佐賀~牛津 散策
今回の散策は、佐賀城下の西側、本庄江に架かる高橋から始まり、次の宿場町である牛津宿の入口付近に当たる「ふじたサイクル」までです。
総距離は凡そ6.1kmで、佐賀市の嘉瀬町・久保田町、小城市の牛津町を経由します。嘉瀬川まで2.7km、佐賀市と小城市の境界である福所江川まで5.3kmです。街道はほぼ国道207号線に沿って続いています。

① 高橋・若宮神社
高橋の名前の由来は、橋が船の航行の支障にならないように橋桁を高く持ち上げたことから付いたと言われています。
写真右手へ進むと高橋宿・八戸宿を経て佐賀城下へ続き、左手へ進むと嘉瀬町です。街道は写真手前で90度折れ曲がっており、これは嘉瀬方面から押し寄せる敵勢を本庄江で食い止めるためでした。高橋は船着場であり市場として大変賑わっていたようです。

なお、佐賀城下の街道散策はこちらをご覧下さい。
それでは嘉瀬町へ街道を進んで行きましょう。高橋の直ぐ傍にある若宮神社。ここはかつての嘉瀬郷扇町と呼ばれていました。なんと社殿がなくなっています。どうも老朽化で取り壊されたようです。境内は駐車場となり、雑草がぼうぼうです。ちょっと悲しくなる風景でした。

② 苗運寺
苗運寺は曹洞宗の寺院です。苗運寺は、戦国時代に蓮池地域を支配していた小田氏の流れを汲む武将深町光運の子・苗運が先祖を弔った菩提寺です。江戸時代に嘉瀬郷扇町へ移転して現在に至ります。

さて、境内には緞通碑があります。皆様は緞通を御存知ですか。緞通とは肌触りの良い木綿の敷物で、ペルシャや中国がルーツの日本の絨毯です。緞通の発祥は江戸時代中期に佐賀で作られた鍋島緞通と言われています。
鍋島緞通の始まりは、嘉瀬郷扇町の農民、古賀清右衛門。彼が韓国に渡り中国伝来の毛氈(獣毛の敷物)の技術を学び、帰国して始めたのが扇町毛氈です。これが鍋島藩の御用品に指定、鍋島緞通として将軍に献上され、大阪や兵庫にも伝わりました。こうして扇町にある苗運寺には彼のお墓と功績を称えた碑があるのです。
緞通とはどんなものなのか、現在も鍋島緞通を製造している本家鍋島緞通のリンクを付けておきますのでご覧下さい。


③ 別れの松
苗運寺から国道207号線を進むこと凡そ830mで、写真のように矢印の方向へ進み脇道へ入って行きます。ちょうどこの右手にあるのが分かれの松です。

ここから1km程先に刑場がありました。別れの松は、刑場に曳かれる罪人が、見送りの肉親や知人と永遠の別れを告げなければならなかった場所です。早朝、白衣を纏った姿で獄屋を出された罪人は、この松の所にしばらく駕籠を止めて、見送りの者と別れの水盃を酌み交わすことが許されたそうです。松は代々植え継がれて残されているとのことです。

④ 四面神社
別れの松から脇道を進んで行くと写真のように鳥居があります。何の鳥居だろうと思い、北(写真下)へ進むと四面神社がありました。この北へ一直線に伸びる道が参道で、社殿まで約380mもあることからかなり由緒のある神社なのではと思いながら進んで行きました。

四面神社の創建は不詳であるものの、平胤貞が建久3年(1192)に再建したとの記録があるので、それより古い歴史を持つ神社であることが分かります。諌早神・温泉神・支々岐神・千々岩神の四柱を主神とし、天照皇大神他三十社の分霊が合祀されています。

