杵島郡の石炭と六角川
今回の長崎街道散策は小田宿から北方宿までの凡そ8.6km。佐賀県江北町から西へ大町町を経由して武雄市北方町へ歩いて行きます。この地域は佐賀県の中央部に位置する杵島郡です。佐賀県民でもどんな地域なのか分からないという方が多いのではないでしょうか。しかし、この地域は杵島炭田という佐賀県内でも有数の炭田があり、江戸時代末期から昭和まで石炭の産地として栄えた輝かしい歴史があります。杵島炭田は写真に示す通り、県内の二大炭田である唐津炭田・佐世保炭田の内、唐津炭田に属します。

採掘した石炭はどのように輸送したのでしょうか。答えは六角川の水運です。江戸時代この地域を治めていた多久家があります。そこに三代に渡って仕えた深江順房の『丹邱邑誌』という地誌によると、元文4年(1739)に鯨が遡って来たという今では驚くべきことが記されています。六角川の中~下流域は低平地で、実は今でも潮が満ちると海水が河口から30km程離れたこの地域まで遡上するのだと言います。
六角川は降水量が多ければ増水し、大潮と重なると氾濫して洪水を度々引き起こしてきました。これは治水が進んだ現在でも変わらず、2019年の佐賀豪雨で住宅地が浸水した出来事は記憶に新しいと思います。従って人々は川の水位が上昇しても安全な山裾に村を形成しました。そして多くの津(川港)が形成され、採掘した石炭や石材、年貢米などを船で輸送しました。長崎街道はそうした村々を繋いでいるため、山裾を沿うように道がくねくねしています。
大町・北方の街道筋は石炭で栄えた
それではこの地域の炭鉱の歴史を大まかに見て行きましょう。次の写真は慶応元年(1865)に北方宿の大崎八幡神社に奉納された炭鉱絵馬です。当時の石炭採掘の様子や運搬、船積みなどをする様子が描写されている珍しい絵馬です。石炭に関わる仕事が六角川の川沿いで行われていることが分かるでしょう。幕末になると近代化への動きが一足速かった佐賀藩では、軍艦や製煉方、鋳立方の燃料として石炭の採掘は奨励されました。

長崎街道は大町町の市街地を通りますが、その大町町は佐賀県最大級の炭鉱の町として知られています。炭鉱の町を作ったのは地元の資本家である高取家です。高取家はこの地域にある炭鉱を次々に買収・統合し、本格的な開発を推し進めて行きました。次の写真は長崎街道の傍にあった赤坂口炭鉱の様子です。赤坂口炭鉱は明治22年(1899)に操業が始まりましたが、こうした炭鉱は高取家に経営が移って行くことになります。

規模を拡大した杵島炭鉱は昭和4年(1929)大町町を本拠地とし、町民の約6割が炭鉱関連の仕事に従事するまでになります。大町町は杵島炭鉱の企業城下町であり、夜も明かりが消えることのない憧れの大都会だったと言われています。写真は現在の大町町の市街地の様子です。炭鉱が閉鎖された今ではかつての繁栄ぶりが嘘のようですが、古くなった町並みから華やかなりしかつての大町町が思い起こされます。

この地域で杵島炭鉱と並ぶ炭鉱会社が明治鉱業です。写真は昭和14年(1939)に撮影された西杵運炭ケーブルの様子です。北方町にある西杵炭田は明治鉱業が操業しており、そこで掘り出した石炭を1.6km離れた石炭積出場までケーブルを使って搬送していました。まるでスキー場のリフトのようで、きっと目立ったことでしょう。この地域にこんな景色があったとは驚きです。

この頃になると石炭の輸送は船から蒸気機関車に切り替わります。写真は石炭輸送に使われた機関車でJR大町駅の隣に展示されています。戦後はエネルギー源が石油へ移り、昭和47年(1972)に最後まで操業していた西杵炭鉱が閉山になりました。炭鉱の歴史はこうして幕を下ろしました。

