牛津は九州の難波
「一(市)は高橋、二(荷)は牛津、…」「牛津津でもち、駅でもち、町の栄えは店でもつ」などと謳われた牛津。有明海に通じる牛津川の水運を利用して、各地から多くの物資が牛津で集散されました。江戸時代には長崎街道の宿駅として整備が進み、「九州の難波」と称される程の賑わいを見せたと言います。

牛津には「一荷目籠いない」と呼ばれる行商人が、近郊の農村や遠く離れた山村まで商品を売り捌き、商魂逞しい牛津商人の名を広めました。
そんな商人の町だからこそ、牛津は多くの実業家を輩出しています。玉屋デパートで知られる玉屋は牛津で誕生しました。豪商田中丸家の邸宅と玉屋の倉庫は現在も残っており、牛津会館・牛津赤れんが館として町のシンボルとなっています。
小城藩と牛津宿
中世までこの地域の幹線道路と言えば古代に造られた官道ですが、これは北方の脊振山麓を通っていました。つまり以前は牛津の北方にある小城が中心であったのです。ところが戦国時代末期に龍造寺氏が佐賀に本拠地を移し、鍋島氏が居城を構えるようになると幹線道路は南下し、長崎街道が整備されて行きます。牛津宿の整備もこの頃で、江戸時代の牛津は佐賀藩の支藩である小城藩に属することになりました。

次の写真は牛津宿の図です。ここで大まかに宿場町の造りを見て行きましょう。まず、宿場町に特有の直角に折れ曲がる鉤型が二か所に設けられています。最も賑やかだったのが立町で長崎奉行や諸大名が休憩・宿泊する上使屋(本陣)がありました。
上使屋のみで足りない時は、南に隣接した定原村の大庄屋篠原氏の邸宅や北に隣接した柿樋瀬村の正満寺が当てられました。立町の南の突き当り(現牛津高校)には高札場・馬立場・人馬屋敷、北の突き当りには乙宮社があります。

また寛永9年(1632)初代小城藩主・鍋島元茂の時に、牛津宿の西の六間橋から砥川大橋までのエリアに舸子町(牛津新宿)が設けられ、藩の船着き場や造船所が整備されました。そのさらに西は砥川町です。牛津宿に比べると舸子町や砥川町の方が古い家屋が残り、当時の面影を偲ぶことができます。

因みに、牛津宿は長崎街道において小倉から数えても長崎から数えてもちょうど13番目の宿場町に当たります。長崎街道の中間に位置する宿場町なのです。
牛津宿 散策
九州の難波と呼ばれた牛津も当時の賑わいが嘘のように現在は閑散とし、宿場町の面影も薄れてしまいました。散策の始点を牛津宿東の出入口に当たる「ふじたサイクル」とし、牛津宿・舸子町・砥川町と歩いて、国道207号線と合流する地点の「最勝寺」を終点としました。牛津宿は約1.1km、舸子町は約500m、砥川町は約760mです。
① ふじたサイクル・新宿観音堂
散策スタートです。写真のようにふじたサイクルを左へ進んで行くと牛津宿に入ります。右は国道207号線です。
国道207号線を手前を進むと久保田宿・嘉瀬町を経て佐賀城下へ続きます。この間の散策は下のリンクからご覧下さい。

この交差点の左には新宿観音堂があります。御本尊は千手観世音菩薩で、小城新四国霊場第71番のお堂とのことです。
因みにここは牛津本町ですが、本町はさらに新宿・東町・中町・立町・西町に分かれており、この観音堂は本町の新宿に当たります。今回の散策ではこの順番で本町を歩いて行くことになります。

写真は天満町交差点の手前の風景ですが、ここで気になるお店を発見。「カルチャー焼き オックスフォード(牛津)」という看板が出ています。カルチャー焼きって何だろう?食べたいな…。勇気を出していざ入店です。