四面神社(四面宮)とはいかなる神社なのでしょうか。古事記では九州ができた時のことを「九州は身一つにして面四つあり」と記しています。面四つとは九州の4国(筑紫・肥・豊・熊曽)のことです。従って四面神社の四面とは九州のことであり、四面神社は九州総守護の神社なのです。
また、修験道の霊山である雲仙を訪れていた行基は、雲仙で出会った四面の神が九州の守り神であると名乗ったことから、四面神社は雲仙のある島原半島を中心に建造されるようになりました。雲仙・島原にある地名を冠した温泉神社や諫早にある諫早神社は実は四面神社なのです。
このことから、嘉瀬町の四面神社も雲仙起源の九州の守り神をお祀りしているのです。また近くを流れる嘉瀬川は有明海へ通じており、嘉瀬は海上交通の要港であり、四面宮の神々は海の守護神としても崇敬されたと言われています。
街道沿いの一の鳥居は第2代鍋島光茂、拝殿前の肥前鳥居は初代勝茂が寄進したものです。鍋島藩の崇敬が篤く、明治維新まで毎年祭費として米五石が寄進されていました。
写真右手に見える神社は佐田神社で、熱病や疱瘡の神様として知られ、豆腐を供えて祈願すれば効験著しいと言われ、古くから参詣者が多かったようです。四面宮について詳しくは下のリンクをご覧下さい。
⑤ 嘉瀬村道路元標・嘉瀬町の風景
街道に戻り西へ進みます。写真は嘉瀬村の道路元標です。道路元標は大正時代に各市町村の役場や中心地に設置され、距離を測るための基準や道路の起終点を意味していました。ここに道路元標があるということは、ここが嘉瀬村の中心地だったことが分かります。

戦後の道路法施行に伴い、道路元標はその役割を終え、現在は道路の付属物扱いとなりました。撤去されたり、開発の過程でいつの間にかなくなったりしましたが、2014年時点で全国で今も2000か所未満が残存しているようです。また道路元標には現存状況を記録する愛好家もいるようです。
嘉瀬町の街道風景は穏やかな住宅地。車一台が通れる道幅でこれは当時の名残でしょう。写真は当時の面影を残した白壁の家屋で、このような家屋がきっと沢山あり賑わっていたことでしょう。


この白壁の家屋の向かいには二十三夜塔がありました。これは月待塔と言い、月待行事という民間信仰があったことを示しています。
月待信仰とは、十五夜や十六夜など特定の月齢の夜に講中と称する仲間が集まって飲食を共にした後、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
因みに、写真左の細い道を抜けると嘉瀬津神社の正面まで行くことができます。

写真は国道207号線との合流地点。別れの松からここまで約730mの脇道でした。この合流地点にも横幅の広い白壁の家屋が残っており、とても印象的です。

⑥ 嘉瀬津神社
嘉瀬津神社は国道207号線沿いにあります。神社については情報がないのでよく分かりませんが、この嘉瀬津という地域は有明海に注ぐ嘉瀬川によって発達した河港で古くから大変賑わっていました。年貢米や様々な商品の輸送業者、日用品の製造・販売業者の店が軒を連ね、千人程の住民が住んでいたと言います。

嘉瀬津は時代によってころころと支配者が移り変わり、江戸時代には鍋島藩から久保田領主へ支配が移りました。久保田は嘉瀬川の西にある地域です。支配者が移り変わることで人が移住して来ます。それと共に人々の暮らしと密接な寺院も移設されるのです。嘉瀬津神社のある大字荻野は元々は嘉瀬川の西側にある集落だったのですが、この地へ地名ごと移転して来ました。
嘉瀬津神社周辺には寺院が沢山あり、これらもほとんどが外の地区からの持ち込み寺だと言います。河港の機能がなくなると久保田領主は、寺院は残して、住民を久保田の土地に移住させました。こうして嘉瀬津は長閑な住宅地として今に至ります。現在も嘉瀬津神社の周りを歩いただけで5つの寺院がありましたが、こうした風景は人と寺院の移動によって生まれたものなのです。
⑦ 法勝寺
法勝寺は臨済宗南禅寺派の寺院で、ここには俊寛僧都の墓があります。写真の石柱は劣化が激しく読み取れませんでしたが、案内板によると「俊寛僧都塔」「治承四年二十三日」と刻まれているようです。ではその俊寛僧都とはいかなる人物であるか御存知でしょうか。