この地域の炭鉱の歴史を振り返ると、福岡県の飯塚や直方とちょうど重なります。飯塚や直方では遠賀川が水運として利用され、交易で発達した川沿いの宿場町を結ぶように長崎街道が通っていました。石炭と大河と街道と宿場町…両者に共通するキーワードです。炭鉱に関する資料は焼米溜池の高台にある「きたがた四季の丘公園資料館」で無料で見学することができます。無人の資料館で、月曜が休館日です。

福母八幡宮が伝える土蜘蛛征伐
もう一つこの地域の特色を挙げるなら古代から伝わる神功皇后伝承でしょう。ここではその点について触れたいと思います。大町町の街道筋に福母八幡宮があります。福母とはこの地域の地名で、福の母とは安産・子育ての神様として知られる神功皇后のことであり、この神社の御祭神です。神功皇后にまつわる伝承は九州北部に多く、この地域では土蜘蛛征伐が行われました。

福母八幡宮の由緒によれば、第12代景行天皇がこの地に巡行した時、土蜘蛛の八十女が嬢子山の頂上にいて、天皇の命令に従わなかったのでこれを討伐しました。土蜘蛛とは日本各地に点在する大和政権に従わない土豪を指し、八十女とは沢山の女性という意味で女賊の集団ではないかと言われています。嬢子山は諸説ありますが、福母八幡宮の北方にある435mの鬼ノ鼻山のことではないかと言われています。その後、景行天皇の息子である日本武尊が熊襲の余賊が里人を困らせていたのでこれを討伐し、またその後、第14代仲哀天皇の妃である神功皇后が大鷹老棍・小鷹老棍という凶賊が起こったのでこれを討伐しました。
当時はまだ天皇の支配が全国まで及んでおらず、各地にこうした反抗勢力がいました。中でも肥前には土蜘蛛が割と多いです。また土蜘蛛の中には女の土蜘蛛も少なくありません。土蜘蛛は熊襲や蝦夷のような集団ではなく個人名として登場することが多いと言われています。八十女は個人名ではありませんが、女性を首長とし、多くの女性で構成された集団だったと考えられています。このように女性が権力を持っていたということは、彼女たちが呪術を使う巫女のような立場であり、この地域にシャーマニズムが根強く残っていたことの表れと考えられています。
邪馬台国では鬼道を操る卑弥呼が国を治めていました。邪馬台国が九州北部にあったとするならば、これら土蜘蛛は邪馬台国と地域的な連続性があるように私には感じられます。
当時は大陸から多くの渡来人が九州北部にやって来て、新しい文化や技術が人々の暮らしぶりを変えて行ったことでしょう。しかしそのような中でも原始的な感性を持ち、小規模ながらも自立して暮らしていた人々がいました。彼らは自分たちには受け入れられないことには反発し大和と戦った誇り高き人々です。こうした人々が九州北部に点在していたことを土蜘蛛は教えてくれます。

小田~北方 散策
散策の始点は小田宿の馬頭観音堂、終点は北方宿の本陣跡としました。凡そ8.6kmの道程で、国道34号線が同じように並走しています。交通量の多くて騒がしい国道から一つ離れた長崎街道は割と静かでした。JR佐世保線も並走しており大町駅、北方駅を通過します。
今回の散策では近代の炭鉱と古代の伝承を垣間見ることができます。毎度思うことなのですが、散策する地域が地理的・政治的・経済的にどんな地域であったのかを想像するのは面白いことです。特に古代はロマンがあります。これは街道巡りの醍醐味です。
① 小田宿馬頭観音堂
それでは散策スタート!小田宿のシンボルである馬頭観音堂は、行基が大楠に馬頭観音を彫ったという伝説で知られます。ここから先は山裾の住宅地をひたすら進みます。

歩いていると写真のような古い家屋を見つけました。街道でよく見かける家屋なのですが、老朽化で保護するためか、茅葺の屋根をトタンで覆っているものと思われます。ここから次の横辺田代官所跡まで約1.5kmです。

