小倉城下

長崎街道

豊前国小笠原藩の居城・小倉城

小倉城は北九州市小倉北区にある城郭です。江戸時代、小倉城の城主は豊前国・小笠原藩のお殿様でした。一般的に長崎街道は小倉城の常盤ときわ橋をもって起(終)点とされています。そこから東の江戸へ向かう街道は門司往還とよばれ大里だいり宿へ延びています。

小倉城の歴史を大雑把に見て行くと、次のようになります。戦国末期に中国地方を支配していた毛利元就がこの地に平城を構えます。毛利氏が撤退後、大友方の高橋鑑種あきたねが入城します。

その後、秀吉の九州平定で功を挙げた毛利(森)勝信かつのぶが城主となるも、関ヶ原の戦いで石田側についたため追われ、代わって細川忠興ただおきがこの地域の大名となります。小倉城が現在のような形の城になったのは彼のおかげです。そのおよそ30年後、細川氏は肥後の国に転封され、代わって小笠原忠真ただざねが小倉藩主となり、以後江戸時代を通じてこの地を治めることになります。

小倉城の歴史がわかる城内の展示

次は城郭についてです。小倉城には天守閣があり「唐造り」とよばれ、4階と5階の間に屋根がなく5階の方が大きい造りになっています。石垣は切り石を使わないの野面のづら積みという積み方で素朴で豪快と形容されます。

小倉城

城下町は武家と町屋がおよそ半々でその周りを堀が囲んでいました。堀から外部へ通じる門は主に6つあり、それぞれが各街道への出入り口でした。例えば長崎街道の黒崎へ通じる到津いとうづ口門、門司往還の大里へ通じる門司口門があり、この二つの門は交通量も多く見張り番もいました。しかし現在その遺構は失われています。中津街道へ通じる中津口門に使われていた大きな石は、八坂神社の鳥居の下に現在でも残されています。

八坂神社の鳥居と到津口門の大石

明治以降、小倉城には西南戦争に備え歩兵第十四連隊が設置され、日清戦争後の軍備拡大では第十二師団の司令部が本丸に建てられました。

第十二師団司令部の正門

小倉城下 散策

今回の散策は、長崎街道を黒崎からやって来たときに通る「清水口門跡」からスタート。かつての城下町を歩き、大里へ向かう城下町の出口にあたる「門司口門跡」までをゴールとしました。

北九州市内の長崎街道はそれを示す表示が道路に埋め込まれていますので参考にしましょう。

よくあることですが、当時の街道が交通量の多い主要道路と思わぬ所で交差していたりします。現代に造られた道が街道をぶった切っているのです。そこが面白い所ですが、横切るには横断歩道がないので横断歩道がある所まで迂回しなければなりません。

街中は分かりにくい所もあるのでこのような表示は助かります。

長崎街道の表示

① 清水口門跡

清水口門は裁判所の裏の住宅地にあるため見つけにくいかもしれません。案内板によるとこの門は実際ほとんど利用されておらず、幕末には通行もできなかったようです。

清水口門跡

なお、黒崎宿から小倉城のこの「清水口門跡」までの散策は、こちらをご覧下さい。

② 到津口門跡

到津口門はコンビニのそばにあり、清水口門と同じく看板だけが立っています。こちらが長崎街道に通じる出入り口門として一般的に利用されていたようで、数人の見張り番がいたといいます。

到津口門跡

③ 萬徳寺

浄土真宗本願寺派の寺院で、入り口は大通りの方に面しています。このような門近くの寺院は外敵が侵入した際に砦として活用するものだったともいいます。

萬徳寺

④ 神明宮

細川忠興が伊勢神宮を勧請したことによります。伊勢神宮の御師おしに屋敷を与えて住まわせ、御師は豊前国を廻って祈祷をしたり御札を配ったりするだけでなく、お伊勢参りをする者のために宿の予約や連絡など、さながら旅行業者のような役割をしていたと言います。

神明宮

⑤ 心光寺

心光寺は浄土宗の寺院です。

心光寺

⑥ 安国寺

楼門には禅宗安国寺と書かれています。幼稚園の時間だったので中に入ることははばかられました。見ることはできませんでしたが、芭蕉の木像、最上光直・伊達宗興のお墓があります。

安国寺

⑦ 妙浄寺

見ることはできませんでしたが、境内には明星石があります。明星石とは、応永二十三年(1425)日蓮宗の日親上人が佐賀へ向かう際に船が遭難するも、光る岩を頼りに上陸したと伝えられる岩です。

