八木山峠と遠賀川
今回散策する宿場町は飯塚宿です。飯塚宿は飯塚市の本町商店街にありました。飯塚市は筑豊地方の中心都市で県内で4番目の人口を擁します。散策に入る前に大雑把ですが飯塚の町について見て行きましょう。

地理的には町の西にそびえる八木山峠を越えると福岡方面へ接続します。これは黒田如水・長政が慶長6年(1601)に開削した福岡と筑豊を結ぶ最短の交通路であり、現在も国道201号線が通っています。
南は穂波川と嘉麻川が合流し遠賀川となります。飯塚の町はその合流地点に当たります。遠賀川では江戸から明治時代にかけて川艜という川船が年貢米や石炭を輸送し、明治31年(1898)には9000隻以上の川艜が上流の天道から飯塚・直方・中間を経て、下流の芦屋・若松までを行き交っていました。陸上・水上共に飯塚は交通の要衝地です。

埋め立てられた飯塚川
かつての宿場町の傍には飯塚川という川が流れていました。1.6kmの間に18もの橋が架けられていたことから飯塚は「橋の町」と呼ばれていたようです。現在この川は埋め立てられ、「飯塚緑道」という歩道になっています。道が蛇行しているので川の上を歩いていると実感できます。また橋名を記した親柱が多く残っていますので、歩く時に見つけてみましょう。本町交差点付近には、川船を繋ぎ止める舫い石もありました。



多くの炭鉱労働者が暮らした町
飯塚と言えば炭鉱の町でしょう。国内最大規模の筑豊炭田から採れる石炭は、戦前・戦後の日本の重工業を支えました。筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門は現飯塚市幸袋に生まれ、牟田炭田などを開発し巨万の富を築きました。彼の立派な本邸が幸袋の長崎街道沿いにありますので、今回の散策で立ち寄りました。

多くの炭鉱労働者が暮らした町・飯塚。その姿を描いた山本作兵衛の炭鉱画が2011年にユネスコ記憶遺産に登録されたのは記憶に新しいでしょう。旧伊藤伝右衛門邸と飯塚市歴史資料館で炭鉱画を見ることができます。



商店街に残る宿場町の面影
筑前六宿の一つ、飯塚宿がいつ誰によって開かれたのかはよく分かっていないようですが、山家宿や内野宿が設けられた頃と同時期(1611年頃)だと考えられています。
飯塚宿があった場所は現在商店街となっており、商店街の道筋がそのまま当時の宿場の道筋となっています。商店街のアーケードを歩いても宿場町を伝える案内板や石柱はありますが、当時の遺構は確認できません。けれどもアーケードの外には多くの寺社があり、宿場町の面影を感じます。

飯塚宿は多くの商家が立ち並び、裕福な商人が沢山いました。その中の一人で嚢祖八幡宮の狛犬を奉納した旅籠・亀屋の惣一は、その遺品が飯塚市歴史資料館に展示され、暮らし振りを感じることができます。奉納した狛犬の台座には○○屋△△といった屋号を持った商人の名前が他にも沢山刻まれています。


飯塚宿の文化人
飯塚宿には多くの文化人・知識人がいたようです。秋月藩お抱えの絵師・斉藤秋圃の弟子・式田春蝶は万延2年(1861)嚢祖八幡宮に黒田二十四騎の絵馬を奉納しています。この絵馬は有名で、平成26年(2014)にイラストレーター・久保周史氏による現代版「黒田官兵衛・長政と黒田二十四騎」絵馬が奉納されて話題になりました。この頃、大河ドラマは「軍師官兵衛」でした。


日本近代短歌の開拓者として知られる大隈言道は「宝月楼」という別荘で門弟の指導をしました。宝月楼の石柱は現在嚢祖八幡宮の付近に立っています。
嚢祖八幡宮の境内には和魂漢才という石碑があり、裏には飯塚の宿場役人の名前が刻まれています。和魂漢才とは、日本古来の精神を失わず中国の学問を消化し活用すべきという意味で、江戸時代に流行った国学に傾倒した知識人たちが飯塚に大勢いたことを伝えています。

片島・川津・幸袋 今も残る白壁の家屋
飯塚宿を出て北へ進むと片島・川津・幸袋という地域を街道は進みます。飯塚宿が商店街化し、あまり面影を感じないのに対し、これらの地域も市街地で往時の面影はなくなってはいるものの、白壁の家屋を所々で見かけることができます。こうした家屋を探すのも街道巡りの楽しさです。



飯塚宿 散策
散策の始点は徳前大橋とし、宿場町を散策した後、北へ街道を進みました。飯塚から次の木屋瀬までは距離が長く、間の宿である小竹・直方を挟みます。今回は小竹方面へ少し足を延ばし、終点を鯰田渡交差点としました。飯塚宿を出て4.5km程の道のりになります。
なお、内野宿から飯塚宿までの散策についてはこちらをご覧下さい。
① 徳前大橋
スタートは穂波川を渡す徳前大橋。徳前大橋北交差点では写真矢印の方へ進みます。明治から大正時代には向町橋という木製の橋が架かっていたようです。現在は親柱のみが残ります。



