塚崎宿

長崎街道

今回散策する宿場町は佐賀県武雄たけお市にある塚崎つかさき宿。武雄温泉で有名なこの町は古くから湯治場とうじばとして賑わい、江戸時代には長崎街道が通ったことで宿場町としても栄えました。

一 武雄の徐福伝説

武雄の温泉街は桜山さくらやまの麓に広がっていますが、桜山は頂上部分が針のように尖った岩が露出していてかなり独特な山です。桜山は蓬莱ほうらい山とも呼ばれ、古代の中国では蓬莱とは日本のことであり、日本は理想郷として知られていました。秦の始皇帝に仕えていた徐福じょふくが不老不死の薬を求めてこの蓬莱山に登ったものの薬は見つからなかったという伝説が残っていますが、それに相応しい神秘的な印象を与える山です。

桜山の麓に広がる温泉街

二 武雄と塚崎の違い

ところで武雄なのになぜ塚崎宿なのかと疑問に思われるでしょう。塚崎という地名は現在では聞き慣れませんが、昔はこの地域一帯を塚崎と呼び慣らしており、武雄はその小さな区域を示す地名だったようです。武雄という名称が広く浸透し始めたのは、明治に九州鉄道がこの地を通過した際に駅名を武雄に定めてからで、比較的最近のことです。

塚崎という地名の由来は、昔この地域が海の迫る入り江で、至る所に古墳が散在していたことから墓のある海岸を意味する「墓崎つかざき」と呼ばれるようになったとされています。それが時代が下るにつれ「塚崎」「柄崎」と表記されるようになりました。

三 塚崎温泉の歴史

武雄は宿場町であると同時に温泉街です。ここではまず武雄と温泉の歴史について触れておきましょう。武雄に温泉が湧き出していることは大昔から知られていました。その昔、米守よなもりという役人が桜山の谷間に舞い降りる白鷺しらさぎを見つけ近づいてみると、傷ついた足を温泉で癒していたという伝説が残っています。これが武雄温泉発見の伝説であり、以来里人はこの地に鷺明神を祀りました。これが現在も温泉街にひっそりと佇む鷺田さぎた神社の由緒です。

鷺田神社

また日本神話に登場する神功皇后じんぐうこうごうが朝鮮半島から帰って養生していると、武雄の温泉に浸かれば回復が早いと神のお告げがあり、武雄に上陸しました。武雄には御船山みふねやまという船の形をした山がありますが、ここで舟を繋いだとされています。そして桜山で岩の割れ目を槍の柄で突くと温泉が湧き出しました。これが塚崎が柄崎と表記される由来です。

円満寺から見た御船山

確かな史料として武雄に温泉の記述が見られるのは天平てんぴょう年間の730年頃に編まれた『肥前国風土記ひぜんこくふどき』です。「杵島きしま郡の西に温泉の出るいわおがある。岩が大変険しいので滅多に人は行かない」と紹介されています。

13世紀には宗から帰国した聖一国師しょういっこくしがこの地に一時滞在し、時の武雄領主から土地の寄進を受け廣福寺こうふくじを開くと、武雄温泉は廣福寺の内湯として管理下に置かれました。しかし時代と共に寺域が変化し、温泉の管理権は武雄領主である後藤家が握りました。

廣福寺

16世紀後半には当時の佐賀で勢力を拡大していた龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶが入浴し、文禄ぶんろく慶長けいちょうの役の際には名護屋なごや城に集まった伊達政宗だてまさむねなど全国の戦国武将が戦陣の疲れを温泉で癒しました。

日本を統一した豊臣秀吉は塚崎温泉に対して掟書を出しており、それは次のような三カ条でした。一つ、入浴客は土地の者に難題を申し付けてはならないこと。一つ、客は一人に付き五文の宿銭を支払うこと。一つ、湯を沸かす薪柴しんさいを調達するために屋敷廻りやその他指定地域の樹木を伐採してはならないこと。

最初の二つは入浴者の心得を定めており、また二つ目で宿銭とあることからこの時すでに入浴客に宿泊の便を図る者がいたことが分かります。三つ目は温泉施設側に対してのもので、樹木の伐採が周囲の環境を損なう程著しいものであったこと、またそれ程まで塚崎温泉が賑わっていたことが分かります。