カルチャー焼きとは回転焼きの生地の中にマヨネーズで味付けされたお惣菜が具として入っているものです。具は様々でピザ・たまご・コーン・カレー・餃子など18種類。私はたこ焼きチーズを購入。なんとたこ焼きがそのまま入っておりました。まさに味はそのまま。佐賀のB級グルメ、是非ご賞味あれ。因みにオックスフォードとは牛津を英語で意訳したものだそうです。

② 正満寺・天満町交差点の道標
正満寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。正満寺は脇本陣として利用され、文政9年(1826)オランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行していたドイツ人医師シーボルトが、行きはここで昼食を摂り、帰りは宿泊したと言われています。

また正満寺には、小城藩の家臣であり明治の三筆の一人である中林梧竹の書が陰刻された石門と、同じく梧竹の書が陰刻された久本家墓所の石門があります。久本家は小城藩士で牛津で製薬業を営み梧竹と交流がありました。

写真は天満町交差点の一角に立つ道標。比較的最近作られたものと思われます。南へ進むと住之江とありますが、これはこの道を南下して六角川を渡り白石町の海岸部に通じるということを意味しています。

③ 立町の風景
牛津宿で最も賑やかだったとされる立町。現在は綺麗に整備されて新しさを感じますが、人も車も少なくがらんとしていて往時の賑わいは感じられません。歴史や風情が削ぎ落されたような無機質な町並みになってしまっています。残念ですが、所々に立つ案内板から想像力を働かせて行くしかありません。
通りは南北に連なり、南に牛津高校、北に乙宮社があります。南から北へ順に見て行きましょう。

牛津高校のある場所には高札場・郡継場(馬立場)・人馬屋敷がありました。
高札場とは幕府や藩主が定めたお触書が掲示される所です。郡継場(馬立場)・人馬屋敷とは、大名の荷物や奉公などの公的な任務に必要な荷物を保管し、次の宿場町まで搬送するための馬や人員を用意する施設です。

立町の中央部分には継場(馬立場)・上使屋がありました。
継場(馬立場)は郡継場と異なり一般の旅人用の荷物を扱いました。上使屋は幕府の役人や大名が宿泊する高級旅館で、本陣とも言います。牛津宿の上使屋は立町の東の軒並みの三分の二を占拠する広大な敷地で、長屋門があり、邸内には四、五棟の建物を有する大層立派なものであったそうです。運営は小城藩が行っていました。
因みに牛津宿は寛政3年(1791)3月に大火に見舞われ、上使屋も消失しました。しかし復興が進まず、黒田筑前守が宿泊する予定もあったことから、小城藩が佐賀本藩から借金をして建て直し、復興させました。


④ 宝積寺
宝積寺は臨済宗南禅寺派の寺院で、小城町にある大変由緒の古い円通寺の末寺とのことです。写真左に見える六地蔵は天文6年(1537)の銘があり、牛津町内で最も古い肥前六地蔵です。

境内には樹齢600年と伝わる楠の巨木があり、この巨木そのものが観音様です。隣に楠観世音堂、子安観世音大菩薩像が立っています。

⑤ 乙宮社
立町の北の突き当りに立つ乙宮社。牛津の総鎮守であるこの神社の由緒は、当社の宮司西川参河によって記された日記・由緒書きから知ることができます。これらは江戸時代後期から幕末にかけて記されたもので、当時の牛津・小城・佐賀の習俗・生活様式を伝える貴重な資料として小城市重要文化財に指定されています。

乙宮社の由緒は「鎮西八郎為朝の黒髪山大蛇退治」という伝説と関わりがありますので、ここで詳しく触れておきます。
鎮西八郎為朝とは源為朝のことです。為朝は身長2mを越える巨体で気性が荒く、剛弓の使い手であったようですが、乱暴者であったため父為義に持て余され、九州に追放されました。
永万元年(1165)為朝は濱津と呼ばれたこの地にやって来て、鎌倉の鶴岡八幡宮から御分霊を勧請し、若宮八幡神社(現在の乙宮社)を創建しました。

