田代宿

長崎街道

対馬藩の飛び地

田代たじろ(たしろ)は現在、佐賀県鳥栖市の東部に位置しますが、意外なことに江戸時代には対馬藩の飛び地でした。飛び地となったのは「基肄養父きやぶ」とよばれた地域で、肥前国の基肄きい郡と養父やぶ郡の東半分にあたります。

基肄養父が肥前国から分離していたのは、豊臣秀吉が「天正の国割」の際、家臣の小早川隆景こばやかわたかかげに筑前国と筑後国の御井みい郡・御原みはら郡と共にこの基肄養父を与えたからです。

その後、小早川隆景の移封があり、朝鮮出兵で朝鮮との貿易が途絶えていた対馬・宗氏への賠償のため、慶長4年(1599)に宗義智そうよしとしへこの地が与えられました。

日本四大売薬・田代売薬

佐賀県の主要産業である製薬業。田代には久光製薬の本社や工場があり、多くの「サロンパス」の広告を見かけます。それは江戸時代に起こった田代売薬たじろばいやくを起源とし、大きな経済的影響をこの地にもたらしたからです。

サロンパスの広告が目立つ街道の風景(新町)

朝鮮貿易を独占した対馬藩には水牛角・朝鮮人参などの輸入品や医学・製薬法などがもたらされ、それが田代にも影響したと考えられます。配置売薬という商法が行われ、宝暦4年(1754)にはすでにその記録が残されています。配置売薬とは販売先の個人宅を訪問して薬を預け、その半年から一年後に再び訪問し、使われた薬の料金のみを集金する日本独特の商法で、「先用後利せんようごり」ともよばれていました。

久光製薬本社・鳥栖工場(大官町)

田代売薬は薩摩を除く九州一円のみならず四国・中国地方にまで商圏を広げ、富山・大和・近江と並ぶ「日本四大売薬」となったのです。

弘化4年(1847)久光仁平ひさみつにへいは「小松屋」を創業し、孫の中富三郎なかとみさぶろうが明治36年(1903)に引き継いで「久光兄弟合名会社」を設立。久光製薬は「張り薬」に特化したことで大きく発展しました。中富三郎58歳の時に「サロンパス」発売。現在も国民的張り薬として認知されています。写真は「中富記念くすり博物館」前に建つ中富三郎の像。サロンパスを持つ姿は自慢げです。

博物館では田代売薬をはじめ、世界的な視点で現在に至るまでの薬の歴史を知ることができます。田代宿から1.5km程離れた場所にありますが、ぜひ立ち寄ってみてください!

中富三郎の像

田代宿

田代宿は九千部くせんぶ山から派生する丘陵の端に位置しており、歩いていると緩やかな坂になっていることが分かります。町の完成は1650年代と考えられており、人口は1300人位でした。町は北東から南西へかけてN字型に2回折れ曲がっており、順に昌元寺しょうげんじ町(現:しょう町)・新町・かん町・下町(現:大官町)・ほか町という5つの町から構成されています。

対馬藩の代官所が上町に置かれ、現在は田代小学校となっています。新町と上町の間に東構口があったようですが、現在それを知らせる遺構や案内板はありません。また、この付近に寺社が集中しています。下町には上使屋(御茶屋)があり幕府役人や長崎奉行などの高官の宿泊施設がありました。外町には一般旅人の旅籠はたごが立ち並んでいました。町外れには追分石が設置されこの地が交通の要所であったことがうかがえます。

町には所々に恵比寿像や祠が見られました。写真は田代昌町のJA福祉デイサービスセンターにある恵比寿像で、土台の石が大きく目立ちました。

田代昌町の恵比寿像

田代宿 散策

散策のスタートは北東の「田代昌町の追分石」、ゴールは南西の「田代宿の追分石」です。東西の道は国道3号線と国道34号線という大通りを結んでいるためか、車がひっきりなしに通っていますので気を付けてください。

通行量の多い東西の道

なお、原田宿から田代宿までの街道散策はこちらをご覧下さい。

① 田代昌町の追分石

さあ、散策のスタート地点にやって参りました。写真をご覧ください。この追分石から長崎街道とひこ山道に分岐します。

左へ続く長崎街道は大変細いにもかかわらず一方通行ではなく、多くの車が通っていきます。長崎街道は今町・木山口きやまぐち白坂しらさか三国坂みくにざかを経て、筑前国・原田宿へ続きます。ひこ山道は筑後国・松崎宿を経て秋月や修験道の山・英彦山へ続きます。秋月では秋月街道があり豊前国・小倉へ通じていました。ちなみに、このひこ山道を進んでもすぐにJRの線路に阻まれ、先へは進めません。

