はそれを表しています。驚きなのは製鉄所関係の方がお住まいなのか、立派なお宅が立ち並び、お庭のガーデニングなど手入れがとても行き届いていて美しいこと。品のある住宅地で違う世界に入り込んだ感覚になりました。

⑲ 荒生田の一里塚跡
高見の住宅地の隣を流れる板櫃川。そこからの風景はただただ美しい。一里塚があるのは四条橋です。前田の一里塚からおよそ4km歩いたことになりますね。


⑳ 荒生田神社
さて、ここから街道を外れて、六条橋から400m川沿いを東へ。荒生田神社に立ち寄りました。案内板によると、荒生田神社は明神社と水神社が合併してできた神社とのことです。
明神社は奈良時代に起こった藤原広嗣の乱(740年)に由緒があります。朝廷での権力争いで勢力を失いつつあった藤原氏。人事で橘諸兄が重用され、広嗣は太宰府へ。これを不満として広嗣が兵を挙げ朝廷軍と戦うことになります。板櫃川はその舞台となりました。戦いに敗れ、最後は逃亡先で殺された広嗣。明神社は彼の霊を弔って建てられました。水神社は、彌都波能売命を祀り、七条橋にあった井堰の守護神として江戸時代に現在地に建てられました。荒生田の産土の神です。

荒生田神社
㉑ 風景
六条橋交差点から右へ。住宅地の中を街道は進みます。


㉒ 風景
写真右下に右下に「旧長崎街道」の標柱があります。

㉓ 九州鉄道茶屋町橋梁
街道を散策しているとよく出会うものに九州鉄道のアーチ橋があります。赤茶色の長い煉瓦と短い煉瓦を交互に積んだイギリス積みが特徴。現役のものも多い中、この茶屋町のものは役目を終えて残っています。
ここに橋があるということは鉄道が通っていたということ。案内板によれば大蔵線という路線が小倉と黒崎(小倉~清水~茶屋町~大蔵~前田~黒崎)を結んでいたとのことです。このルート、まさに今回の街道散策ルートと重なります。それは明治に鉄道を建設する際も、やはり交通の主要路として街道が認識されていたからではないでしょうか。大蔵線は明治41年(1908)に戸畑線(現鹿児島本線)に取って代わられ、廃線となりました。

このアーチ橋、他と違って珍しいのは、写真のように一段ごとに煉瓦が飛び出す立体形式になっている点です。意匠を凝らしているのは、ここがこの大蔵線の主要地域だったからでしょうか。

下の写真は「⑲荒生田の一里塚」に設置されていた案内板から撮影したものです。明治30年(1897)頃の八幡の町の遠景写真と地図が掲示されていました。今から120年位前です。長崎街道と九州鉄道が並走しているのが分かります。それにしても昔は高い建物も何もなかったのですね。その後の開発がいかに著しいか、現在の風景が歴史を通じていかに新しいかが分かります。


㉔ 風景
茶屋町橋梁から東へ200mほど。この点滅信号のある交差点を右へ曲がります。住宅地の同じような景色の中を歩き続けているので、地図をよく見ていないと通過してしまいます。要注意です。

㉕ 水かけ地蔵
住宅地を600mほど進むと見えてくるのが水かけ地蔵堂。案内板には「高野山真言宗水かけ地蔵堂」とありましたので、お堂は弘法大師や八十八か所巡り関係のものでしょう。当の地蔵さまはその外にある地蔵さまでしょうか。柄杓と水盤が横にあります。

奥には池があり、「皇后水」「観音霊水」「弘法の水」などとよばれ、神功皇后や聖武天皇、弘法大師とゆかりがあります。この水が旅人の喉を潤したとのことです。この池にもお地蔵さまがあり、ひょっとしたらこっちが本当の水かけ地蔵なのではないかと思いました。敷地内には長崎街道の石碑、猿田彦大神の石碑、稲荷神社などがありました。

㉖ 円応寺
街道は国道3号線に合流します。その前に寄り道して、円応寺と清水寺に立ち寄りました。写真は浄土宗の寺院・円応寺。案内板によると、江戸時代に香月牛山という小笠原藩お抱えの医者が、ここで医仙堂を立てて医業に励み、数多くの医学書を執筆したとのことです。

㉗ 清水寺
続いて清水寺。円応寺から150mほど東にあります。弁天池のあるこのお寺は、聖武天皇の勅願寺ともいわれ、大変古い歴史があります。慶長五年(1600)細川忠興が小倉城築城に際して裏鬼門にあたるこの地に堂宇を立てて、祈祷所としました。御本尊は千手観音です。


敷地内にはお堂や石碑など多数あり、多くの由緒があるようですが、その中の一つ、旅賓の墓があります。大阪の実業家・橋本豊次郎が、亡くなった行路病者(無名の行き倒れ人)を供養して建てたものです。これは行き倒れた人であっても小倉に来た以上は、旅の客である賓客として弔うのが礼儀である、という志によります。豊次郎は櫓山壮という文化サロンを築いた人物で、妻の橋本多佳子は俳人です。

清水寺は草木が生い茂り鬱蒼としていました。案内板は新しかったのですが、それぞれの遺跡がどこにあるのかがわかりませんでした。寺全体が手入れされていない様子で残念。整備を望みます。
㉘ 風景
写真は国道3号線の清水三丁目交差点付近。ガソリンスタンド横の細い道が街道です。この道をまっすぐ進みます。


㉙ 善龍寺
街道は原町交差点へ出ます。浄土真宗本願寺派の善龍寺の山門が見えます。

㉚ 小倉城 清水口門跡
ようやく終点・清水口門跡へ到着です!小倉城は城を囲むように外堀があり、十か所余りの門がありました。この清水口門はあまり利用されなかったようです。

この先、小倉城下の散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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