瓜生野・轟木宿

長崎街道

瓜生野町の賑わい

今回散策する地域は佐賀県鳥栖市、長崎街道の田代たじろから轟木とどろきまでの宿場間と轟木宿です。宿場間は約2.8kmしかありません。轟木宿は700m程の宿場町です。

宿場間には南北に連なる約750mの瓜生野うりゅうの町があり、江戸時代には轟木宿を凌ぐ程の人家と多くの商家が立ち並び大変賑わいました。現在も鳥栖市の中心地域で、JR鳥栖駅やショッピングモール、サッカースタジアムが近く、商店も車も多い地域です。文政9年(1826)には191軒の人家があり、3・6・9の付く日には九斎市くさいいちが立てられました。田代は田代売薬で知られますが、ここではそれ以上の売薬行商が行われていたと言います。

秋葉町の風景

瓜生野町は現在の本町・元町・秋葉町に該当し、瓜生野という行政区域では呼ばれていないようです。当時の面影を強く残しているのは秋葉町で、白壁の家屋が並ぶ観光スポットです。他は本町交差点付近に微かに感じられます。

本町交差点付近の風景

因みにJR鳥栖駅は明治22年(1889)開業で、明治36年(1903)に建立された薄緑色の駅舎は大変印象的です。屋根にはレールが支柱として使用されています。

JR鳥栖駅

国境を守る轟木宿

田代宿は対馬藩の飛び地ですが、轟木宿は佐賀鍋島藩の最東端の宿場町です。さて、轟木宿の成立に関しては『長崎街道 肥前佐賀路』に詳しいため、ここではその要約と引用をさせて頂きます。

佐賀には戦国大名龍造寺りゅうぞうじ氏がいましたが、豊臣秀吉の九州平定の際に龍造寺氏の家臣である鍋島氏が龍造寺家の目付け役となり、肥前の最高権力者となります。慶長2年(1597)鍋島直茂なおしげは轟木村に豊前から彦山権現を勧請して日子神社を創建し、藩境の守護神としました。慶長18年(1613)江戸幕府は鍋島勝茂かつしげを肥前佐賀藩主に任命し、名実共に佐賀藩の領主になります。

轟木宿中町の風景

以後、鍋島藩は街道と宿場の整備を進めます。轟木宿は藩境であり筑前・筑後に通じる位置にあるため、神埼宿と並んで重要な宿場町として位置付けられました。宿場町は東の轟木川、西の薬師川に挟まれ、二度90度折れ曲がります。東から西へかみ町・中町・しも町・新町と続きます。上町には番所が置かれ、中町・下町には商店や旅籠はたごが立ち並び、新町は職人町でした。表通りを外れると水路が巡らされ、藩主が宿泊する御茶屋は濠で囲まれています。また六地蔵が2か所あります。

直角に折れ曲がる町並み

轟木宿のこうした造りから次のようなことが分かると言います。以下引用です。

こうした防衛的な面が際立つこの町割りが鍋島家の指図で早々に出来たとは思えない。御茶屋の主要部の敷地はほぼ60×50mで、これは養父やぶ郡の古い集落の中心にある領主の館にまま見る形である。また裏道や環濠的な溝、六地蔵のありようにも中世集落の形態が残っているので、あるいは、鎌倉時代の豪族土々呂木とどろき氏の館を中心とした村落が継続して発展し、戦国時代にはかなり裕福な集落が成立していた可能性がある。そこで、鍋島氏はその古い集落の町割りを利用して轟木宿を整備したと考えられる。

『長崎街道 肥前佐賀路』p24~25 高尾平良

従って、轟木宿は中世の面影を味わうことができる宿場町なのです。実際、表通りは住宅地の連なる平凡な風景ですが、一つ裏へ入ると細い道と用水路が巡らされています。六地蔵は裏通りの目立たない所にあるため探検する楽しさがあります。轟木宿は裏通りを歩くべし。これが散策の醍醐味です。

裏通りの住宅地の風景

瓜生野・轟木宿 散策

散策の始点は「田代宿の追分石」、終点は「薬師川・轟木薬師堂」です。歩く地域は順に田代ほか町・本鳥栖町・古野町・本町・秋葉町・元町・轟木町です。合計3.5km程で気楽に散策できる距離です。散策日は2022年12月10日(土)。最高気温18度程で晴れ。絶好の散策日和でした。

