黒崎~木屋瀬

長崎街道

黒崎~木屋瀬 散策

今回の散策は黒崎宿から木屋瀬宿まで長崎街道を歩くことです。黒崎宿・木屋瀬宿につきましてはこちらをご覧下さい。

街道は国道200号線に沿う形で続いており、丘を四回ほど越すような起伏のある道となっています。スタートは曲里まがりの松並木でゴールは木屋瀬宿の東構口・江戸あかりの民芸館としました。黒崎宿から木屋瀬宿まで二里三十一町、およそ11kmです。では早速行ってみましょう。

① 曲里の松並木

写真は黒崎宿からほど近い曲里の松並木の北側出入口です。江戸幕府は全国の街道に松や杉を植樹させ、ここ曲里にも松並木がありました。当時から生えているのはわずか二本のみとなっており、ほとんどは昭和後期に新たに植樹されたものです。現在はきれいに整備されています。町中とは違う清々しい雰囲気があります。

曲里の松並木
江戸時代から残る松

② 幸神神社

松並木の終わりにあたるところに、幸神さいのかみ神社があります。このあたりは幸神という地域で、おそらくこの神社が地名の由来になっているのだと思います。御由緒書きがあるのですが、残念ながらかすれて読めません。しかし、道案内の神様である猿田彦命を祀っているのは確かでしょう。猿田彦命は村や町の境などで悪霊や疫病が入ってくるのを防ぐ「くなとの神」や「さいの神」とよばれる道祖神でもあります。

幸神神社

③ 幸神の一里塚跡

幸神神社から100mほど行くと一里塚跡があります。一里塚は街道筋に建てられた里程標で、一里およそ4kmごとに造られ、榎や松が植えられていました。ここには松が植えられていたようです。今回の散策では三つの一里塚跡を通ることになります。

幸神の一里塚跡

④ 古街道碑

写真では、道路右側にあるローソンの看板下の茂みに「古街道碑」と彫られた石碑があります。古街道とは長崎街道のことでしょう。草で隠れてしまっているので、取っ払ってほしいものです。正面の坂を登ると国道200号線の大通りに出ます。

古街道碑

⑤ 風景A

国道200号線を進みます。緩やかな坂道です。写真の地点は国道に面する京良城きょうらぎ公園の入り口の様子です。街道は国道に沿って進みますが、言い伝えによると、この公園入って左の道はさらに古い中世から存在する道のようです。この丘を迂回するようにして、また500mほど先で長崎街道に合流するようです。

中世の道との分岐点

⑥ 風景B

国道は坂道を下って、写真の引野口交差点に出ます。高架は北九州都市高速道路です。

引野口交差点

この交差点を過ぎてすぐ、写真のように住宅地へのびる細い道が左にあります。こちらが街道です。

住宅地の方へ進みます。

写真は割子川にかかる橋の風景です。先述した中世の道はこのあたりで合流するようです。この先、街道は再び緩やかに上ります。

割子川橋の風景

⑦ 上の原の蛭子神社

写真は上の原一丁目交差点にある蛭子神社です。今回散策して気づいたことなのですが、このあたりは八十八か所の霊場巡りの地であることが分かりました。つまり、四国にある八十八か所霊場巡りの地方版です。東にある帆柱山にちなんで帆柱新四国霊場とよばれ、この蛭子神社の隣にある石仏などが第六十五番札所のようです。

上の原の蛭子神社

⑧ 涼天満宮

街道は丘の頂上にある「中のはる」交差点で国道に合流します。その一角にあるのがすずみ天満宮です。涼天満宮は菅原道真を祀っていますが、その名の由来は、境内にあった大きな松の下で街道をゆく旅人が休憩したことによります。また江戸時代に熊部新治郎という人がここで休憩した際、お金の入った荷物を忘れてしまったものの、翌年戻ってきたらそのまま残っていたという逸話もあります。「かね懸けの松」とよばれた当時の松は、現在は残っていませんが、石碑とともに新しく松が植えてありました。

涼天満宮
社殿の右奥に新たに植えられている「かね懸けの松」

⑨ やから様

中の交差点のもうひとつの一角にやからさまがあります。石碑によると、太宰府へ落ちのびようとした平家の女性二人とその稚児がここで疲れてて野宿することになります。しかし、追手の源氏が稚児の夜泣きに気づき探して殺そうとしたため、女性達は自害しました。地元の人がこの女性と稚児を弔ったのがこのやから様といいます。

やから様

さて、ここ中の原交差点には涼天満宮とやから様があるわけですが、もうひとつ挙げるとするならこの交差点は中間・底井野そこいのと続く底井野往還という江戸時代の街道の分岐地点でもありました。往還へは交差点を右に曲がり、さらに左に曲がります。