豊臣秀吉塚崎温泉掟書(武雄温泉新館)

江戸時代になると武雄領主である後藤家は佐賀藩主である鍋島家の傘下に入ります。名前も後藤から鍋島に変え、武雄鍋島家と呼ばれました。武雄鍋島家は武雄領主としてその自治を大幅に認められ、また家老を務めて藩政にも関わるようになります。塚崎温泉の湯銭は武雄鍋島家の収益となり、これは機密費として扱われましたが、実際は何に使われていたのでしょうか。幕末の佐賀藩は福岡藩と共に長崎警備に当たっていたこともあり西洋文化に触れる機会が多く、イギリス軍艦の長崎入港を許したフェートン号事件(1808)もあって軍事力の重要性や危機感を強く認識していました。

その認識は武雄鍋島家も同様で第28代茂義しげよし・第29代茂昌しげはるの時に蘭学、特に軍学を積極的に導入し大砲や蒸気船の製造、ガラスの作製、写真術の導入、牛痘ぎゅうとうの実施(これは佐賀本藩より早かったと言われている)などに積極的に取り組んでいます。西洋の進んだ科学技術を取り込むために必要な費用は相当なものだったはずで、これを佐賀藩の小さな領主が賄うためには、機密費として塚崎温泉から得た湯銭が充てられていたことは間違いないだろうと考えられています。

四 塚崎宿と温泉

次に宿場町の様子について見て行きましょう。度重なる塩田川の氾濫から長崎街道の肥前佐賀路は享保きょうほう2年(1717)にルート変更を余儀なくされ、塚崎を経由するようになります。元々温泉街として栄えていた塚崎に長崎街道が通ったことで町はますます賑わったことでしょう。また長崎奉行など長崎へ向かう幕府の役人、オランダ商館長やその従医シーボルトなど江戸へ向かう外国人、伊能忠敬いのうただたか太田蜀山人おおたしょくさんじんなどの著名人も塚崎宿に立ち寄っています。

塚崎宿の賑わいについて、享和きょうわ2年(1802)に尾張商人の菱屋平七ひしやへいしちは『筑紫紀行』で次にように述べています。意訳すると「人家は四百軒程もある。この地は佐賀の家臣衆の領地である。ここには湿瘡しっそう疥瘡かいそうなどに効くという温泉がある。遠近の人が湯治に来て集まっている。従って宿屋や茶屋も多い。」と書き記しています。

現在の塚崎宿(温泉通り)

現在、武雄温泉のシンボルである朱塗りの楼門の立っている辺りは宿場町の中心地と言える部分で、大名や藩主の宿泊する本陣が楼門の先にある武雄温泉新館付近にありました。家臣が宿泊する脇本陣は楼門南にある旅館「東洋館」の位置にあり、その向かい側の旅館「春慶屋しゅんけいや」には代官所がありました。

左から春慶屋・楼門・東洋館

大名や藩主の浴場は御前湯ごぜんゆと言い一般人は立ち入り禁止でした。その他は身分に応じて五つの浴場があり男女混浴でした。諸説ありますが幕末の塚崎温泉は全部で六つの浴場を備えていたと考えられています。

元治げんじ2年(1865)に長崎へ旅した平松儀右衛門の『道中日記』の図によると、この頃の温泉周辺には少なくとも20件以上の宿屋が軒を連ねていたようです。その記述を意訳すると「入浴客は遠近の国々からやって来ておよそ七、八百人もいる。客は宿屋を塞ぎ人が代わる代わる温泉に通っている。その様子を見ると浴衣を着ているのは婦人か老人・下族だろう。壮年の男性は皆真っ裸で下帯がなく、各々が湯釈一本を充て持って面白そうに走っては行き違っている。髪は温泉に入るので乱れていたり、根元だけ結ったりしている者もいる。入浴客の往来は絶えることがない。」とリアルな様子が描かれています。御前湯は別として当時の塚崎温泉は現在の下町の銭湯に雰囲気が近く、雑多で俗っぽい様子であったこと、性に対して大らかだったことが伝わってきます。高級旅館のような豪華さや自然に囲まれた静寂さ、ゆっくり浸かってリラックスという感じではなく、温泉に浸かることを楽しんでいた様子が伝わってきます。