田代昌町の追分石の分岐点

ところで、佐賀藩をはじめとする九州北西部の諸大名は、参勤交代の際どちらを使ったのでしょうか。実は長崎街道が成立したのは比較的新しく、江戸時代になって間もない慶長十年代中頃(1610年ごろ)までは筑前六宿は未成立だったといわれています。したがって、それ以前はひこ山道を通り、秋月街道を北上して豊前小倉へ向かったのでした。島原の乱のあった寛永14年(1637)には長崎街道が重要な街道として広く使われるようになっています。

追分石には「右 ひこ山 左 こくら はかた」と刻まれています。追分石を見ていつも思うのですが、平仮名で表記してあるのが、柔らかくてなんだか味があっていいなと思います。

田代昌町の追分石

写真は田代宿へ進んだ先の風景。矢印の方向へ進みます。「②道祖神事比良宮」はここを直進です。ちなみに松崎へ向かうには左へ進み、踏切を渡って直進です。

右へ進み田代宿へ向かいます。

② 道祖神事比羅宮

道祖神といえば道案内や通行人を守護する猿田彦命さるたひこのみことが思い出されます。猿田彦命は天狗のような恰好をしていたようで、拝殿内部を覗いてみると天狗の仮面が天井にありました。きっと関係があるのでしょう。

拝殿内の天狗

事比羅宮とは金刀比羅宮のことで、香川県の琴平町に総本宮がある神社ですね。それが道祖神とどのように結びつきがあるのかはわかりません。猿田彦命は田代本村からここへ移転し、事比良神は明暦元年(1655)に勧請されたと伝えられています。

道祖神事比良宮の鳥居
道祖神事比良宮

③ 代官所通用門

この門は上町にあった対馬藩田代代官所の通用門で、ここ新町へ移築されたものと伝えられています。破風には対馬藩宗氏の家紋「丸に四目結よつめゆい」が見えます。木々が生い茂って見にくいですが撮影することができました。

代官所通用門
破風にある宗家の家紋

④ 八坂神社

「田代新町」交差点にある八坂神社。祭神は牛頭天王ごずてんのうことスサノオノミコトですね。永禄6年(1536)に筑後国・御原郡小郡村より勧請され、町中の疫病、農村の病虫害・風水害などを防ぐとして厚く信仰されていました。

田代新町交差点
八坂神社

下の写真のように境内には末社があり、山王神社・天満神社・松尾神社・秋葉神社・大国主命の扁額が掛かっていました。真ん中に三段に重ねた餅みたいなものがありますね。上には鼠がいます。台座には「大国主命」とあります。この造形、珍しいなと思いました。なぜこれが大国主命なのでしょう。謎多き日本の神様です。

境内の末社
大国主命

境内には高杉晋作の漢詩碑があります。案内板をもとにこの漢詩碑を見て行きましょう。

この漢詩は、冒頭「六日 田代驛 寄肥前閑叟かんそう候」とあり、田代を訪れていた勤王派の晋作が11月6日、前佐賀藩主・鍋島直正なべしままおまさ(閑叟)に宛てたものです。佐幕派に圧迫されている勤王派の現状をどうにか打破してもらいたいというメッセージが込められています。

高杉晋作 漢詩碑

当時の対馬藩・田代の代官(奥役)は勤王派の平田大江ひらたおおえでした。そのため、晋作をはじめ多くの勤王派の志士たちがこの地で策略を練ったり難を逃れたりしていたのです。田代を訪れていた晋作は、福岡藩や佐賀藩と連携を図って幕府に対抗する「肥筑合従策ちくひがっしょうさく」を実行に移すため、直正に説得に向かう平田にこの漢詩を託しました。しかし、平田は情勢を静観する佐賀藩によって門前払いとなり、この漢詩も直正に読まれることはありませんでした。晋作は九州を諦め長州へ戻ります。

その後、福岡藩や対馬藩では勤王派の大弾圧が起こり、時勢に大きく乗り遅れることになったのでした。

高杉晋作(案内板)

ちなみに「田代新町」交差点には鳥栖田代郵便局があります。そこに黒ポストがあります。この黒ポスト、長崎街道の宿場町でよく見かけるものです。明治4年(1871)に新式郵便制度が始まった際、街道沿いに郵便取扱所が設置されました。街道も郵便も情報伝達の手段としての歴史があり、黒ポストは地域の活性化を願って設置されています。

宿場町を散策する私には「宿場町の郵便局で黒ポスト」は、もはやおなじみの光景となっています。

黒ポスト

⑤ 昌元寺

八坂神社の次は上町になり、ここは寺社が集中しています。まず天台宗の昌元寺しょうげんじ。昌元寺はもともと昌町(昌元寺町)にあったのをこちらに移転したと伝えられています。背の高い山門が印象的です。

