神埼宿

長崎街道

櫛田宮と神埼の由来

神埼かんざき宿の象徴と言えば櫛田くしだ宮です。櫛田宮は神埼の地名の由来となった逸話があります。

今から1900年前、この地方に住んでいた荒ぶる神が人々を殺していました。そこで景行けいこう天皇が櫛田宮を創建。無事、神様を鎮めることに成功します。こうして災難がなくなった人々は幸福になり、これによりこの地は神幸かみさき郡と名付けられたとのことです。

また鎌倉時代の蒙古襲来の際には、博多の櫛田神社に神剣を移し、異賊退散を祈願するとその効力を発揮。厄除けや開運の神として崇敬されます。以後も朝廷や武将・歴代藩主から篤く信仰されました。

櫛田宮

六斎市・縁日の賑わい

神埼宿は櫛田宮の門前町として栄え、六斎市ろくさいいちという定期市が開かれました。二日町・四日町・七日町といった地名がそれを伝えています。

また、神埼宿は周辺を含めると25もの寺院があり、こんなに多くの寺院がある宿場町は珍しいとのことです。寺院が多ければ、それだけ縁日も多く開かれます。町は大変賑わったようです。

町中には商売繁盛を願う恵比須像を多く見かけます。写真の恵比寿像は八日町のラーメン屋宝来軒ほうらいけんで見つけました。

恵比寿像(八日町)

佐賀藩の重要な宿場町

神埼宿にはオランダ商館長の江戸参府に随行していたドイツ人医師シーボルトやケンペル、尾張商人の菱屋平七ひしやへいしち、長崎奉行の太田南畝おおたなんぽ蜀山人しょくさんじん)、日本地図を作製した伊能忠敬いのうただたかが訪れています。また、少なくとも400戸程の人家があったと言われています。

佐賀鍋島藩は藩境に位置する轟木とどろき宿と古くから門前町として栄えていた神埼宿を、藩内を通る街道の最も重要な宿場町として位置付けています。藩主や大名が宿泊する本陣(御茶屋)は藩費で運営されました。

また、佐賀城への通り道であることから、幕府役人が下向となると、藩主は神埼まで出迎えることが常でした。寛永14年(1637)の島原の乱で、上使板倉重昌いたくらしげまさらが下向し、800人が神埼宿に一泊した際には、藩の重役は神埼へ出向して下知げち(命令)を請うたと言います。

守りを重視した宿場町の造り

それでは、宿場町の構造を見て行きましょう。

宿場町の南北には馬場川ばばがわが流れており、筑後川・有明海へと通じ、船を使った物資の輸送が盛んに行われていました。川の西側を西水馬場にしみずばば、東側を東水馬場ひがしみずばばと呼び、運送関係の店が立ち並んでいたようです。馬場川の水は町中に巡らされ、神埼宿の町並みを印象付けています。

馬場川の船着き場(国道34号線付近)

宿場町の出入口に当たる木戸口きどぐちは東西に設置され、厳重な構えをしていました。東西の木戸口間は約1.5kmあります。

また、宿場内には鉤型かぎがたの曲がり角が5か所も設けられています。これは敵が侵入した際に、敵が駆け抜けていくのを遅らせ、一般人が通し矢や銃撃を避けられるようしたもので、宿場町でよく見られます。写真は櫛田宮一の鳥居前にある鉤型の道です。

鉤型の道(櫛田宮一の鳥居前)

宿場町の中心は櫛田宮から南北に延びる道で、現在の櫛田通り商店街です。ここは四日町・七日町に当たり、本陣や脇本陣、旅籠はたご、寺院が集中していました。

一般に、宿場町の寺院は要人の宿泊施設として利用されただけでなく、敵に攻め込まれた際の要塞としての機能も備えていたと言われています。

櫛田通り商店街

西木戸口周辺は九日町で主に職人が住んでいたようです。神埼はそうめんでも知られていますが、ここではそうめん製造関係の民家が軒を連ねていたようです。

西木戸口を出ると大きな城原川じょうばるがわが流れています。

九日町

厳重な木戸口、鉤型の曲がり角、要塞にもなる多くの寺院、城原川…これらを踏まえると、神埼宿は比較的守りを重視した町造りをしていると言えるのかもしれません。

神埼宿 散策

今回は宿場町をじっくり散策。始点は東木戸口、終点は西木戸口です。最後に馬場川沿いの風景を見て回りました。

神埼宿は、当時としてはよくあることですが、明和めいわ4年(1767)に悲惨な火災に見舞われています。加えて、明治7年(1874)の佐賀の乱で壊滅的な打撃を受けました。時代と共にかつての町並みは失われ、町は閑散としていますが、町おこしとして整備も進んでいます。櫛田通り商店街や馬場川沿いの道は比較的古い町並みを残していますので、是非歩いて古き面影を感じて下さい。

① 東木戸口跡

神埼宿の出入口に当たる東木戸口は東新町の長橋ながばしが架かっている付近にあったとされ、太田南畝の記録によれば、木製でしとみのように扉を跳ね上げる構造だったようです。開門は明け六ツ時(午前6時)閉門は暮れ四ツ時(午後10時)で木戸番の拍子木を合図に開閉していたとされています。