五 湯治場からのリゾート施設へ

次に明治以降の塚崎温泉について見て行きましょう。明治維新により武雄鍋島家の所有だった塚崎温泉は国有となり、運営は武雄町民に引き継がれました。温泉の発展を図るため湯町町民が資金を出し合って武雄温泉組を結成し、組長を宮原氏が代々引き継いでいくことになります。明治以降の武雄温泉の発展はその三代目宮原忠直ただなおによるところが大きく、彼は明治中期から昭和初期まで実業界のトップを走り続け「九州の虎」と呼ばれました。

忠直は武雄鍋島家の有力家臣の家柄に生まれ、大分日田の咸宜園かんぎえんで実業家になるための基礎を学び、九州鉄道に入社して各駅で務めた後、明治28年(1895)に退社しています。この時佐賀と武雄間を鉄道が開通し、武雄駅前に宮原運送本店を開業しました。これを手始めに忠直は時代と共に様変わりする運送手段の変革の先を読むことで多くの事業を成功させ、九州の物流業界の雄となりました。

忠直が武雄温泉組の組長に選任されたのが明治36年(1903)で、忠直には武雄温泉を一大リゾート施設にする構想がありました。入浴客を呼び寄せるために当時の地質学の権威に頼んで新鉱脈を三年掛かりで発見します。この鉱脈を使った浴場として武雄温泉楼門と新館の建設を始め、設計は唐津出身の建築家、後に日本近代建築の父と呼ばれ東京駅の設計を務めた辰野金吾たつのきんごに依頼しました。また桜山を背景とした日本庭園も造園されました。

武雄温泉楼門

忠直は宮原焼という独自ブランドを作る程の焼き物好きで、古陶器の展示館を作り、宮原焼を始めとした焼き物を展示する予定でした。また高級旅館も建てる予定でした。彼が描いたリゾート施設とは山水画のような自然の中で陶磁器を鑑賞し、演劇やビリヤードを楽しんで温泉に入り、旅館に泊まって料理を食べるという自然・温泉・陶磁器を核としたテーマパークだったと伝えられています。

武雄温泉新館

忠直の理想は武雄温泉新館と楼門にも表れています。楼門の額には同じく佐賀出身で明治の三筆と称される書家・中林梧竹なかばやしごちくの書で「蓬莱泉」と書かれています。蓬莱とは日本であり理想郷でした。日本で理想郷と言えば浦島太郎に出て来る竜宮城ですが、忠直は武雄温泉を竜宮城にしようと考えていたようです。辰野金吾はその想いを汲んで新館と楼門を設計したと伝えられています。

武雄温泉新館にある五銭湯

六 武雄温泉の楼門と東京駅

最後に十数年前にニュースになった武雄温泉楼門の干支について触れておきたいと思います。辰野金吾が設計した東京駅は2012年に開業時の姿に復元されました。東京駅には南北に二つのドーム状の八角形の屋根があり、そこに干支のレリーフが飾られています。しかし八角形なので干支が八つしかなく、うまとりの四つがありません。2013年東京ステーションホテルから武雄温泉への問い合わせがきっかけとなり、欠けている干支と武雄温泉楼門の二階天井の四隅にある干支とが一致することが判明しました。つまり楼門の干支が東京駅の干支を補完しているのではないかと話題になったのです。現在、楼門二階は展示室になっていて四つの干支を見ることができます。朝の9時から10時限定の公開で見学料500円です(火曜は休館日)。またボランティアガイドの方の解説を聞くことができます。

楼門内展示室の様子
天井に施された午

ガイドの方から伺った興味深いお話を挙げましょう。辰野金吾は当時売れっ子の建築家で忙しく、設計の依頼をしても引き受けてもらえません。しかも当時は不況で楼門の建設予算も十分ではなかったそうです。そんな状況で彼がなぜこんな地方の温泉町の設計依頼を引き受けたのでしょうか。それは武雄が辰野の故郷唐津と同じ佐賀であること、当時の首相が大隈重信おおくましげのぶで彼もまた佐賀出身であり、大隈から直接依頼されたのではないかということを挙げておられました。故郷への愛やプライドがあったのかもしれません。あり得る話です。

辰野金吾(武雄温泉新館)