なお、小田宿の散策については次のリンクをご覧下さい。
② 横辺田代官所跡
小城市牛津町の砥川から武雄市北方町に掛けて、この六角川北岸の地域は横辺田と呼ばれていました。横辺田は佐賀藩の直轄領(蔵入地)で、第8代鍋島治茂が財政難を建て直すためにこの地に代官所を設置し、代官を住まわせて直接年貢の徴収などを行わせました。写真左側に広がる敷地がそれに当たると思います。こうした代官所は7か所あったとのことです。

③ 土井家住宅
横辺田代官所跡を後にして先へ進むと、写真のように古い家屋が所々に見られます。この辺りは静かで落ち着いた雰囲気があり、今回の散策の中で最も街道の面影を残す風景の一つです。

写真は土井家住宅です。19世紀前半に建てられたものと考えられており、明治時代に土井家が所有する前は造酒屋であったとのこと。戸が閉まって中の様子が分かりませんが、土間が広く取られていて奥まで続いているそうです。

こちらの写真は綺麗に整備された白壁の家屋です。現在は行政書士の事務所として使用されています。

④ 大町八幡神社
次の交差点に出ると「郷社八幡神社」の石柱と石燈籠があります。ここを北へ250m程進むと大町八幡神社があるので行ってみました。

大町八幡神社の創建は神亀元年(724)で、来年の2024年に創建1300年の節目の年となります。肥前国養父郡の郡司壬生春成が宇佐八幡宮の御分霊を勧請したのが始まりで、龍造寺氏や鍋島氏から保護を受け、横辺田の総鎮守の神社として多くの崇敬を集めて来たとのことです。何より立派で驚いたのが階段を上った先に立つ楼門です。規模も大きく今も尚、大町の人々から大切にされている神社だと思いました。


⑤ 福母八幡宮
長崎街道は大町町の市街地へ入って行きます。道路の舗装に色が付いており町の中心部に入ったことを知らせてくれます。町の中を歩き続け、この舗装が途切れる所に福母八幡宮があります。

福母八幡宮はJR大町駅から近く、国道34号線沿いに第一の鳥居があって、これは炭鉱王である高取家が奉納しています。柱に名前が確認できます。参道を進んで行くと階段手前に池と石橋があり、立派な神社であることが分かります。


福母八幡宮と土蜘蛛征伐については先述した通りです。福母八幡宮の起源は大宝3年(701年)行基が土蜘蛛八十女の怨霊を鎮めるため石崎明神を祀ったこととされ、その場所はここから560m程離れた「⑧一ノ宮八幡社」にありました。小田では馬頭観音を大楠に彫った行基ですが、この地にもやって来て地元民のために神様を祀っていたのです。貞観8年(866)には神功皇后・仲哀天皇・応神天皇が祀られ福母八幡宮が創建されました。拝殿前にある石灯籠の天辺が鳥だったのは珍しいように思います。


⑥ ヤスマキ
福母八幡宮を後にして街道を進むとヤスマキと呼ばれる開けた場所に出ます。お堂の中に恵比須像と大黒天像がセットで並んでおり、その隣に庚申塔、伊勢講の石塔、一字一石塔があります。
ではヤスマキとは何でしょうか。名前の由来として二つの説があり、どちらも平安時代末期の似たような説です。一つは源為朝が黒髪山の大蛇退治に向かう際に住民が感謝の意を表して酒を献上しました。これに感激した為朝がこの地に幕を張って酒宴を開催。夜に幕を張って酒宴を催したことから「夜酒幕」となったという説です。もう一つは、天野遠景が同じく献上された酒に感激し、流鏑馬を催して酒宴を開いたという説です。