中の原交差点
手前を左に曲がると底井野往還

底井野往還についてはこちらをご覧下さい。

⑩ 風景C

中の原交差点を後にして国道を進みます。下り坂が続くこのあたりは町上津役まちこうじゃくという地域です。そして再び緩やかに上り、町上津役東交差点という写真の交差点に出ます。右側の細い道が街道なのでそちらに進みます。

町上津役東交差点

⑪ 町上津役の蛭子神社

細い道に入って間もなく蛭子神社があります。町上津役公民館の隣です。この地域の産土の神で事代主命を祀っています。ほか幸神尊天と貴船社の石塔があります。

町上津役の蛭子神社

⑫ 八児地蔵・町上津役橋・小嶺一里塚跡

住宅地を街道は進みます。そして八児やちご小学校が見えてきます。写真は学校の向かいにある八児地蔵です。

八児地蔵

そしてそばを流れる川が金山川で、地蔵川ともいいました。この川を渡しているのが町上津役橋です。今ではコンクリートでガチガチに固められた水路のような川と橋になっており、風情は全くありません。写真のように、殺風景な住宅地の道路に同化した小さな川、橋ですので素通りしてしまうでしょう。文化元年(1804)に勅使がここを通る際に橋がかけられ、それ以前は飛び石だったといいます。現在の橋は昭和初期に架けられたものです。

町上津役橋の風景

さて、町上津役橋を渡ると小嶺という地域に入ります。このあたりに小嶺の一里塚があったようですが、現在は何も残っていません。間もなく、街道は再び国道に合流します。

国道との合流地点

⑬ 風景D

街道は小嶺の国道を1.5kmほど歩くことになります。現在この道は大きめの丘を一つ越えるくらいの感覚ですが、当時は違いました。都市高速の小嶺インターチェンジ付近から山を登り、頂上から「アケ坂」という急坂を下り、さらには「中の谷」という谷底から急坂を登るという難所だったようです。

写真は小嶺台二丁目交差点で、街道はここを右に曲がって国道から外れます。ここから先は石坂という地域で坂道を登ります。

小嶺台二丁目交差点

⑭ 立場茶屋銀杏屋

小嶺台二丁目交差点から300mほどで立場茶屋銀杏屋たてばぢゃやいちょうやに到着です。ここは参勤交代の諸大名や長崎奉行、巡見使の御小休所でした。宿泊施設ではなく、一般の旅人は利用できませんでした。この地域の豪農・清水家のお屋敷であり、銀杏屋は藩の補助によって成り立っていたという特殊な御茶屋でした。

開館10:00~16:30
休館月曜・休日の翌日
入場無料
駐車場有
立場茶屋銀杏屋
立場茶屋銀杏屋

さてここでは銀杏屋の特徴をいくつかご紹介します。まずは上段の間です。大名など位の高い人が利用した部屋で、床が一段高くなっています。

上段の間

次は庭にそびえる銀杏の大木。天保七年(1836)の火災で銀杏屋が焼失した後も生き残り、根元から生えた芽が成長して現在の形になったといいます。

銀杏

銀杏屋は階段で二階へ上がることができます。写真は天井裏の様子で、大きな梁が渡されています。そして「竹野地たけのじ」という屋根の裏地が竹で並べてあります。注目すべきは一段高い部分に分厚く土が塗られているところです。ここの真下が上段の間でこの部分にだけこのような造りになっています。上段の間にいる大名を天井から襲うことを防ぐためのなのか、防火・防塵・保温のためのなのかわかっていません。