東木戸口跡

なお、中原宿から神埼宿までの散策はこちらをご覧下さい。

② 円楽寺

円楽寺えんらくじは浄土真宗本願寺派の寺院で、宝永2年(1705)この地に移転して来ました。門には「多門速明の墓」という標識が立っています。

多門速明とは第12世住職で、明治19年(1886)にシベリア開教師としてウラジオストックに渡り教化活動に努め、現地にて死没しました。弘誓ぐせい院と書かれた彼の墓碑が建っているとのことです。浄土真宗は海外にも教えを広めていたのですね。

円楽寺

③ 櫛田宮

円楽寺を西へ進み鉤型の曲がり角を曲がって馬場川を渡ります。写真は櫛田宮の南、一の鳥居の風景です。横町と呼ばれたこの辺りに問屋場があり、飛脚や駅場など運送に関わる業務を行っていました。

鳥居の右には明治時代に距離を測るために全国に設置された道路元標があります。「神埼町道路元標」と彫られています。写真手前には高札場があったようですが、今は何もありません。

櫛田宮一の鳥居

それでは櫛田宮をここから奥へ向かって順に見て行きましょう。主なものだけをここで紹介します。まずは二の鳥居で、この地域特有の肥前鳥居です。柱や笠木が三分割組み立て式になっており丸みを帯びた形になっています。慶長7年(1602)建立で県の重要文化財です。

肥前鳥居

境内には琴の池と呼ばれる琵琶の形をした大きな池があり、その中の島には弁財天を祀った厳島神社があります。芸能音楽の神様です。

厳島神社

太鼓橋を渡り随神門を潜ると拝殿です。櫛田宮の御祭神は、須佐之男命すさのおのみこと櫛稲田姫命くしなだひめのみこと日本武命やまとたけるのみことです。また本地仏ほんじぶつは薬師如来です。

本地仏とは、日本の神様はインド(本地)の仏様の化身であるという思想に基づいた時の、日本の神様に該当する仏様のことです。つまり、櫛田宮の神は薬師如来ということです。

拝殿

拝殿の東にある祇園社には、須佐之男命が祀られていますが、かつては本地仏を祀る本地堂だったとのことです。明治の神仏分離政策により薬師如来像は500m程離れた所に移されています(⑧)。

祇園社

祇園社の隣には神埼そうめん発祥の地の石碑と庚申天こうしんてんの祠があります。

そうめんが神埼の名物となった由来は次の通りです。小豆島しょうどしまより神埼を訪れていた雲水うんすいという男が病に罹り困窮していました。雲水を不憫に思った伊之助いのすけが看病に努めると病は癒えます。雲水はこの恩に報いるため、そうめん製法の秘伝を伊之助に伝授。伊之助は生涯をそうめんの品質改良に努めます。こうして神埼そうめんは生まれ、島原の乱の折には、街道往来の武士達に大変喜ばれたとのことです。

「神埼そうめん発祥の地」石碑・庚申天の祠

拝殿の西側には櫛田宮史料室があります。施錠され入室できませんでしたが、ガラス越しに中を拝見できます。

ここには16~18世紀にアジアで栄華を誇ったオランダの東インド会社が所有していた大砲が展示してあります。日清戦争の戦利品として軍部より櫛田宮に献納されたものです。割と小さいです。

オランダ大砲

本殿の裏には、櫛山くしざんがあります。景行天皇によって鎮められた荒ぶる神(櫛田大神)を最初お祀りした場所とのことで、神埼発祥の地の石碑が立っています。

傍には大蛇退治の酒甕さかがめかたどった災難除けの酒甕石もあります。周辺には、交通安全の神を祀った宗像社、天満宮、商売の神を祀った櫛森稲荷社、食物の神を祀った櫛丸稲荷社があります。

「神埼発祥の地 櫛山」石碑
酒甕石
櫛森稲荷社・櫛丸稲荷社

④ 旧古賀銀行神埼支店

櫛田宮の直ぐ南にある洋風の建物は旧古賀銀行の神埼支店です。

古賀銀行は明治18年(1885)に設立され、北方きたがた炭鉱の出炭量の増加に伴って成長し、大正時代には九州の五大銀行の一つに数えられました。しかし、金融恐慌のあおりを受け、昭和8年(1933)に解散しました。木造平屋建てで、モルタル塗りの洋風建築です。

旧古賀銀行神埼支店

この辺りは四日町で宿場町の中心地でした。古賀銀行の南側には旅籠はたご長崎屋跡があるようですが建物は確認できませんでした。長崎屋は脇本陣格の旅籠で、一般客も泊まることができ、菱屋平七や太田南畝が宿泊しました。

四日町

⑤ 本陣跡

本陣は神埼勤労者体育館にありました。本陣は藩主や諸大名が宿泊する迎賓館のような施設で、御茶屋とも言い、神埼宿の本陣は藩費で賄われました。当時の面影を残す遺跡は残っていません。

本陣跡(神崎勤労者体育館)