① 田代宿の追分石

田代宿の南方に位置する追分石。お堂の前の柵で保護された追分石には「右 さか  左 くるめ」と彫られています。写真右の道が佐賀へ通じる長崎街道。こちらを進みます。なお田代宿の散策はこちらをご覧下さい。

田代宿の追分石

② 三角屋村

追分石から880m程進むと下の写真のように街道は直角に折れ曲がります。ここはかつて三角屋村(鳥栖村)と呼ばれた地域で、左の住宅前の路面に案内表示があります。現在は本鳥栖町で直進すると水影神社へ向かいます。

またブロック塀の内側には祠があります。敷地内に入って確認することはできませんが、付近にはこのような祠が点在しています。平凡な住宅地の風景ですが、このような街道の面影を探しながら歩くのが面白いのです。

三角屋村

③ 水影神社

御祭神は菅原道真。道真が水面に映して描いた自画像をこの地にいた家臣に与えたという伝説に由来します。道真は鳥栖まで来ていたのです。その後菅原家の人々が関わり老松宮と呼ばれた時代もあったとのこと。それは鳥居の額に老松宮とあることからも分かります。鳥栖村の産土の神です。拝殿が写真のように左に飛び出し、お参りする所が二つある珍しい造りです。

水影神社

④ 大昭寺

大昭寺は真言宗醍醐派の寺院です。

大昭寺

⑤ 鳥栖八坂神社

鳥栖八坂神社は縁起によると、正安元年(1299)京都の八坂神社から分霊を勧請したと伝えられています。御神輿が出たり流鏑馬が行われるなど、かつては祇園会が賑やかに執り行われていたとのことです。社殿も参道も立派で境内は広く瓜生野の町と共に栄えたことでしょう。猿田彦大神の石像は巨大でした。

鳥栖八坂神社
猿田彦大神

⑥ 水田屋

本町交差点にある水田屋は明治22年(1889)創業。「長崎街道 宿場まんじゅう」の幟に釣られて買ってしまいました。「ふくらすずめ最中」が主力商品らしいので是非お試しあれ。

水田屋
宿場まんじゅう

⑦ 風景(秋葉町)

かつての瓜生野町の白壁の家屋が保存されている地域。壁がきれいに塗り替えられて眩しい位です。街道は秋葉神社前で直角に折れ曲がり昔の町並みが続きます。

秋葉町の白壁の家屋
秋葉町の白壁の家屋
秋葉町の白壁の家屋

⑧ 秋葉神社

江戸時代、火災による災難は日本中で起きたことであり、ここ瓜生野も例外ではなく享保きょうほう年間(1716~1736)の大火は悲惨だったと言います。秋葉神社は火防ひよけの神様をお祀りしていることで知られていますが、瓜生野にも神様を勧請し、秋葉講を設けて神社を建立しました。案内板には詳しい説明がありましたので要約します。

秋葉神社の御祭神は火之迦具土神ほのかぐつちのかみと言い、秋葉信仰は静岡県の秋葉山本宮秋葉神社で発祥し、中世には修験者によって流布し始めます貞享じょうきょう2年(1685)神社の眷属神(神の使者)である秋葉三尺坊(修験者で天狗となり地上約90㎝を飛行したことからそう呼ぶ)の神輿が東海道沿いに京都と江戸に向かって行った時、幕府は治安を乱すとしてこれを禁令にするも、全国的に流行し庶民の信仰を集めました。

秋葉神社

⑨ 姿見の池

JR鹿児島本線の高架を抜けると菅公ゆかりの史跡「姿見の池」があります。延喜えんぎ元年(901)道真が太宰府に流された時に道真を慕って付いて来た時遠という家臣がいました。時遠は年老いて瓜生野に隠居していましたが、子供がなかったので道真に請うて長寿磨を養子とします。道真が我が子に会うために瓜生野を訪れ、腰を下ろしたのが腰掛の石、長寿磨に与えるために水面に映した自画像を描いたのが姿見の池と伝えられています。

この水面に映した自画像を時遠が奉献して造られたのが「③水影神社」でした。写真手前が池で、斜面の上には平らな大きい石がありましたので、そのことを指すのでしょう。

姿見の池

⑩ 瓜生野老松宮・妙善寺

「⑨姿見の池」の東に位置する瓜生野老松神社と妙善寺は向かい合うようにして立っています。老松神社は言うまでもなく菅原道真をお祀りしている神社です。境内の二本の銀杏は色鮮やかで、その間を通るように参道が折れ曲がっていました。鳥居の下には砂で道が造られ、まるで真中は神様の通り道だから端を通れと誘導しているようでした。