また楼門は全部で三つ建てられる予定でしたが、資金不足で一つしか作ることができませんでした。展示室には完成予定の設計図が展示してあります。もしこの通り建てられていれば三つの楼門が温泉施設を取り囲む連なった形になり、さぞ壮観であっただろうと思います。

そして向かいにある新館は和洋折衷の木造ですが、金吾は新館のある窓からこの楼門を覗いた時、窓枠が額縁になって絵画のように鑑賞できるよう工夫しました。ガイドの方はそのオシャレな設計が素晴らしいと言っていました。皆さんも是非立ち寄ってお話を聞いてみて下さい。

新館二階の廊下窓

七 塚崎宿の散策

今回の散策は塚崎宿とその西にあるふち峠の入口付近までとしました。始点は「宮野町夢本陣」終点は「湯の谷石橋跡」とし、その間およそ2.4kmです。途中で丸山公園や桜山公園にも立ち寄りました。宮野町・新町・下西山・上西山という地域を歩き、新町では割と古い建物も残っていて昔の趣があり、下西山・上西山と歩くにつれ山深くなっていきます。

新町

① 宮野町夢本陣

今回の散策のスタート地点である夢本陣は町興しの拠点として長崎街道と塚崎宿の魅力を伝える公園です。写真のように火の見やぐらと白壁のモニュメントがあり、長崎街道の全宿場町のイラストがとても魅力的です。詳しくは「北方~塚崎」散策で述べていますので次のリンクからご覧下さい。

宮野町夢本陣

夢本陣のあるこの町は宮野町と言い、慶長4年(1599)武雄領主第20代後藤家信いえのぶがこの地に居を構えた時、元いた町(現在の武雄市山内町やまうちちょう宮野)にあった浄土真宗の寺院をことごとく移転させてできた町です。その結果十軒の寺院が集中し寺町とも呼ばれました。当時は領主が引っ越すとその領民や寺社も引っ越し、地名もそのまま移されていたようです。佐賀城下町を築いた鍋島氏も同様のことを行っています。

宮野町

宮野町に寺院が集中している様子は江戸時代の宿場町の特徴を良く表しています。それまでの日本では宣教師がやって来てキリスト教を普及したり仏教勢力が領民を取り込んだりして宗教勢力による一揆や反乱が各地で勃発しました。そこで幕府は檀家制度を実施し、領民は領内のどこかの寺院の門徒となり寺院には領民の戸籍の管理と葬式を行わせました。こうして僧侶の公務員化が進んだことで仏教勢力は幕府の配下に置かれ、それ以外の宗教も入り込む隙がなくなりました。寺院が一か所に集約されているのも領主の目の届く範囲で寺院を取り締まり管理する理由からです。また有事の際に将兵の宿舎として利用するという防衛上の役割も兼ねていました。次に挙げる写真は夢本陣から東へ向かって歩いた時に見つけた四つの浄土真宗本願寺派の寺院です。

正覚寺
法林寺
正法寺
明宗寺

宮野町の東には鍵型の道路がありますが、これも防衛上の理由によるもので宿場町によく見られる特徴です。これは道路を鍵型にすることで攻め込んで来た敵兵の進行勢力をぐという目的があります。ここは通称「出口」と呼ばれ「伊万里まで三里」と記された道標が立てられていたと言います。実質的にここが塚崎宿の出入口だったのでしょう。現在は恵比須像が立っています。同様に新町にも鍵型道路があり、塚崎宿にある鍵型道路はこの二つです。

宮野町の鍵型道路
新町の鍵型道路

② 丸山公園

次はJR武雄温泉駅のすぐ北側にある丸山公園に寄り道です。丸山公園は標高60mの丸山(天神山)に造られた公園で、頂上からの眺めは抜群で武雄のシンボル御船山やごつごつした岩が特徴の桜山を見ることができます。中世にはここ富岡村を支配していた富岡後藤家の居城があり、その築城の際に菅原道真を祀る天神社が勧請されました。富岡天満宮は武雄温泉駅の北側から参道が延びていて山の中腹に鎮座しています。