因みに八幡宮の御祭神は、源氏の守り神であり、武家の神様である応神天皇(八幡神)です。若宮とはその皇子を指す言葉ですので、若宮八幡神社は仁徳天皇をお祀りする神社ということになります。
さて、現在の武雄市と有田町の間に黒髪山(516m)という修験道の霊峰があります。そこに七本の角を持つ大蛇が棲み付き、田畑を荒らして里人を苦しめていました。
里人の訴えを聞いて領主の後藤高宗が退治に向かいますが、大蛇は姿を現さず上手く行きません。高宗が朝廷に相談すると、鎮西八郎為朝と協力するよう勅命が下ります。

大蛇退治加わった為朝は美女を囮に大蛇を誘き寄せて攻撃しようと策を練ります。そこへお家事情に苦しかった万寿姫という16歳の娘が自ら申し出ました。
作戦実行です。現れた大蛇の眉間へ高宗が矢を放ち的中、次いで為朝の放った矢が大蛇の右目を貫きます。怯んだ大蛇に一斉に攻撃。大蛇は逃げ出し谷底へ転落。そこを偶然通りかかった行慈坊という盲目の僧侶が急所の喉に剣を突き立て、止めを刺しました。

為朝は大蛇退治の報告祭を若宮八幡神社で行います。その際、為朝は大蛇を退治した証として鱗を三枚剥がして牛に運ばせましたが、鱗があまりに重すぎたため牛は疲れ果てて死んでしまいます。牛の死を悼んだ為朝は、その地に牛の死骸を埋めて供養しました。その場所こそが現在の牛津であり、この地名の由来です。

その後、文治3年(1187)小城藩の家老である田尻家の祖先が、現在の唐津市にある厳木の牧瀬村から牛津へ移住する時、牧瀬村の淀姫神社の境内にあった音宮大明神を合祀しました。この音宮大明神とは宗像三女神のことで、宗像大社の御祭神で、航海や交通安全の神として知られています。
明治6年(1873)に神社は乙宮社と改称されました。このような経緯から、乙宮社の御祭神は大鷦鷯命(仁徳天皇)・宗像三女神(多伎里比女命・多伎都姫命・市杵島姫命)となっています。
さて、乙宮社で是非見て頂きたいのが拝殿の天井絵馬です。佐賀女子高校の教諭で画家の櫻木淳子さんが企画し、地元の高校の美術部生徒によって描かれました。乙宮社や牛津の歴史、長崎街道に関する絵が描かれており地元愛を感じられて面白いです。

牛津宿だけでなく他の宿場町の印象的な風景が描かれていて、街道巡りをしている私としては興味深く、暫く見入ってしまいました。
また拝殿の奥に中殿と言うのがあり、そこには昇り龍の天井絵が描かれているそうです。明治から続く城島旗染工の城島守弘社長自らが描いて奉納されています。今回の散策では気付かず確認できなかったので、また来る機会があれば天井絵馬と共にじっくり見たいと思います。


最後に境内社を紹介します。若宮稲荷神社は京都の伏見稲荷神社から御分霊を勧請して建てられました。稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神(倉稲魂神)。ウカとは食物のことです。従って宇迦之御魂神は食物、取り分け稲の神様になります。延いては農耕・商工業の神とされ、九州の難波と称された商人の町にとっては必要不可欠の神様と言えるでしょう。

因みに稲荷神社に見られる狐は神の使いとされています。宇迦之御魂神は御饌津神とも呼ばれ、このケツが狐の古名であるケツと同音であるため三狐神とも表記されました。稲荷神社の狐はこれが由来とも考えられています。
生目八幡宮の御祭神は平悪七兵衛景清公(藤原景清)です。平安時代末期に平家に仕え、勇猛果敢な武士であったことから「悪七兵衛」の異名が付いたそうです。平家滅亡に伴い中国・九州を転々として落ち延び、一説では源頼朝がその武勇を惜しんで命を助け、現在の宮崎県に当たる日向国に島流しにしたと伝えられています。
そんな景清がこの牛津を訪れ、尊敬する菅原道真を祀る天満神社を創建しました。この神社は天満町交差点の350m程南にあります。その後、牛津の人々が乙宮社に景清を祀る生目八幡宮を勧請したとのことです。
生目と言う生々しい名前が付いている理由は、景清が片目を失明していて、もう片方の目を非常に大切にしていたからと言われています。こうして目の神様、眼病治癒の神様として敬われるようになりました。