源為朝は暴れ者で父から九州に追放されるような人物でしたが、現在の武雄市にある黒髪山で悪さをしていた大蛇を退治したという伝説があります。牛津宿にある乙宮社はその伝説と関わりがありました。詳しくは次のリンクをご覧下さい。
天野遠景は源頼朝と親交が深く鎌倉幕府のために戦った武将です。九州を治めるために太宰府で活躍し、この地域にもやって来たのでしょう。
因みに道路の向かい側には三界萬霊塔もありました。時々見かける塔ですがどういう意味でしょうか。三界萬霊の三界とは、欲界・色界・無色界のことで地獄から天上の世界を含めたあらゆる世界を指します。萬霊とはそれら世界に住まう全ての霊を指し、これらを供養するのが三界萬霊塔なのです。

⑦ 西福寺
西福寺は曹洞宗の寺院で、創建は元禄(1688~1704)の初期とのことです。境内入口には写真のように観音堂が立っています。正面に見える鮮やかな青瓦の門が印象的ですが、その先を進んで行くともっと立派な鐘楼門があります。
梵鐘は戦時中に軍に供出され、楼門も解体されましたが、昭和25年(1950)杵島炭鉱の高取家によって楼門は再建され、檀徒・信者によって梵鐘も新たに鋳造されました。



今回見学することができませんでしたが、境内には回転経蔵という八角形の経蔵があるとのことです。八面の経架に約3800冊分の経本が収められており一本の心棒で支えられています。これを一回転させると中に収められている全ての経本を読経したことと同じ巧徳があるとされています。なんとお得なんでしょう!こうした回転経蔵は県内では唯一とのことです。

境内左手には杵島炭鉱殉職者慰霊碑があります。案内板によると杵島炭鉱では明治42年(1909)から閉山するまでの60年間で六百数十名の労働者が事故等で犠牲になったとのことです。石炭採掘はそれ程命懸けの作業だったことを忘れてはなりません。

⑧ 線刻地蔵板碑・一ノ宮八幡社
街道をしばらく進むと写真のような丘陵部分に出ます。案内板の立っている所に石造物が沢山ありますが、その中に南北朝時代の応安6年(1373)に作製された線刻地蔵板碑があります。

平たい石の表面に線で地蔵菩薩が刻まれているようなのですが、摩耗していて正直全く判りませんでした。同じ構図の地蔵菩薩像が白石町にもあるそうで、南北朝の戦乱の時代にこの地域の犠牲者を弔うために造られたのではないかと考えられています。

階段を上って行くと写真のようにお社があり、これが一ノ宮八幡社です。行基が土蜘蛛八十女の怨霊を鎮めるために石崎明神を祀った所であり、福母八幡宮が元々あった場所です。古八幡社とも言います。右手に石柱が二本立っていますが、左の方には「一ノ宮八幡建設記念」とあることからもそれと分かります。右の方には「景行天皇 神功皇后 行宮之遺跡」とあり、ここに仮の宮を設置して土蜘蛛討伐に当たったことが分かります。

古くはこの辺りが福母村の中心地で、一ノ宮八幡社の下には汐入川が流れていたと言います。古代ここは海辺・岬だったのでしょう。そう考えると街道筋の山裾のくねくねしたカーブが浜辺や岬に見えてきます。古代の風景が甦って来るようです。
八十女との戦いはこの海辺で行われました。皇軍は八十女の船に火を放つと南風が激しく吹き荒れ、辺り一面が火の海になったとのことです。八十女の船は燃え尽き、全滅。石崎・赤坂の浜には屍が累々と打ち上げられたと言います。この付近には八十女の古墳もあるらしく、次のサイトに詳しいので参照して下さい。
一ノ宮八幡社の少し先に写真のように「鵜池」と鏝絵の付いた家屋を偶然発見しました。よく見ていないと見落とします。

⑨ 赤坂石切場跡
一ノ宮八幡社を後にして街道を進むと国道34号線に合流します。国道をそのまま進むと赤坂という地域に入ります。この赤坂から武雄市です。赤坂は江戸時代の石切場でした。ここから切り出された石材は焼米津から船で運ばれ、白石平野を干拓するための用水路や佐賀城の建設に使われました。写真のように右手に山の丘陵が国道まで迫り出しています。この部分が小高い丘となっており、街道もそこへ通じています。