御船山
桜山

また富岡天満宮には面浮立めんぶりゅうという鬼の面を付けて踊る佐賀県を代表する民俗芸能の絵馬が奉納されていました。面浮立の起源は諸説あるようですが神様に五穀豊穣を感謝し悪霊退散を祈願するものだと言われています。富岡村は明治期に面浮立の中心地である鹿島市から師匠を呼んで導入し、その記念として面浮立を踊る様子を描いた絵馬が奉納されました。実物は武雄市歴史資料館にあるので現在拝殿にある絵馬はレプリカでしょう。

富岡天満宮
面浮立絵馬

③ 高札場跡

さてスタート地点へ戻って街道を西へ進みます。写真の交差点は高札場こうさつば跡です。幕府や藩の掟などが書かれた高札が掲げられた所で今で言う掲示板です。それ故「ふだつじ」と呼ばれていました。また火事の際には傍の井戸に沈め恵比須像を重石にして守ったと伝えられています。近くには馬駅場うまえきば馬次所うまつぎしょ)があり、ここで移動に必要な馬や人手を手配したり、乗り継いだりするための中継地点でした。

高札場跡

④ 本陣跡・脇本陣跡・代官所跡

高札場から北へ進み武雄温泉の楼門へ。ここが塚崎宿の中心地であり最も賑わっていた所です。先述しましたが楼門の先に本陣や浴場がありその中でも御前湯は藩主や大名専用の高級風呂でした。楼門手前、左手の春慶屋に鍋島藩から派遣された役人が詰める代官所、右手の東洋館に脇本陣がありました。

左から春慶屋・楼門・東洋館

なお東洋館には宮本武蔵も宿泊し彼が毎朝使った井戸が館内のロビーに残っています。東洋館で頂いたパンフレット「宮本武蔵ものがたり」には当時平戸屋と呼ばれた東洋館と武蔵の逸話が紹介されていましたのでここで簡単に紹介します。

晩年の武蔵は神経痛を患い九州の温泉を渡り歩いていました。島原の乱が起こった寛永かんえい14年(1637)湯治のため平戸屋に宿泊していた武蔵のもとに多久たく出身の百姓がやって来てました。彼は佐賀の町で侍にぶつかっただけで切り殺されてしまった父親を無念に思い、その仇を討つため弟子にしてほしいと願い出ました。同情した武蔵はこれを受け入れ熊本に連れて帰り武芸を教えます。五年後、成長した百姓は神埼町の目達原めたばるで無事父親の仇討ちを果たしました。

宮本武蔵の井戸

⑤ 廣福寺

廣福寺こうふくじは臨済宗南禅寺派の寺院で、1242年に宋から帰国した聖一国師が開祖です。ここには運慶作の木造四天王像があり国の重要文化財に指定されていますが、私が訪れた時は拝観中止で見ることができませんでした。

廣福寺

⑥ 桜山公園

次は桜山へ向かいましょう。武雄温泉の楼門の左から続く道を進むと桜山公園です。桜山公園は山際に点在する神社や史跡を散策路で結んだ公園です。300m程の散策路に神社だけで五つと見所が沢山あります。ここではその内の主なものを紹介します。

まず柄崎神社です。楼門から進んですぐ石造りの鳥居があり額に柄崎神社と書かれています。ここからの山道が参道で、120m程進むと石造りの社殿に到着です。険しい道のりではないのですが社殿が割と簡素で表示板もなかったのでそれと気づかず、さらに奥まで進んで迷い込んでしまったのを覚えています。余計な体力を使ってしまいました。御祭神は神武天皇・神功皇后・大己貴命おおなむちのみことで神武天皇社とも言います。なお柄崎神社の下宮が⑦の鷺田さぎた神社です。

柄崎神社

陽刻線描宝塔ようこくせんがきほうとうは真言密教で言う金剛界こんごうかい胎蔵界たいぞうかいの四体の仏様を陽刻した角宝塔です。13世紀に造られたもので、その像の姿は風化してよく分かりませんでした。

陽刻線描多宝塔

薬師如来像・淀姫よどひめ神社・芭蕉句碑は一か所にまとまってあります。写真に見える鳥居の右隣が薬師如来像、鳥居と岩肌にある社殿が淀姫神社です。淀姫神社の御祭神は神功皇后の妹の淀姫命で、淀姫が入浴後の散歩で休憩した場所に建てられたと伝えられています。12世紀に武雄領主第2代の後藤資茂すけしげが温泉の鎮守として創建しました。

