境原宿 散策
今回の散策は、神埼宿から佐賀城下までの約9.3kmで、境原宿はその間にある長崎街道の宿駅です。田圃が広がりクリークが巡らされた地域色のある田園風景がこのルートの特徴と言えます。天気が良く清々しい気分で散策できました。観るべきポイントもさほど多くはありませんので、一気にご紹介して行きたいと思います。始点は神埼宿の西木戸口跡、終点は佐賀城の牛島構口跡です。それでは早速行ってみましょう。
① 神埼宿西木戸口跡と城原川の土手道
長崎街道は国道34号線に沿う形で続いていましたが、神埼宿から佐賀城下に掛けては大きく南へ逸れ、神埼市千代田町という地域を歩きます。なお、神埼宿の散策はこちらをご覧下さい。
神埼宿の西木戸口跡を出ると、城原川が南北に流れています。街道はこの川に沿って進み、長いこと土手道を歩きます。
なお今回は見ることはしませんでしたが、周辺には中世の城跡や寺社、古い集落が点在しているようです。もし余裕があれば訪れてみてはいかがでしょうか。



② 新宿と田園風景
2km程進むと新宿という地域になり、ここで西へ折れ曲がります。田圃の広がる道を歩きます。長閑な風景です。そんな中にも道端に散見される恵比須像は、この道が街道であることを教えてくれます。




③ 姉の集落
千代田町姉交差点付近まで来ると古い集落があります。クリークに囲まれ、白壁の家屋が見られます。古い面影が残る地域です。


④ 境原の六地蔵
街道は国道264号線に合流。これに沿う形で西へ進み佐賀城下へ向かうことになります。交通量も少なくありません。
さて、地蔵橋交差点の一角に六地蔵があります。元々はクリークの傍にあり、夏場にクリークが水に満たされるとその殆どが水に隠れてしまっていたとのこと。冬場の水落ちで姿を現し、人々は季節の移り変わりを知ったと言います。

⑤ 境原宿の風景
境原宿は原の町という地域にあり、神埼宿と佐賀城下のちょうど中間に位置していました。境原宿の町並みは、明治7年(1874)の佐賀の乱により大きく失わてしまいましたが、かつては旅籠や商家が軒を連ね、民家も150戸程あったとのことです。数珠が名物という記録も残っています。

それでは東から順に見て行きましょう。まず目に飛び込んでくるのが、浄土真宗本願寺派の浄覚寺。その先、原の町公民館前には「長崎街道 境原宿」石碑と案内板。その敷地内には「境野村役場跡」「吉岡小学校跡」の石碑があります。
境野村は明治期の合併により誕生した村です。今でこそ人気の少ない地域ですが、かつては学校があり子供溢れる賑やかな町だったことが偲ばれます。



川を渡った所には若宮神社があり、かつて長崎街道を行き来した旅人達が、道中の安全と無病息災を祈願したと言われています。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、戦勝祈願のため神馬を奉納したとされ、歴代佐賀藩主も軍馬の安全を祈るため馬を奉納したとのこと。肥前鳥居・肥前狛犬があり地域色が感じられる静寂な神社でした。



写真はニューきたばる店で、ここで畑仕事をしていたおじいさんからお話を伺うことができました。今でこそ閑散としていますが、かつては人で溢れ大変賑わっていたとのこと。テント下には恵比寿像があります。
また店舗と畑の間に道路元標があることを教えて頂きました。「境野村 道路元標」と刻まれており、道路の長さを図る基準点として明治に建てられました。



また、写真のようにこのニューきたばる前で街道は直角に折れ曲がっていたとのことです。宿場町特有の鉤型道路です。
因みにそのまま真っ直ぐ南へ進むと、佐賀藩の支藩である蓮池藩の城下町へ行くことができ、この道は蓮池往還と呼ばれていました。現在ここを進んでも行き止まりです。教えて下さったことをこの場を借りて感謝申し上げます。

なお、蓮池城下の散策はこちらをご覧下さい。
⑥ 郡境石
境原宿を後にして西へ進み、仲田町に入ります。写真は仲田町交差点手前の分岐点で矢印のように街道は進みます。

ここにある郡境石には「従是 東 神埼郡 西 佐嘉郡」とあり、神埼郡と佐賀郡の境を示していました。今でも神埼市と佐賀市の境です。

⑦ 巨勢町の風景(戸次塚・高尾宿・牛島宿)
郡境石から先は佐賀市巨勢町です。街道はこの国道264号線をひたすら西へ真っ直ぐ進みます。佐賀城東端の牛島構口まで約3kmの道程です。風景も徐々に市街地化していきます。

途中、焼原川の隣に戸次塚があります。戦国時代に豊後の大友軍が攻めて来た時、佐賀の龍造寺軍が迎え討ち、見事追い返しました。ここはその戦死者を葬った所です。
戸次とは大友方の武将戸次鑑連のことで、境原に陣を張り、元亀元年(1570)巨勢で鍋島直茂と戦って敗走しました。

巨勢小学校を通過。老人センターバス停付近で、写真のように街道は右へ折れ曲がります。

この住宅地の裏通りを高尾宿と言い、藩主の参勤時には藩士達が居並んでお出迎えしました。巨勢川の南側には藩の御蔵が置かれ物流の拠点でもあったとのこと。また、巨勢川を渡った先の地域を牛島宿と言います。


⑧ 巨勢神社
巨勢川を渡ると右手に巨勢神社の鳥居が見えます。この直ぐ先で左へ曲がり、県道333号線渡った先に巨勢神社の社殿があります。つまりここは巨勢神社の参道なのです。

案内板によると、巨勢神社の由緒は古く、孝徳天皇在位(645-654)の飛鳥時代にまで遡ります。
壱岐・対馬に侵攻して来た異族退治の勅命を受けて下向し、これを退治した巨勢大連。守護としてこの地に留まり、荒野を開き良田となし、巨勢の荘と称します。大連の死後、住民が社殿を建て巨勢大明神としてお祀りしました。
戦国時代に大友氏が攻めて来た時は、鍋島直茂が参拝し戦に勝利したことから、鍋島家の崇敬が篤かったとのことです。

⑨ 真崎照郷記念碑
巨勢神社の鳥居を潜って右側に行くと真崎照郷記念碑が立っています。
真崎照郷は嘉永4年(1851)にこの地に生まれ、測量機器や製麺機械を発明した明治の発明家です。数ある発明の中でも、電気による灌漑はクリーク地帯の農業に欠かせないものとなったと言います。
多くの特許や賞を受賞し、功績は高く評価されました。昭和2年(1927)77歳で死没した郷土の偉人。全く知りませんでした。

⑩ 佐賀城牛島構口跡
牛島宿交差点を直進し、県道264号線を進みます。左手に大きなショッピングモールがあり、その隣を流れる川に沿って街道が通っていましたが、今は消滅しています。構口橋を渡ると佐賀城の最東端に位置する牛島構口です。

牛島構口には木橋、木戸、橋の土台となる石垣、柵、溝、土塁、番所などが築かれ、6つある佐賀城の出入口の中でも立派で厳重な造りになっていたことが史料や発掘調査で分かっています。現在は写真のように構口が再現され公園になっています。

今回の散策はここまでです。この先、佐賀城下の散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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