時は平安時代末期の平氏が隆盛を誇っていた時代まで遡ります。治承元年(1177)、京都鹿ケ谷法勝寺で平家打倒の陰謀を企てたとして、法勝寺執行俊寛僧都・平判官康頼・丹羽少将成経は捕らえられ、鬼界ヶ島(薩摩国)に流されました。これを鹿ケ谷の陰謀と言い、源平合戦の契機となる事件で知られています。
翌2年、康頼・成経は赦免となって帰京する際、残された俊寛を哀れんだ伯父の平教盛は、従者と談合し、自身の領地である嘉瀬町荻野(鹿瀬の庄)に俊寛を保護することにします。俊寛はここで法勝寺を開山し、治承3年(1179)に死亡しました。写真中央の丈の低い五輪塔が俊寛の墓と言われています。
法勝寺は京都の法勝寺を真似た美しい大伽藍があり、多くの法塔が建ち並ぶ豪華な寺院であったと言われていますが、数度の兵火で焼失。今ではその面影を微塵も残さない寂しい姿になってしまいました。因みに、俊寛の墓は西日本各地に十数ヶ所存在しているようです。


⑧ 佐賀県立森林公園
嘉瀬川の傍に広がる緑豊かな佐賀県立森林公園は、本格的な野球場を備えています。高校野球の県大会決勝やプロの二軍戦・オープン戦を開催し、佐賀県を代表する野球場です。街道を歩いているとその照明塔はとても印象的です。さてこの公園の中に二つの歴史スポットがあるのでご紹介します。
一つ目は鑑真和上顕彰の碑です。これはここ嘉瀬の港に奈良時代、唐僧・鑑真が上陸したことを記念して建てられました。
ところで鑑真はなぜ唐から日本にやって来たのでしょうか。仏教において僧侶になるには戒律を遵守しなけらばなりません。当時の日本では、戒律を自分で自分に誓う自宣授戒が一般的でした。
しかしその結果、僧侶になることで納税や兵役から逃れようとする者が増えたり、戒律を蔑ろする僧侶が幅を利かせて行ったりして、国政を脅かす事態になりました。
そこで聖武天皇は僧侶に位を与える伝戒師制度の導入を検討します。戒律の僧侶として高名だったの揚州の大明寺の住職・鑑真に戒律を日本へ伝えるよう要請することになったのです。
いつの時代も人はとにかく易きに流れがちで、自分を律することは難しく、誰かの監視の目が必要なのでしょう。
当時の航海は大変危険で、五度目の航海で両目の視力を失い、753年の六度目の企図で沖縄・種子島・坊津(鹿児島)経由で嘉瀬に上陸することができました。
写真中央の白い柵で囲まれた木は、揚州から贈呈された瓊花で、4~5月に白い花が咲くそうです。その奥には『天平の甍』で知られる昭和の小説家井上靖の寄稿文の石碑があります。『天平の甍』は遣唐使船に乗った栄叡・普照を中心とした日本の若い留学僧が鑑真に出会うストーリーです。

二つ目は千人塚です。佐賀藩時代の刑場がここにあり、江戸時代その刑死者を弔うために妙福寺の住職が供養塔(千人塚)を建てました。妙福寺は法勝寺の隣にあるに日蓮宗の寺院です。戦後森林公園の整備により塔は妙福寺へ移設されました。現在は千人塚の跡地に写真のようなお堂が立っています。


⑨ 嘉瀬橋
街道は嘉瀬川を渡り、久保田町へ入ります。写真は嘉瀬橋です。右奥に見える白くて丸いものは公衆トイレですが、恐らく佐賀バルーンフェスタのために設置されたものでしょう。佐賀インターナショナルバルーンフェスタは嘉瀬川河川敷で毎年秋に行われる熱気球の大会。参加機数は110機程でアジア最大規模なのだそうです。

ところでこれはどういう競技なのでしょうか。簡単に言えば、刈り入れが終わった田圃に設置された×印のターゲットを目掛けて正確にマーカーを落としたり着陸したりを競う競技のようです。因みに気球は操縦できないらしく、風を読んで目的地まで進んで行くのだそうです。運任せのようななんだか不思議な競技ですね。子供の時に一度見に来たことがありましたが、天気の良い日に色取り取りの鮮やかなバルーンが浮かぶ景色をまた見てみたくなりました。
⑩ 千鳥饅頭本家
嘉瀬橋を渡って直ぐ、白壁の建物があります。見落としやすい建物ですが、看板には薄っすらと「千鳥饅頭本家」と書かれています。今回の散策で偶然知ったことなのですが、千鳥屋の発祥はここ久保田なのだそうです。ここでは大雑把に千鳥屋の沿革を見て行きましょう。