瓜生野老松神社の鳥居
瓜生野老松神社の銀杏

妙善寺は浄土真宗本願寺派の寺院ですが、「⑨姿見の池」で道真が自画像を与えた息子の長寿磨を起源としています。長寿磨は菅原良景となり、父道真の菩提を弔いました。その後20代を経て15世紀中頃に禅心法師が浄土真宗に改宗し、妙善寺が開基します。両者とも菅公とゆかりのある寺社でした。

妙善寺

⑪ 轟木川・番所跡

さあ、いよいよ轟木宿に入ります。写真の轟木川を挟んで右が対馬藩田代領、左が佐賀藩鍋島領となります。当時は橋はなく飛び石伝いに渡りました。

轟木川

轟木川は番所川とも呼ばれ、川を渡ると直ぐに番所がありました。ここに番所が設置された理由は、領外の情勢と密貿易の監視です。以下引用です。

番所跡

ひとつの可能性として、鍋島直茂が豊臣秀吉から養父半郡を与えられた後も、まだ九州は戦国時代に続く不安定な状況にあり、直茂は日子神社を核に領外の情勢を探る屯所を轟木につくり、それが後まで継続されて轟木番所になった、ということが推測できる。(中略)そこで、長崎と直に領地を接し、そのうえ長崎警護を命じられた佐賀藩にとって、密輸品や禁制品が領内を通ることは立場上見逃しにできず、内外に対して、抜け荷を警戒している姿勢を示さなければならない。轟木番所の荷物改めはそのための示威行為であろう。

『長崎街道 肥前佐賀路』p25 高尾平良

⑫ 轟木日子神社

写真の鳥居は肥前鳥居と言い、丸みを帯びた形と石をパーツのように組み立てる造りになっています。池もあり防衛拠点となる神社だけあって立派です。

神社は中町の角に当たり、幕府の法令を掲示する制札場(高札場)がありました。また、ここで伊能忠敬は測量の基準点を定め、シーボルトは轟木の緯度を測量しました。シーボルトはオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行し日本の自然を研究しました。

轟木日子神社

⑬ 六地蔵A

轟木宿にある二つの六地蔵を便宜的にA・Bとします。写真の六地蔵Aは日子神社から南下する通りの中程で西へ裏通りを進んで行った所にあります。散策地図をご覧頂ければ見つけることができると思いますが、知らなければ見逃す遺跡であることは間違いありません。

六地蔵は六体の地蔵が個別で並んでいるものと、このように一つの石像に六体が彫り込まれているものと二種類あります。轟木宿にある六地蔵はどちらも後者で、六面六体地蔵と呼ばれ古い形式になります。

人間を含め生き物は死ぬと六つの世界(六道りくどう)のいづれかに生まれ変わるのですが(輪廻転生りんねてんせい)、その六つの世界(天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)において、まさに車輪のように生まれ変わりを繰り返すこうした苦しみの状況から我々を解き放ち(解脱げだつ)、浄土へお導きになるのがこの地蔵尊なのです。

六地蔵A

⑭ 勢屯跡

六地蔵Aの反対側、東の裏通りを進むと藩主が宿泊する御茶屋があります。その手前には勢屯せいだまりと言う広場があり、これはお供をする侍が勢揃いするためのスペースです。現在は写真のように二手に道が分かれ真ん中に民家が建っていますが、このエリア全体が勢屯でした。案内板などはありません。御茶屋へは左の道を進みます。

勢屯跡

⑮ 御茶屋跡

御茶屋跡は民家になっており中には入れません。石垣は新しそうですが、区画は当時のままでしょう。

御茶屋跡

⑯ 妙覚寺

浄土真宗本願寺派の寺院で、山門を遮るように斜めに伸びる松が印象的です。

妙覚寺

⑰ 六地蔵B

妙覚寺の南方に位置する六地蔵B。こちらも散策地図で場所をご確認下さい。

六地蔵B

⑱ 薬師川・轟木薬師堂

新町を一直線に進むと薬師川に出ます。南に薬師堂があるのでこの名が付いたのでしょう。川土手は盛り上がるようになっており防衛のための土塁のようです。因みに薬師堂の御本尊・薬師如来は妙覚寺に保管されているとのことです。

薬師川
轟木薬師堂

轟木宿はここまでです。この先、中原宿までの散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。

参考

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