丘の上には仏像など石造物が幾つもあり、階段の上にはお堂もあります。江戸時代には街道を往来する大名がこの丘の上で野立ての茶を楽しんだと言われています。


ここにある地蔵像については次のような逸話が残っているので紹介しましょう。古事記・日本書紀では景行天皇から仁徳天皇までの五代に渡って仕えた武内宿禰という家臣が登場します。この地に派遣され館を構えていましたが、異母兄弟の甘美内宿禰は武内宿禰が天皇に背いて謀をしていると讒言。無実の罪で追われる立場となったことを武内宿禰は嘆きます。
そこへこの状況を哀れんだ真根子という武内宿禰のそっくりさんが代わりに自刃してしまいます。武内宿禰は大いに悲しみ天皇の元へ戻って無実を証明しました。真根子の魂を慰めるため村人はここに地蔵像を立てたとのことです。
さてこの赤坂という地名ですが、土蜘蛛八十女がこの地で焼死し、その血が流れて岩が赤くなったという逸話から来ています。八十女は志久津彦という恋人がいましたが、志久津彦は景行天皇軍に八十女側の攻撃を密告しました。八十女はその恨みによって焼死したとのことです。確かに国道に面している岩を見ると赤茶色をしています。

⑩ 焼米溜池・六地蔵塔
街道は焼米溜池に沿うように一時国道34号線から外れます。副島鉄工所の先で右に曲がると溜池の方へ行くことができます。途中、写真のように六地蔵塔もあります。

焼米溜池ができたのは寛政12年(1800)で、白石地方の新田開発に伴う灌漑用水の確保と干害を防止するために築造されました。かなり広大な溜池で印象的なスポットです。現代のような機材もなかった時代です。工事に従事した人々の苦労が偲ばれます。山の上に見える建物がきたがた四季の丘公園資料館です。

因みにこの溜池の東側に赤坂砦という古代の防御施設があり、空堀や貯蔵穴、土塁が残っているとのことですが場所が分かりませんでした。土塁壁の岩には古代文字が三つ深く刻まれているとのことなので、絶対に見つけたいと思ったのですが叶わず残念です。恐らく公開していないのではないかと思います。大変興味深い遺跡です。何か情報をお持ちの方は是非お知らせ下さい。赤坂砦は赤坂石切場跡に立っていた案内板にも記されています。参考までにここで掲載しておきます。

⑪ 海童神社
街道は再び国道34号線に合流します。歩いて間もなく海童神社の鳥居が見えてきます。焼米溜池の隣に鎮座する海童神社は海津見社とも言い、御祭神は海の神様である豊玉彦神・豊玉姫神です。神功皇后は三韓遠征に向かう前にここで航海の安全を祈願したとされています。因みにその時に接待した村人達がお茶菓子に煎り米を献上したのが焼米の地名の由来と言われています。

豊玉彦神と豊玉姫神ですが、神話では山幸彦の場面で出てきます。山幸彦が海幸彦の釣り針を探しに綿津見大神(豊玉彦神)の元を訪れ、その娘である豊玉姫神と結婚するのです。
海童神社がここに立てられたのは、やはりこの地が有明海へ通じる六角川に近い川港で、舟便の良い場所だったからでしょう。焼米溜池完成以後は水神の性格も兼ね、多久領主は雨乞いを行ったと言われています。

⑫ 玉垂宮
玉垂宮は海童神社の北側に位置し、焼米溜池ができたことで参道は水没してしまいました。現在ここへ向かうには、きたがた四季の丘公園まで行き、そこから溜池の周りの歩道を進んで行かなければなりません。歩道を進んで行くと写真のように玉垂宮の鳥居の隣に出ます。