⑥ 小林薬局

交差点を直進し七日町に入ります。ここも宿場町の中心地です。まず目に付くのが小林薬局です。ただの薬局かと思いきや店先のショーケースには古い漢方薬や調剤道具が展示されています。またお屋敷の門もあります。実は神埼では歴史のある薬局なのです。

小林薬局は江戸末期に武士の内職から始まったと伝えられ、明治7年(1874)佐賀の乱後、「官許かんきょ・小林三世堂」を初代小林亥八いはちが構えました。現在は4代目が跡を継いでおられます。

小林薬局

偶然、スタッフの方からお声掛けを頂き、お話伺うことができました。初代亥八は、台湾にも薬草の買い付けに行っていたこと。亥八の名が刻まれた門が眞光寺しんこうじにあること。これは実際に確認できました(⑩)。小林三世堂の三世とは仏教でいう前世・現世・来世の意味であること。門は薬局の裏門を移したもので佐賀の乱の戦火を免れたものであること。銃弾の跡が残る門もあったと言います。

因みに門には表札が掛かっており「肥前藩士 官軍 小林熊太郎義忠守」とあることから、この藩士は官軍側であったことが分かります。お話を聞かせて頂いたことをこの場を借りて感謝申し上げます。

ショーケースと家屋の門
薬の展示

⑦ 光蓮寺・明正寺

光蓮寺こうれんじ明正寺みょうしょうじも共に浄土真宗本願寺派の寺院です。

光蓮寺
明正寺

⑧ 櫛田宮の薬師如来像

明正寺の向かいにある細い道を進むと、写真のようなお堂があります。ここに櫛田宮の本地仏である薬師如来像が安置されています。この細い道は見逃し易いです。

薬師如来像は鎌倉時代末期に中央の仏師によって造られたようで、脇侍仏と共に県の重要文化財に指定されています。ガラス越しに拝見することができますが、暗くてよく見えません。因みにこの辺りは辻町です。

薬師如来を祀るお堂

⑨ 原岡住宅

写真の白壁の家屋は、明治時代に精鑞せいろう業を営んだ原岡家の住宅で、神埼宿の中で最も古い住宅建築です。この辺りは二日町で、二日町の原岡家と辻町の古賀家は共にはぜの実の集荷・製造・販売で有名でした。元禄の頃から蝋は農家の換金作物として知られ、櫨の栽培が各地で盛んに行われました。

原岡家住宅

⑩ 浄光寺・眞光寺

町並みは櫛田通りの突き当りで直角に西へ折れ曲がります。ここにある浄光寺じょうこうじ眞光寺しんこうじは共に浄土真宗本願寺派の寺院で、脇本陣として利用されました。シーボルトやケンペルが宿泊しています。小林三世堂の創業者・小林亥八の名が刻まれた石柱が眞光寺にありました。

浄光寺
眞光寺
石柱に刻まれた小林亥八

⑪ 大円寺

大円寺だいえんじは曹洞宗の寺院です。門の入口に建つ地蔵像は台座に大飢饉のあった享保17年(1732)の銘があり、犠牲者を弔うために造られたと言われています。

大円寺

境内には河童地蔵があります。昭和42年(1949)の大水害からの復旧工事の際に、田手たで川の堤防から偶然見つかりました。背中に二か所の窪みがあり像を鎖で繋ぎ止めていたようで、これは河童封じのまじないと考えらています。子供のような穏やかな表情から、子供を水害から守りたいという願いが込められていると伝えられています。

河童堂
河童地蔵

⑫ 西木戸口跡

写真は西木戸口跡で、奥には天満宮があり、その先は城原川じょうばるがわです。神埼宿はここまでとなります。

西木戸口跡

傍に神埼宿場茶屋というお店があり、神埼そうめんで作った神埼コロッケなど食事やお土産を買うことができますので、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

神埼宿場茶屋

⑬ 馬場川沿いの風景

最後に馬場川沿いを散策です。今回の訪問時は櫛田宮付近で河川の工事が行われていたため、写真のように水が土色に濁っていました。綺麗な川沿いの町並みを写真に収めることができず大変残念です。

ここでは神崎小学校から馬場川を北上する順に、主なスポットを紹介して行きます。

馬場川(県道335号線付近)

写真は下の宮神社で、櫛田宮の下宮です。櫛田宮では隔年の4月にみゆき大祭が行われ、本宮と下宮を神輿が往復し、この下の宮神社で一夜を明かします。今は静まり返っていますが、祭りの時は大に賑わうことでしょう。川沿いに植えられた桜もきっと綺麗なことだと思います。

下の宮神社

下の宮神社の裏には神陽しんよう学館跡の標識が立っています。神陽学館は明治39年(1906)中島吉郎なかしまきちろうによって創立された私立学校です。写真の石碑は中島吉郎先生の石碑です。

神陽学館跡・中島吉郎先生の石碑
曹洞宗の泰蔵院たいぞういん
馬場川沿いの古い家屋

円福寺えんぷくじは浄土宗の寺院で、西水馬場側に入口があります。ここまで来ると櫛田宮は直ぐそこです。

円福寺

今回の散策はここまでです。西木戸口跡から次の境原さかいばる宿、そして佐賀城下に至るまでの散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。

参考

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