最後に、境内の石灯籠にある「獻灯」の文字は中林梧竹の書を陰刻したものです。
神社は案内板も充実しています。是非拝殿に上がって色鮮やかな天井絵馬をご覧下さい。

⑥ 牛津赤れんが館・牛津会館
玉屋デパートの発祥はここ牛津であり、文化3年(1806)田中丸市兵衛が始めた荒物商がその起源です。跡を継いだ田中丸善蔵は明治3年(1870)に呉服商へ転換。商才と激動の時代を見通す力があった善蔵は商売を発展させ、大正時代の好景気には九州を代表する財界人になりました。
大正9年(1920)の二代目善蔵の時、佐世保の支店を百貨店方式にし、佐世保玉屋が開業。以後、玉屋は福岡・佐賀・長崎へ展開。平成18年(2006)には創業200周年を迎えました。
写真の煉瓦造りの建物は、明治の呉服商時代に造られた倉庫です。戦時中は軍事工場として使われ、現在は演奏会などのイベント会場として利用されているようです。牛津赤れんが館は、商業都市として発展してきた牛津を象徴するものとして大切に残されています。平時は中に入れません。

建築の特徴としてはドーム状に撓んだ屋根と妻飾りの丸窓、オランダ積みと呼ばれる煉瓦の積み方です。煉瓦の積み方には数種類あり、直方体の煉瓦の長い面(長手)と短い面(小口)をどのように並べていくかの違いです。
同時期に造られた煉瓦造りの建築物として九州鉄道のアーチ橋が知られていますが、これらはイギリス積みです。イギリス積みは長手だけの列と小口だけの列を一段おきに積み重ねます。
オランダ積みはイギリス積みと基本は同じですが、角の処理が異なります。イギリス積みは角で長さの帳尻を合わせるために小口よりも小さい正方形サイズの煉瓦を端に付けますが、オランダ積みは長手でも小口でもない中間の長さの煉瓦を端に付けます。

煉瓦の積み方について、詳しくはこちらのリンクをご覧下さい。
倉庫に隣接して建っている和風建築物は田中丸家の邸宅です。現在は牛津会館として公民館のように使われているようです。無料で中に入って見学できます。一部雑然としていましたが、お座敷から庭を眺めると美しさを感じました。庭には田中丸善蔵の胸像が立っており、邸宅内部の柱には米軍の戦闘機の銃撃を受けた弾の跡も残っています。



⑦ 西宮神社
牛津赤れんが館から北へ約400m、江津交差点の一角に西宮神社があります。西宮神社の総本宮と言えば兵庫県西宮市にあり、御祭神は恵比須神・蛭子神です。
日本神話で伊邪那岐神・伊邪那美神の最初の子として蛭子は登場しますが、障害を持っていたため葦舟に入れて流されます。流れ着いた西宮で、人々から夷三郎殿と呼ばれました。そこから七福神の恵比須様と同一視され、商売繁盛・海運守護の御神徳があるとされました。古くから川港で栄えた牛津に西宮神社が建てられたのも理解できます。

驚いたのは大化2年(646)に御分霊が勧請されたと伝わっていることです。大変古い時代からこの地域が栄えていたことを示しています。写真の鳥居は一般的な鳥居と形が異なっていて、額束に鍋島家の家紋が付いています。代々小城藩主の崇敬も厚かったようです。

⑧ JR牛津駅
JR牛津駅は赤れんが館を模した造りになっており、隣接する広場には牛津宿を描いた大きな絵が掲げられています。宿場町の景観は失われてしまいましたが、かつての繁栄を知らせてくれる数少ないアピールスポットです。ただし、駅前広場が工事中だったため、絵をじっくりと見ることができなかったのが残念でした。