日蓮宗妙浄寺

⑧ 大門跡

JR西小倉駅前にある大門跡。地面にあるガラスから門の石垣を覗くことができます。

大門跡

ここから室町という町通りを進みます。当時は多くの商店や旅籠・本陣が立ち並んで大変賑やかだったそうです。道幅は当時のままで変わりません。

街道の風景

⑨ 黒ポスト

明治の郵便制度施行に伴い、街道沿いの宿場町に郵便取扱所が置かれました。この黒ポストはそれを記念して現代になって建てられたもので、同じようなものを飯塚宿や山家宿でも見かけました。

黒ポスト

⑩ 明治の水準点

明治23年(1890)設置の水準点で現役で使用されています。水準点とは東京湾を海抜0mとしたときの基準となる標石で、土地の高さを精密に求めるために使われます。約2kmごとに設置されました。

明治の水準点

⑪ 小倉県庁跡

明治の初期、小倉藩は小倉県として4年半ほど地方行政を任された時期がありました。その後、福岡県に合併されます。この薄青色の建物がかつての小倉県庁のもので、現在はカフェになっています。

小倉県庁跡

⑫ 八坂神社

城内にある八坂神社は社殿も鳥居も大変立派です。毎年7月に行われる祇園祭は「祇園太鼓」とよばれる太鼓を打ち鳴らすお祭りです。

八坂神社

⑬ 松本清張記念館

松本清張(1909~1992)は小倉生まれの作家。興味深いのが東京杉並区にあった清張の家屋を再現した展示があることです。書斎・応接室・書庫がリアルに再現され、そこだけ当時のまま時間が止まっているようでした。神経質で妥協のない性格が展示から垣間見れます。

松本清張記念館

⑭ 小倉城庭園

小倉藩第五代藩主・小笠原忠苗ただみつが造った回遊式庭園です。

小倉城庭園
小倉城庭園

⑮ 常盤橋

紫川にかかる常盤橋は小倉から延びる各街道の起点とされています。伊能忠敬が測量の起点としている場所でもあります。江戸時代には大水で何度も建て替えられ、橋脚は木製から石製へ変更されました。写真に見える看板横の石は、文政5年(1822)と刻まれたかつての橋脚の一部です。アーチ状の木製の橋は小倉のビル群を背景としてよく映えますね!

常盤橋

⑯ 広告塔・伊能忠敬記念碑

常盤橋の東のたもとに建つ広告塔は、明治の近代化のシンボルとして現在にまで残っています。柱に広告を張り付けていました。現在も広告が張られ、照明も新たに付け加わえられています。

広告塔

広告塔のそばには、伊能忠敬の測量200年を記念した碑が建っています。碑文によると、寛政十二年(1800)55歳で始めた17年にわたる測量活動は、およそ四千万歩、地球一周分に相当するとのことです。偉大な人物に感服せずにはおられません。彼の地図を見ると本当に正確で美しい。大げさかもしれませんが、幕府の命令に命がけで応える、その奉公の気高さは現代人にはないように感じます。

伊能忠敬記念碑

⑰ 参勤交代往還路の案内板

さてここからきょう町のアーケードを進みます。これが門司往還です。夕方になると多くの人でごったがえすほどの繁華街です。江戸時代もこのあたりは多くの商店が立ち並び、旅籠や本陣が何軒もありました。

京町のアーケード

この通りをまっすぐ進むとセントシティというデパートにぶつかりますが、そのままデパート内を横断しましょう。デパートの反対側に出ると再びまっすぐ道が延びていて、やはりこれが街道です。そこには門司往還を伝える案内板があります。

参勤交代往還路の案内板

⑱ 西顕寺

浄土真宗本願寺派の西顕寺は楼門やお堂が大変大きく立派です。さて案内板によると西顕寺のお墓には岩松助左衛門すけざえもんのお墓があるといいます。お墓を確認することはできませんでしたが、小倉城内には彼を称える顕彰碑があります。

西顕寺

彼は長浜浦の庄屋で、58歳で藩命によって小倉藩沖の白洲しらすという遭難が多い岩礁地帯に灯台を建設しようと尽力した人物です。彼は私財を投げ打ち、募金もして決してあきらめることなく取り組みました。灯台は完成することなく助左衛門は亡くなってしまいますが、あとを明治政府が引き継ぎ完成しました。

彼のまさしく滅私奉公の精神、命を懸けて成し遂げようとする一途な精神。これまた伊能忠敬と同じく現代人にはない精神ではないでしょうか。


小倉城内にある岩松助左衛門設計の白洲灯台

⑲ 門司口門跡

街道は海岸の方へ進みます。踏切を越えると高架下に門司口橋が架かっています。日陰にある目立たない橋ですが、この橋が門司口門があった場所になります。つまりここまでが小倉城の城下町だったということです。街道は写真正面の道を続きます。今回の散策はここまでです!この先の散策はこちらをご覧下さい。

門司口門跡

参考

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