② 西構口跡
西構口跡の石柱が立っており、写真右手には大師堂があります。

③ 飯塚宿の壁絵
東町商店街のアーケードに入ります。曲がり角の壁一面に写真のような大きな壁絵があります。東海道五十三次を模した飯塚宿の様子です。北へ進み本町商店街へ行きましょう。

④ 飯の山・御茶屋跡
アーケードから西へ離れた所にあるこの飯の山は、飯塚の地名の由来になった山と言われています。案内板によると、傍にある明正寺の開堂供養の際、飯を大量に炊いたものが残り、この地に集めたら塚になったというもの。またこれとは別に、遥か昔の三韓征伐の際、神功皇后がこの地で家臣に「いつかまた会おう」と言って別れを惜しんだというものもあります。

飯の山の隣には飯塚片島交流センターがあり、御茶屋跡の石柱が建っています。御茶屋とは大名や藩主が宿泊する施設で本陣とも言います。

⑤ 明正寺・勢屯り跡
明正寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。明正寺の過去帖には幕府に献上する象が通ったことが記してあるとのことです。
明正寺の前は勢屯りと言い、参勤交代の際に藩主の泊まる御茶屋の前で家臣たちが勢揃いするためのスペースでした。

⑥ 太養院・真福寺
太養院は今から1300年前に行基によって開かれたと伝わる曹洞宗の寺院です。黒田如水・長政親子が秀吉の朝鮮出兵による出陣の際にここに宿泊しました。また関ヶ原の戦い後の国替えの時にもここで宿泊し、八木山峠を越えて行ったと言われています。


太養院の直ぐ北には浄土宗の真福寺があり、小高い丘の上に建っています。アーケードによって宿場町の印象は薄れていますが、こうして一つ裏道を通れば寺院や丘があり、歴史や地形が見えてきます。

⑦ 黒ポスト
黒ポストは洋風の立派な福岡銀行の建物の前に建っています。明治の郵便制度により、長崎街道筋の16の宿駅に郵便取扱所が設置され、飯塚宿もその一つでした。この黒ポストは書状集箱という当時の姿を再現して、平成11年(1999)に縁のあるこの地に設置されました。

⑧ からくり時計
昭和6年(1931)創業のはたや楽器店の上にからくり時計があります。定刻になると壮大な音楽が流れ、盤面が開き、象やオランダ人の人形が出てきます。右から左へ参勤交代の行列も出現します。人気のない商店街で誰も気に留めていないからくり時計。壮大な音楽が虚しく響いていました。

⑨ 東構口跡
本町商店街を抜けると東構口跡になります。


⑩ 嚢祖八幡宮・観音寺
嚢祖八幡宮は飯塚の総鎮守で、御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰・天神地祇です。天神地祇とは天地の神々、すなわち全ての神々の事です。
境内には祇園宮、飯塚天満宮など十三の神社があり、神聖な場所となっています。また多くの歌碑もあり見所満載です。令和の大改修で、以前私が訪問した時よりも綺麗になっていました。

鳥居をくぐり階段を上ると隋神門があります。これは神の領域に邪悪なものが入ってくるのを防ぐ門で、門神である櫛石窓・豊石窓の神様が弓を持って見張っています。飯塚宿の庄屋・古川孫左衛門によって建立されました。



本殿内部には西日本最大級の大太鼓・関口太鼓と筑前茜染めで作成された日の丸があります。


本殿の左は飯塚天満宮、右は祇園宮(須佐宮)です。祇園宮の祭神は素戔嗚命で、飯塚山笠が奉納されます。また、若宮稲荷神社の隣には真言宗の観音寺があります。




⑪ オランダ屋敷跡
オランダ屋敷は、オランダ人など外国人が宿泊した場所と言われています。オランダ商館の医師シーボルトやケンペルも飯塚宿を訪れた際に宿泊したのかもしれません。

⑫ 片島の風景
宿場町を抜けると片島という地域に入ります。浄土宗の竹園寺を過ぎると白壁の家屋が2軒残っています。




⑬ 川津の風景
片島を過ぎると水江交差点で国道200号線に合流です。建花寺川という名の川を渡り川津の住宅地を進みます。何の変哲もない住宅地ですが、写真のような白壁の家屋を1軒見つけました。