昌元寺 山門

山門をくぐると六体地蔵尊(六地蔵)があります。天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道という六つの世界(六道)を輪廻転生している全ての霊を、成仏の世界(浄土)へ導かれるのが地蔵尊です。つまり、この地蔵尊は六道をさまよう先祖の霊に教えを垂れているのですね。

六体地蔵尊

本堂は改築したのでしょうか、とても綺麗で新しく感じました。その裏には庭園があり、薬師堂がありました。

昌元寺 本堂
昌元寺 庭園

⑥ 西清寺

次は浄土宗の西清寺さいせいじ。境内にあるイチョウは高さ32m、幹の大きさ5.4m、樹齢約4000年と推定されています。確かに立派です。秀吉がこの地を統治する前は筑紫氏が支配していました。このイチョウは勝尾かつのお城主・筑紫広門ちくしひろかどが側室の病気が治ることを祈願して植えたとされています。

西清寺 山門
西清寺本堂とイチョウ(右)

ちなみに、西清寺の参道はプロ野球・広島東洋カープで選手・監督を務めた緒方孝市おがたこういちさんが改修しています。緒方孝市さんは鳥栖市出身なのです。私がプロ野球をよく見ていたころのカープの監督で、懐かしい気持ちになりました。

緒方孝市 参道改修

加えて、西清寺の向かいには紅屋呉服店があり明治元年(1868)創業の老舗です。

紅屋呉服店

⑦ 浄覚寺

次は浄土真宗本願寺派の浄覚寺じょうかくじ。立ち入ることのできる範囲は狭いです。

大抵、お寺の入り口にある掲示板には仏教の教えや名文句が張り出されていますね。私が訪れたときには「快楽は苦しみとともに存在する」と掲示してありました。苦楽はコインの裏表で、どちらか一方だけでは存在しないのですね。苦しみあるから楽しみが分かる。これは、苦しみがなければ楽しみもわからないともいえます。本当に深い真理の言葉です。

浄覚寺

⑧ 東明館跡入口

対馬藩田代には東明館とうめいかんという藩校がありました。藩校とは、江戸時代に藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校です。多くの幕末の志士たちは藩校に通い、明治維新の原動力になったと考えられています。東明館は寛政4年(1792)、対馬藩主・宗義功そうよしかつが鳥栖に稽古所を開いたことから始まり、寛政12年(1800)には東明館の名が冠されました。

藩校によって学びの内容は様々ですが、幕府は朱子学を官学としていたため、東明館でも朱子学と文芸・武術が学ばれていました。また、田代は豊後日田で私塾・咸宜園かんぎえんを開いた儒学者・広瀬淡窓ひろせたんそうと深い関わりがあります。淡窓は文政12年(1819)東明館で出張講義を行い、東明館から咸宜園へ58名もの入門者が訪れています。東明館でも淡窓の教育方針に則った教育が行われたことでしょう。

旧対馬藩校 東明館跡入口

上の写真は田代小学校の向かいに建っている石柱で、「旧対馬藩校 東明館跡入口」とあります。そのまま南の細い道を進むと久光製薬の建物の裏側になり、下の写真のように「旧対馬藩校 東明館跡」の石柱があります。実はこの東明館跡は旧館で、安政2年(1855)に移転して新館が建てられています。その場所が「⑪東明館跡」です。

旧対馬藩校 東明館跡

ちなみに現在、佐賀県三養基郡基山町に東明館中学校・高等学校があります。この学校は藩校・東明館と直接の関係はないようですが、淡窓の教えや学風を継承した藩校・東明館を受け継ぐことを建学の精神として掲げ、1988年に設立されました。学校のHPには「学問は終生の業であり、自己の長所をもって時代に適応した社会有用の実践的人物を育成する」「人材を育成するは善の大なるものなり」といった淡窓の言葉が紹介されています。

⑨ 代官所跡

代官所は現在の田代小学校の校庭内にありました。元和年間(1615~1624)に創建され、嘉永4年(1851)に改築されたことが記録に残っています。全部で60の部屋からなり、一部は二階建てだったようです。

田代小学校 校門

校門の横には線刻恵比寿像が建っています。黒いラインがしっかりと引かれているため絵柄がよくわかります。ニコニコした穏やかな表情など、描写が総じて現代風のイラストみたいです。親しみやすいですが逆にちょっと違和感があります。大抵、石に掘った絵や文字は陽によって影が付かないと判読しずらいものです。こうしてラインを付けてもらうといいですね。