薬師如来像・淀姫神社

薬師如来像も温泉の鎮守として明治期に建立されました。薬師如来像は石造ですが案内板には鋳造されたとあり戦時中に軍に提供されたとあるので実際は金属製の像だったことが分かります。

淀姫神社の左側の岩肌には芭蕉の句が彫られており「蓬莱に 聞かばや伊勢の 初だより」と元禄げんろく7年(1694)芭蕉最後の正月に詠んだ歌が彫られています。ここでの蓬莱とは新春の食べ物を使って蓬莱山をかたどった正月飾りのことです。それを前にすると伊勢神宮のある伊勢からの初便りが聞きたいという厳粛な気分になるものだという歌なのだそうです。

芭蕉句碑

桜山の別名が蓬莱山なのでこの句が選ばれているのだと思います。大きな石が三つ並んでいますが字は判読できません。ここから140m程先に航海安全の神様を祀った金毘羅宮こんぴらぐう、そのさらに190m程先に菅原道真を祀った新町天満宮があります。

金毘羅宮
新町天満宮

⑦ 鷺田神社

鷺田さぎた神社は先述したように白鷺が傷ついた足を温泉で癒している所を役人が見つけたという温泉発見の伝説に基づいて建てられた神社です。右奥に文化11年(1814)に奉納された鷺大明神の小さな石碑や石祠が残されていました。また昭和期にこの地にあった松原の松が全て枯れてしまったので新しく植えたことを記念する碑が建っています。

鷺田神社
石碑・石祠

⑧ 善念寺

善念寺ぜんねんじは浄土真宗本願寺派の寺院で山号さんごう牛鼻山ぎゅうびざんです。またここは塚崎宿の新町に当たりますが、新町のこの一帯は「牛の鼻町はなまち」と呼ばれていました。ここが牛の鼻とどう関係しているのでしょうか。それは黒髪山くろかみざんの大蛇退治伝説に由来します。黒髪山の大蛇退治伝説とは、平安時代に黒髪山(武雄市と有田町にまたがる霊峰)で悪さをしていた大蛇を源為朝みなもとのためともが退治したという伝説です。為朝はその鱗を牛の背に積んで太宰府に向かう途中、この地で牛が鼻を地面に付けて死んだためこう呼ばれるようになりました。

牛鼻山善念寺

因みにこの黒髪山の大蛇退治伝説は牛津うしづ宿でも見られました。牛津の総鎮守である乙宮社おとみやしゃは源為朝が鶴岡つるがおか八幡宮から勧請して創建された神社で、為朝はここで大蛇退治の戦勝報告を行っています。そして牛の死骸を埋めた場所からかの地が牛津と呼ばれるようになりました。しかしそうなると牛が動きを止めた場所(武雄)と死骸を葬った場所(牛津)が大きく離れていて違和感があります。

またこの牛が動きを止めた場所が由来となった逸話として、太宰府天満宮の創建の逸話が思い起こされます。菅原道真の遺体を載せた牛車ぎっしゃが動きを止めた場所に墓を建て、それが後に社殿を構えて現在の太宰府天満宮になりました。牛に何かを載せて運びその牛が動きを止めた場所を特別視するという発想が共通しています。実は善念寺のすぐ右隣りから桜山公園にある道真を祀る新町天満宮に参道が延びているのですが、これには意味があるように思います。私は菅原道真と源為朝がいつの間にか混同され、大蛇の鱗を載せた牛と道真の遺体を載せた牛が重ねられていったのではないかと推測しています。

⑨ 中村涼庵旧宅

中村涼庵は第28代鍋島茂義の侍医で天保てんぽう10年(1839)日本で最初に牛痘の接種を領主の子に実施しました。接種は佐賀藩全域に普及し、武雄ではその功績から西洋医学の祖と称される偉人です。旧宅は現在も住まいとして使用されています。