天井裏の土天井

写真は厠の下の空間です。大名が用を足した後、検便係がいて、ここを開けて丸い部分から便を採取していたようです。

厠の下の空間

井戸もきれいに残っており今も水をたたえています。正八角形をしており、パズルのようにT字型をした石が隙間なく組まれています。これには驚きでした。

井戸

⑮ 石坂の急坂

銀杏屋を出てすぐが石坂の急坂です。木々の中を階段でおります。ここもかつては難所で、大名といえども駕籠から降りて歩いたと伝えられています。

石坂の急坂
登り口の風景

⑯ お堂・石仏

坂を下り石坂橋を渡ると、お堂や石仏が集合した場所に出ます。帆柱新四国の札所、阿波嶋大明神のお堂、大日如来像、石仏など、詳しいことは分かりませんが色々あります。

帆柱新四国第三十八番札所
石仏などが集合しています

街道はこのまま南へ進みます。池田・馬場山という地域を通ります。

街道の風景

⑰ 香徳寺

街道は再び国道に合流します。その合流地点にあるのが浄土宗の香徳寺です。お彼岸の時期だったためお墓参りの方が多くみられました。

納骨堂
香徳寺

写真は香徳寺から100mほど先の馬場山交差点です。ここを右に曲がり再び国道から外れます。

馬場山交差点

⑱ 大日堂

馬場山交差点から街道は西へカーブします。このあたりは茶屋の原という地域です。右手に大日堂が見えます。ここも帆柱新四国の札所です。

大日堂

⑲ 熊野神社

街道の左手には熊野神社の参道が伸びています。

参道入り口
熊野神社

街道は馬場山インター下交差点に出ます。高架下を進みます。この先ひたすらまっすぐです。

馬場山インター下交差点

⑳ 茶屋の原の一里塚跡

馬場山インター下交差点から200mほど先にあるのが一里塚跡です。かつては松と椎の木が植えられていたそうですが、今はありません。

茶屋の原の一里塚

写真は一里塚から800m程離れた楠橋消防出張所交差点で五叉路になっています。街道は直進です。

楠橋消防出張交差点

㉑ 風景E

街道は真名子という地域を通ります。写真は街道筋にある真名子の交差点の風景です。真名子から木屋瀬宿まであと1km程です。

真名子の風景

因みに真名子には饅頭石という逸話があります。真名子で一口サイズの饅頭を売るおばあさんがおりました。ある日、ひとりのみすぼらしいお坊さんが近づいてきて、ひとつ下さいというと、おばあさんは食べられない出来損ないの饅頭を三つばかり放り投げ、追い払おうとしました。お坊さんは悲しそうな顔をして立ち去りました。すると店頭に並べてあった饅頭がすべて石になっていたという話です。

この辺りを掘り起こすと約8万年前の阿蘇山の噴火による火山灰でできたハロイサイトという石が出てくるといいます。しかも割ると饅頭のあんこのように黒いマンガンが入っているそうです。饅頭石の逸話はこのハロイサイトから生まれたもののようで、木屋瀬宿記念館に実物が展示してあります。

饅頭石(木屋瀬宿記念館)

㉒ 江戸あかりの民芸館

ようやく木屋瀬宿東構口・江戸あかりの民芸館に到着です。江戸あかりの民芸館は、菜の花診療所の佐藤院長が日本全国から集めた江戸時代の行灯など灯りに関する道具を展示しています。残念ながら展示物見学は一人の場合は受けておらず、事前による連絡のもと複数名での見学であれば可能とのことです。

代わりにこの時期は「長崎街道ひなまつり」の期間でもあったため、雛道具の展示が行われており、佐藤さんから直々に説明して頂きました。

木屋瀬宿東構口・江戸あかりの民芸館

写真は雛道具の展示です。雛人形はありません。これらは大名や武家といった位の高い人が所有していたものです。素材ももちろんプラスチックではなく本物で、職人が作ったものです。雛道具なのでどれも小さいのですが実際に使えるくらい精巧にできています。

この中にある道具は江戸時代の道具なので現在は使われていない道具ばかりです。それを知ることだけでも面白いですし、なおかつ雛道具として小型化しています。その細やかな技術が素晴らしく魅力なのだろうと思います。

ひな道具の展示

今回は見ることはできませんでしたが、常設の行灯の展示も同じだろうと思います。江戸時代は旅行がブームになり持ち物を軽量化するため小型化しました。折り畳み式の燭台やまくらなど驚くべき技術やからくりが使われています。佐藤館長が見出した江戸時代の道具の魅力は世界でも注目されているようです。ぜひ立ち寄って実際にみてください。

今回の散策はここまでです。木屋瀬宿についてはこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。

参考

コメント

  1. 河島直樹 より:

    「新しく、美しく、簡潔」すばらしいサイトですね。母が「伊能図で甦る古の夢 長崎街道」を出版した時は、まだインターネットも普及しておらず、紙の本以外の選択肢がありませんでした(母はいまだにネットできませんが 笑)。まさに隔世の感です。
     さて、質問があります。このブログをプリントアウトして、学校や公民館などで掲示することはご許可いただけますでしょうか?
     もし、手続きなどございましたら、お教えいただけましたら幸いです。

    • toscahy toscahy より:

      河島さん、はじめまして。安武と申します。コメントありがとうございます。
      私のブログをそのように言って頂けると、大変励みになります。
      恥ずかしながらお母様の書籍については知りませんでした。
      近い内に読んで参考にさせて頂きます。
      プリントアウト、掲示についてですが、どうぞご自由にお使い下さい。

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