山の斜面の階段を下りて行くと溜池です。水中に消える参道は幻想的です。溜池の底には現在も石畳の参道が残っているのかもしれません。階段を上っていくと拝殿があり、その奥には石造りのお社があります。背後が岩山で古代の磐座と思われます。神聖で畏れ多い感じがしました。

さて、玉垂宮と言えば久留米市大善寺にある玉垂宮が有名です。大善寺玉垂宮の由緒によると、御祭神は玉垂命で藤大臣とも呼ばれています。この地を治めていた水沼君は、景行天皇の皇子である国乳別皇子を始祖とし、水沼君がその祖神を祀ったことが玉垂宮の起源とされています。また藤大臣は神功皇后の三韓遠征にも大功があったとのことです。玉垂宮の由緒には謎の部分があるとされていますが、景行天皇や神功皇后と強い関わりがあることが分かります。従って同じく伝承の残るこの地域に玉垂宮があるのも納得できます。

⑬ 焼米宿・焼米の追分・追分観音堂
海童神社から次の追分観音堂に掛けては焼米宿という小さな宿場町でした。案内板によると、焼米宿は船津(川港の町)で旅籠・船宿があり、酒屋や茶屋、日常雑貨店が十数件ある庶民の宿場だったとのことです。写真はJR北方駅付近の町並みで、割と古い家屋が見られました。焼米宿の中心地だったのかもしれません。

写真の地点は「焼米の追分」と呼ばれる街道の分岐点です。長崎街道は北方宿へ向かう彼杵通と鳴瀬宿へ向かう塩田通に分かれます。塩田通へ向かう道は現在エネオスができて消滅しています。けれどもこの国道34号線を150m程進むと北方町追分交差点があり、そこを左へ進めば塩田通と合流できます。

焼米の追分で彼杵通りを進みましょう。すると山際に写真のような階段があります。この山は平安時代に松江氏が一族の後生善処を祈願して経筒を埋納した山です。階段を上った先にあるお堂は松江氏の子孫が結んだ庵で志久庵室と呼ばれています。志久とはこの地域の地名です。今では追分観音堂と呼ばれています。

観音堂の境内には六地蔵塔と十三仏があります。戦国時代に志久村を領有していた橘渋江氏は後藤貴明の配下にあり、龍造寺軍と戦って全滅しました。この六地蔵塔は永禄12年(1569)の銘があり、戦後七回忌としてこの戦いで亡くなった橘渋江一族を供養するために立てられました。

⑭ 一里松地蔵堂
追分観音堂を後にして街道を進みます。住宅地の中を緩やかなカーブを描きながら進んで行くと一里松と地蔵堂があります。松は切断されていました。街道は写真の地点で矢印の方へ進み十三塚へ向かいます。



⑮ 十三塚
十三塚の坂道を登って行くと、右手に地蔵堂と六地蔵塔があります。丘の上は墓地が広がっており、道の右側を沿うように塚が形成され、そこに小さな石柱が等間隔に並んでいます。これが十三塚です。戦国時代に龍造寺氏との戦いに敗れた橘渋江氏の一族百余名が、ここ十三塚で亡くなりました。

十三塚は十三仏信仰に基づいています。十三仏信仰とは、人が亡くなると三十三回忌まで十三回の法要を行いますが、法要の度にそれぞれの仏様が付いており、それぞれの仏様にお参りをすることで報恩感謝の念を伝えるという信仰です。鎌倉時代末期から始まった信仰で、この十三塚の石造物は室町時代から建立されていったようです。

十三塚の街道は人が歩けるだけの幅しかありません。墓地を過ぎると再び国道34号線に出ます。北方町掛橋交差点では写真のように矢印の方へ進みましょう。


⑯ 木ノ本神社
街道は木ノ本という地域に入ります。写真の石造りのお社は木ノ本神社で道路脇に立っています。中を覗くと二体の神像が祀られており、背面には「木元社」と彫られています。外厄が入って来るのを防ぐ道祖神のようなものかもしれません。街道筋は古い家屋を残していますが、私が参考にしている20年前の書籍の写真に比べると、大分朽ち果てたり取り壊されたりしているようです。