中村涼庵旧宅

新町の街道筋は緩やかな一直線の上り坂で古い建物も残っています。中村涼庵旧宅の少し先には写真のような白壁の家屋があり田代酒造所跡です。

新町の田代酒造所跡

⑩ 西福寺

西福寺さいふくじは浄土宗の寺院で西福寺の楼門は武雄温泉の楼門に似ていて印象的です。文禄3年(1594)後藤家信が武雄に移住したことで西福寺もこの地に移されました。本堂には木造の阿弥陀如来像があるようです。当時の和尚が佐賀本藩に再三銅製の像の建立を懇願するも認められずに亡くなり、それを哀れに思った信徒がその木型を仏像として祀ったという逸話があります。因みに見てはいませんが当寺の半鐘は市内最古なのだそうです。

西福寺
西福寺の楼門

⑪ 円満寺

街道は新町から下西山という地域に入ります。一直線に続く上り坂の頂上にあるのが日蓮宗の円満寺えんまんじです。ここには下馬地蔵という地蔵堂がありそこからの眺望は最高です。今回の散策で最も間近に御船山が見れるスポットです。

円満寺
円満寺の地蔵堂と御船山

⑫ 山王社

円満寺から坂を下ると山王さんのう社です。山王社は比叡山にある日吉ひよし大社を総本社とし、日吉大社は比叡山の神である大山咋神おおやまくいのかみと奈良の三輪みわ山の神である大物主神おおものぬしのかみ大国主神おおくにぬしのかみ)が御祭神で、この二柱の神を山王と呼びます。全国にある日吉神社・日枝神社・山王神社は山王信仰に基づいた神社です。日吉大社では猿を神の使いとしているため猿の石像がここ山王社にも沢山ありました。12年に一度のさるの年に開かれる御田大祭は多くの人で賑わうそうです。

山王社
猿の石像

⑬ 線路横断地点

山王社からまっすぐ進むとJRの線路沿いの道になり街道は線路で分断されています。写真の地点で矢印のように線路を横断します。踏切がないので横断には気を付けなければなりません。または円満寺前の踏切から迂回して街道に合流することもできます。

線路横断地点
横断後の街道

⑭ 武雄新四国38番札所

踏切を横断して380m程進んだ所に武雄新四国38番札所があります。またこの右隣りにある木々の中には天照大神宮の石碑があります。末尾の参考に挙げている本によれば、ここに五輪塔があるとのことですが、もしかすると天照大神宮の石碑の隣にある石がそれなのかもしれません。それらしきものが崩れているようにも見えますが分かりません。詳細も不明です。

武雄新四国38番札所
天照大神宮の石碑と五輪塔?

⑮ 国道35号線

武雄新四国38番札所から330m程進むと写真の地点になります。ここで街道は渕の尾峠へ向かうため矢印のように左へ曲がります。隣を並走している国道35号線を横切った後すぐに左の脇道を進んで行きます。

矢印のように進み国道35号線へ進む
国道35号線を横切り脇道へ進む

ここで国道35号線沿いにある見所を三つ挙げておきます。国道合流地点を少し戻った所には薬師堂があります。上西山公民館の隣です。国道合流地点を少し進んで右に曲がると小さな丘の上に地蔵堂があります。ここからの眺めも良く御船山や渕の尾峠を見渡すことができます。

薬師堂
丘の上の地蔵堂
地蔵堂から渕の尾峠を望む

地蔵堂からJR線路側へ進むと九州鉄道時代の煉瓦造りのアーチ橋があります。一般に九州鉄道のアーチ橋は煉瓦の長い面を並べた列と短い面を並べた列を交互に積み上げたイギリス積みなのですが、ここでは珍しくトンネル内部は長い面だけを一段ごとにずらして積んだ長手積みになっていました。大きな損傷や汚れもなく割と綺麗な状態で残っていたのは驚きでした。なお煉瓦の積み方に関しては参考に挙げたリンクをご覧下さい。

九州鉄道時代のアーチ橋
トンネル内の様子

⑯ 湯の谷石橋跡

渕の尾峠に向かって街道を進むと武雄川に出ます。ここには湯の谷石橋があったとのことですが、どうやら7・8年前の水害で橋脚が損傷し通行止めになった後、現在では解体されて跡形もなくなっていました。2023年12月現在工事中で、今後どうなるのか分かりませんが新しい湯の谷石橋が完成したら渡ってみたいです。写真に示した矢印は橋が架かっていた場合の街道ルートを示しています。

湯の谷石橋跡

今回の散策はここまでです。最後まで読んで頂き有難うございました。

参考

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