⑭ 許斐神社・幸袋の風景
川津を抜けると幸袋に入ります。幸袋という地名は、遠賀川が蛇行して袋のような入り江になっていたことから「河袋」と呼ばれ、転じて江戸時代に良い意味合いを持たせて「幸袋」となったという説があります。
こんもりとした山があり、ここに許斐神社があります。珍しい名前の神社ですが、御祭神は天太玉命・天児屋根命・天鈿女命です。この三柱の神は天照大神の岩戸隠れの際に活躍した神様です。天太玉命と天児屋根命は太占と呼ばれる占いを行い、鏡を差し出した神様で、天鈿女命は気を引くために踊りを踊った神様です。

許斐神社は永正13年(1516)の御神託により、領主が荒魂を鎮めるため木実権現を祀ったことが始まりのようです。後に秋月氏の端城・許斐山城が造られ、天正元年(1573)秋月氏の家臣である許斐某が木実権現を崇敬し、神社を建て直したことに因ると伝えられています。

境内には蛭子神社・天満神社・稲荷神社・須佐神社などがあり、一の鳥居は伊藤伝右衛門が寄進したものです。

許斐神社の一の鳥居の右手には白壁の家屋があります。幸袋交差点を右へ曲がり、旧伊藤伝衛門邸へ進みます。この道も白壁の家屋が多く残っています。幸袋は古い街並みが多く残っていて驚きでした。


⑮ 旧伊藤伝右衛門邸
それでは旧伊藤伝右衛門邸へ行ってみましょう。明治30年代後半に建造された広大な庭園を持つ和風住宅ですが、応接室や食堂などは洋風です。今回は「いいづか雛のまつり」期間に当たり、お座敷や廊下に大量の豪華絢爛な雛人形が展示してあり、圧巻でした。







伊藤伝右衛門(1861-1947)には妻である柳原白蓮(1885-1967)がいました。彼女は華族出身で大正天皇の従妹であり、大正三美人の一人と言われています。白蓮というのは雅号で本名は燁子と言い、歌人でありました。二階のお座敷は白蓮の居室で、広大な庭を見下ろすことができます。敷地の隅にある土蔵は柳原白蓮の展示館になっています。ここでは白蓮の華やかさとは裏腹の苦悩について少し紹介しましょう。以下内容はWikipediaを参照しています。


伝右衛門との結婚は再婚でした。この時代は古い習慣や華族に対する法の規制もあり、女性が結婚相手を自分で選択する余地はありませんでした。燁子は初婚も再婚も結婚相手は自分以外の者が決め、しかも直前まで知らされず、どんなに嫌でも受け入れざるを得ない立場だったのです。
伝右衛門との結婚は黄金の結婚として大いに祝福され、新聞でも連日取り上げられる程でした。しかし二人は年の差が25もありました。燁子は教養のある文化人で、伝右衛門は炭鉱労働者からの叩き上げで財を成した立派な人物ではありましたが、学問はなく女遊びが好きでした。どう見ても不釣り合いで、大正10年(1921)燁子は社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちし、新聞に伝右衛門への絶縁状を公表。これを白蓮事件と言います。

伝右衛門との結婚生活は10年で終わります。男尊女卑で姦通罪のあったこの時代に、白蓮の採った行動はセンセーショナルで、メディアを騒がせました。また遊郭で働く不遇な娼婦にとって燁子は憧れの存在となり、二人は遊郭を脱出した娼婦を受け入れました。宮崎は病気がちで経済的に苦しい生活でしたが、燁子は宮崎を支えました。宮崎との間に生まれた長男の香織は終戦の4日前に戦死。戦後は悲母の会を結成するなど平和運動に取り組みました。

白蓮は女性として理不尽な経験を味わいながらも、その不遇な状況に妥協することのない反骨心があったようです。繊細でお淑やかなお姿をされていますが、その内面は強固な自我と情熱に満ちていたようです。当時としては異例の思い切った行動ができたのもそのお陰であり、また一般の女性とは違って華族出身という立場が有利に作用し、社会が少しずつ民主化して行った時代の流れも助けたと思います。
⑯ 夢の大橋
旧伊藤伝右衛門邸を後にして、街道を進みます。遠賀川を渡す夢の大橋があります。眺めは最高です。ここからは市街地を離れ、雄大な自然の風景を見ながら歩き続けることになります。

街道は遠賀川の土手道である国道200号線を1km程進みますが、車が多く歩道が確保されていないため大変危険です。従って土手を下り、河川敷を歩きましょう。

鯰田大橋の手前500m程で土手を上り国道200号線に復帰します。写真の復帰地点から国道をそのまま進めば鯰田渡交差点に出ます。厳密に言えば、街道は写真の右側にあるラブホテルや住宅地のある所を通っているのですが、区画整理で一部消滅し、正確に歩くことはできないので、このまま車道を歩きましょう。

⑰ 鯰田渡交差点
終点、鯰田渡交差点に到着です。今回の散策はここまでです。この続きは「小竹③鯰田渡交差点」から始まります。下のリンクからご覧下さい。

帰りは電車で戻りましょう。鯰田大橋を渡りJR鯰田駅へ。最後まで読んで頂き有難うございました。

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