戦国時代末期、佐賀を支配していた龍造寺政家は病のため隠居。その際家臣の原田家も正家に付き従って天正18年(1590)に太俣郷(現在の佐賀市久保田町)に移住して来ました。
原田家は生計を立てるための内職として酒饅頭などを作り始め、寛永7年(1630)には屋号を松月堂とし、丸ボーロなど本格的な菓子製造を行います。
時は下って昭和2年(1927)、原田政雄は飯塚に松月堂の支店として千鳥屋を開店。この時考案されたのが千鳥饅頭で炭鉱労働者達の土産物として受容され、千鳥屋は飯塚の地域色が付いたと言えます。
昭和14年(1939)に松月堂は閉じられ、千鳥屋は千鳥屋飯塚本店となっています。
戦後の千鳥屋は正雄の息子たちが経営を分担し、最終的には分裂。千鳥屋本家・千鳥屋宗家・千鳥屋総本家・千鳥饅頭総本舗の四社は、同族企業ですが別法人で、それぞれ独立しています。ただし千鳥屋の表示は四社の共通商標です。
分裂した現在の千鳥屋は名称が似ていて混乱を招きますが、間違いなく言えることは、どの千鳥屋もルーツは久保田であるということです。発祥の地と言っても差し支えないでしょう。
⑪ 久保田村道路元標
嘉瀬川から凡そ700mで徳万交差点に出ます。交通量の多いこの交差点の一角に写真のような「くぼた」表示がありました。奥が久保田タクシーです。この向かい側にはあんくる夢市場があり、駐車場入口に久保田村道路元標を発見しました。


⑫ 香椎神社
徳万交差点を直進し、207号線から細い脇道へ入ります。クリーク沿いの道を進んで見えてくるのが香椎神社です。香椎神社は安元3年(1177)地頭である窪田因幡守藤原利常が筑前国香椎宮から御分霊を勧請して建てられました。御祭神は神功皇后・応神天皇・住吉明神です。参道は肥前鳥居・石橋・四脚門から拝殿へと通じています。四脚門は江戸時代初期の建立とされ、県の重要文化財とのことです。境内の木々と赤茶色の瓦が際立って鮮やかでした。


⑬ 久保田宿の風景
香椎神社から西へ進むこと凡そ650m、久保田宿交差点に出ます。その名が示す通りこの辺りが久保田宿で、久保田宿は戦国時代に小城一円に勢力を張った千葉氏が、物資の取引拠点としたことで栄えたと言われています。
久保田の町は昭和初期まで多くの商家が軒を連ねて賑わっていたようですが、現在は閑散としています。当時を偲ぶ遺構はあまり残っておらず寂しいです。

久保田宿交差点の南に位置する安養寺西持院は天台宗の寺院です。この寺院の詳しいことは分かっていませんが、英彦山の修験道との関係が強く見られます。元亀元年(1570)8世法印叡秀は、山伏を率いて龍造寺隆信に味方して参戦し、戦功を挙げています。よって龍造寺氏の崇敬も厚かったようです。

西持院の前から南へ約80mの道は西持院馬場で、この馬場の両側に修験地の坊があり、多くの修験者が各地より集まりました。写真は西持院の境内にある大権現社で、神仏習合時代の名残りを留めています。

写真は久保田宿交差点の西に位置する祇園社で、創建は天保9年(1838)です。当時流行していた災害や疫病を防ぐため、小城の祇園社から分霊を勧請したと伝えられています。

⑭ ふじたサイクル
さて、ここから先はひたすら国道207号線を直進です。久保田宿交差点から1km程で福所江川を渡り、小城市に入ります。道中、特に歴史の面影はなく、田圃やクリークが広がる中、工場やスーパー、住宅が点在しています。交通量は多いです。

福所江川から800m程進むと写真のように分岐します。ふじたサイクルが目印です。ここを左へ進むと牛津宿です。

今回の散策はここまでです。この先の牛津宿の散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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