線刻恵比寿像

⑩ 上使屋跡

代官所から先は下町に入ります。現在は田代大官町といいます。上使屋では幕府役人や長崎奉行などの高官が宿泊しました。現在は建物は残っておらず、空き地になっています。

上使屋跡
下町の風景

⑪ 東明館跡

「⑧東明館跡入口」で触れた東明館の新館跡地です。こちらも建物は残っていません。

東明館跡

⑫ 広及舎跡

広及舎こうきゅうしゃは宗家の地主経営組織で、その業務に当たっていた施設です。廃藩置県後の宗家は、旧領内の田畑を所有していました。運営には旧代官所に出仕していた人たちが関わりました。しかし大正時代になると、宗家は土地を手放し、広及舎も解体します。現在は案内板が建っているのみです。

広及舎跡

⑬ 高札場・問屋場跡

広及舎を過ぎると写真のような曲がり角があり、矢印の方向へ進みます。カーブミラーのところに高札場がありました。高札場とはお触書が掲示される場所ですね。また、宿場町が整備される以前は、矢印の方向へ曲がらずに左へ直進していたようです。

以後分岐点となるこの高札場に一里塚を築き、ここから各方面への距離が示されていたといいます。加えて伊能忠敬いのうただたかはここで測量を行っています。小倉まで20里(78.5km)、長崎まで37里(145.3km)に相当する地点です。

高札場・問屋場跡

右の久光製薬の敷地内には問屋場といやばがありました。問屋場とは人や物を移送し、そのための人員や馬を揃える施設ですね。人馬継立じんばつぎたて飛脚ひきゃくなどといい、現在でいうところの運送・郵便業務で宿場町では重要な施設でした。奥には白壁の家屋が見えますね。これは「筑後屋」で蝋絞り業を営んでいました。

高札場跡の隣にある祠

⑭ 田代大神宮

高札場跡を西へ進むと田代大神宮があります。案内板がないのでよくわかりませんが、天照大御神あまてらすおおみかみが祀られていると思われます。境内には「代官藤」があります。きっと4~5月ごろはきれいな花が咲いているのでしょう。

田代大神宮

⑮ 外町天満宮

久光製薬の周りを進んでいきます。街道は緩やかな下り坂になり、このあたりから外町です。外町は先ほどの高札場跡を南に曲がるようにルート変更し、構口かまえぐちを設置しなおしたことによって形成された町といわれています。「年々家が増えていき…」という記録が残っており、一般の旅人が宿泊する旅籠が最も多く立ち並んでいたようで、きっと賑わっていたことでしょう。

久光製薬の周りを道なりに進みます。

外町天満宮の向かいには町本陣(脇本陣・町茶屋)があり、荒木家が務めていました。町本陣は重臣クラスが宿泊する施設です。天満宮は、安永8年(1779)、荒木家所有の畑から菅原道真公の像が出現したため、藩の許可を得て創建されたと伝えられています。志賀島の金印のようですね。このように神仏の像が掘ったら出てきた、川から流れついたなどというエピソードは結構あります。鳥居は大人がくぐるには小さく、脇のクスノキは社殿を圧倒するように際立っています。

外町天満宮
外町の恵比寿像

⑯ 町本陣跡

荒木家が務めた町本陣は現在空き地です。

町本陣跡
外町の風景

⑰ 薬見堂

通りから東へ進んだあたりにある薬見堂。「本尊薬師如来 薬見堂 妙見大菩薩」と書かれた額と、般若心経はんにゃしんぎょうの額がありました。般若心経の末尾に「四国第30番 安楽寺」とありますので、きっと八十八か所巡りのお堂なのでしょう。

薬見堂
薬見堂内の様子

⑱ 田代宿の追分石

今回の散策の終着点・追分石へ到着です!地蔵堂を境に左は有馬藩・久留米へ通じ、右は佐賀藩・驫木とどろき宿へ通じます。長崎街道は右です。

田代宿の追分石

追分石は柵で強固に守られています。文化財を保護するためやむを得ないのでしょうが、風情は失われました。彫られている字は見にくいのですが、頑張って撮影しました。「右 さか 左 くるめ」と平仮名で彫られています。

追分石は膝にも達しない高さです。道標にしては小さすぎないでしょうか。当時の人も屈まずには読めないでしょう。通行人はお堂には参拝しても追分石は見過ごしたのではないでしょうか。アスファルトで舗装され電柱や標識が建ち、車が音を立てて通過する。この当たり前の風景に目が慣れた現代人には、追分石は存在感が薄く感じられるのかもしれません。

田代宿の追分石

この先、轟木宿までの散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。

参考

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