案内板には江戸時代に描かれた木ノ本の鳥瞰図が載っていました。稲主神社の手間で直角に二度折れ曲がっているのが分かります。この部分は現在も変わることなく写真のように街道は折れ曲がります。


⑰ 勝満寺
稲主神社に向かう前に浄土真宗本願寺派の勝満寺に立ち寄りました。まず見た目が珍しく葦葺き屋根です。また本堂前の像は親鸞聖人かと思いきや蓮如上人でした。蓮如上人は室町時代に親鸞聖人の教えを広めた僧侶です。

⑱ 稲主神社
稲主神社と聞いて珍しい名前の神社だなと感じましたが、その名の通り稲作の神様(倉稲魂命)を祀る神社として江戸時代、多久邑の人々から篤く信仰されてきた神社です。写真は案内板から撮影したものですが、江戸時代の農耕の様子を描いた絵馬が奉納されたことでよく知られています。

また、この神社が立っている場所は推古15年(607)大連秦河勝が志久官道を開いた時の役所跡で、杵島国の中心地であったと考えられています。秦河勝は古代中国の秦を起源とする渡来人秦氏の族長で、聖徳太子と共に国造りを進めて行った人物です。そんな人物と関わりがあったとは驚きです。

稲主神社にはその起源となる御祭神がいます。それが木之元氏霊神です。案内板には彼にまつわる鎌倉時代の伝承が記されていますので、ここで紹介します。鎌倉幕府の有力御家人で京都の内裏守護職を務めていた源頼茂は、第3代将軍の源実朝の暗殺事件の後、将軍職を伺っているとして謀反の疑いを掛けられます。追われる頼茂はこの地に逃れ、名前を木元夕路木と改めて暮らしていました。
ある時、この地で稲93把が盗まれる事件があり、役人達は新参者である木元夕路木が疑わしいとして厳しく問い詰めました。誇り高き夕路木は盗みの疑いが掛けられたことを屈辱とし、自身の幼子7人の腹を切り裂き、腹の中に米粒一つ入っていないことを役人に見せることで無罪を証明しようとしました。幼子の腹の中にミゾエビとグミの実しか入っていないのを見せられ青ざめる役人。そして夕路木自らも腹を切り、無実を証明して果てました。
その後、この一帯では災厄が立て続けに起こり、全く米が実らない年が続きました。村人達はこれを夕路木の祟りであるとし、神として祀ることを願い出ます。嘉禎元年(1235年)に木元父子の霊に倉稲魂命を配し、稲主大明神として祀るよう勅命が下され、お社が建立されたとのことです。
大変おぞましい伝承ですが、Wikipediaによると源頼茂は京都で追われる立場になった後、向こうで自害しています。従って頼茂と夕路木は実際には関係がなかったと思います。木ノ本で起こった稲の盗難事件は本当に起こったことかもしれません。どちらも共に疑いを掛けられた人物が自害するという点で共通しています。木ノ本の村人達は稲盗難事件の凄惨な顛末を当時京都を騒がせていた頼茂と重ねていったのではないかと私は勝手に推測します。

境内には稲荷神社があり、その両脇に立つ肥前狛犬は単純化され可愛らしいです。


⑲ 高野寺
街道からやや外れますがシャクナゲ寺で知られる高野寺に立ち寄りました。高野寺は1200年余り前に弘法大師空海によって開かれた真言宗大覚寺派の寺院です。日本庭園があり4月にはシャクナゲが綺麗だということで観光名所として知られています。私が訪れた時は日本庭園は公開されていなかったため、事前に調べて行くと良いでしょう。

⑳ 北方宿本陣跡
高野寺を後にすると、そこから先は北方宿まで1km程の一本道です。住宅地の中には所々に古い家屋も見られます。写真は北方宿の本陣跡で、家屋は綺麗に整備され現在も住居として使用されています。

今回の散策はここまでです。北方宿の散策は次のリンクをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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