⑨ 舸子町の風景
牛津江川に架かる六間橋。ここから砥川大橋までの約500mの区間が舸子町あるいは牛津新町です。寛永9年(1632)に初代小城藩主・鍋島元茂によって設けられ、船着場や造船所が整備されました。
写真はJR牛津駅方面を望んだ六間橋で、橋の袂には恵比須像が立っています。恵比須像は舸子町でもあちこちに見られました。それでは舸子町を東から西へ順番に見て行きましょう。

写真は牛津江川と六間橋を南方から撮影したところです。写真手前にはJRの線路が通っており、そこを渡ると千代田サプライという会社の敷地になっています。その一角に御蔵跡があります。ちょっと失礼しちゃいましょう。

写真は御蔵跡に立つ案内板です。小城藩の年貢米の倉庫で、ここから帆船で大坂の蔵屋敷へ輸送していました。年貢米などの物産品は大坂の米市場で販売・換金され、藩の経費に宛てられました。因みに、この隣には稲荷神社もあります。

六間橋を渡ると写真のような舸子町の一本道です。トタンで覆われていますが、おそらくこれらは茅葺屋根の古い家屋で、このような家屋が散見されます。写真左の電柱から左へ進んで行くと、大乗庵です。

大乗庵の外見は一般の家屋のようで趣が失われていますが、小城町にある日蓮宗の光勝寺の末寺・隠居寺です。日蓮宗の寺院では南妙法蓮華経と刻まれた題目塔が立っていますが、境内にある題目が記された板碑は寛正3年(1462)の年号が記され、牛津町では最古のものだそうです。

新町公民館は六間橋から150m程進んで左に曲がった所にあるのですが、分かり辛いです。実はこの公民館が円通庵という黄檗宗の寺院で、これも小城町にある星厳寺の末寺・隠居寺です。星厳寺は小城鍋島家の菩提寺で、五百羅漢でも有名な立派な寺院です。円通庵は小城藩主が牛津・芦刈方面に視察の際に休憩所として使われました。

円通庵の御本尊は聖観音菩薩。その坐像は石造で、黒漆を下地に塗り、その上から金箔を張り付けた非常に珍しいものと言われています。残念ながら中に入って見ることはできませんでしたので、案内板にあった写真を掲載しておきます。

街道を歩いていると正面の山に白いドーム状の建物があることに気付きます。非常に目立つこの建物は肥前仏舎利塔と呼ばれており、日本山妙法寺大僧伽という宗教法人が創建しました。仏舎利塔とはお釈迦様の遺骨を納めた仏塔です。写真奥に肥前仏舎利塔が見えます。また右手には西宮社があります。


写真奥の坂を登ると砥川大橋です。この右手近辺に江戸時代に酒造業・精蠟業を営む野田家がありました。安永元年(1772)から安政5年(1858)までの87年間に渡る、人の往来や周辺の出来事が記された野田家日記は当時を知る貴重な資料として知られています。

⑩ 砥川町の風景
牛津川を渡す砥川大橋。ここを渡ると砥川町です。写真に見える橋は牛津大橋で国道207号線。多くの車が行き交っています。山と川が広がる美しい風景です。

砥川町はこの国道207号線と並行するように続きます。写真は橋を渡って坂を下りて行く時の風景です。下りて右手に雉ノ森稲荷神社があります。


砥川町の町並みは鋸の歯のようにギザギザになっており、これは家の窪みに身を隠し、侵入した敵を攻撃したり流れ矢に当たるのを防いだりするためのもので、佐賀城下の八戸新宿でも同様のものが見られます。現在は道路整備によりギザギザしていませんが、写真のように道路の白線がくねくねしている様は、その名残です。

国道207号線との合流地点にやって来ました。写真左手の寺院は浄土真宗本願寺派の最勝寺です。

今回の散策はここまでです。なお、この先の小田宿までの散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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