九州の箱根・冷水峠
福岡県筑紫野市山家と飯塚市内野の境に位置する大根地山(625m)。その山越えの道を冷水峠と呼び、現在は国道200号線とJR筑豊本線が通っています。国道200号線は曲がりくねった「峠道」とトンネルによる「バイパス道」と二通りの道があります。いずれにしても交通量が多く、大型トラックが行き交っています。
長崎街道もこの峠を越えるのですが、江戸時代から九州の箱根と呼ばれる程の難所として知られていました。
この冷水峠の建設にあたったのは黒田二十四騎として知られる二人、桐山丹波守孫兵衛と母里但馬守友信です。黒田長政の命により、桐山も母里もそれぞれ山家宿と内野宿の代官に任じられ、宿場の整備と冷水峠道の建設に取り組むことになります。母里は後に内野太郎左衛門が代わりを務めることになり、こうして慶長の終わり頃(1615年頃)には開通したと言われています。

冷水峠は九州の諸大名が参勤交代の時に使用したのはもちろん、長崎奉行・幕府高官・オランダ商館長も歩きました。オランダ商館長の医員として派遣されたシーボルトやイギリス初代駐日公使オールコックもここを歩きました。オールコックは江戸までの旅の記録にこの冷水峠の風景の美しさを書いています。


冷水峠の頂上付近からは大根地神社への参道・登山道になっています。大根地神社は神功皇后やお稲荷さんと縁のある大変歴史のある神社です。

現在の冷水峠の街道ルート
かつての長崎街道は、現在の国道200号線(峠道)と大体一緒です。そのため、国道に沿う形でかつての街道を歩くことができます。一部失われた部分もありますが、幸い内野側の街道は国道から外れていたため石畳が綺麗に残りました。また「長崎街道」という標識が随所に立っているため、その通り進めば一応峠を越えることができます。

問題は大雨の影響で土砂崩れが起き、通行不可になっている箇所がいくつかあることです。そのような場所では表示がしてありますので国道を歩きましょう。その際は車に注意です。十分な幅の歩道はありません。
しかしながら、私が数年前に冷水峠を散策した時に比べると、標識や道が整備され、歩き易くなっていました。嬉しい変化です。次の二枚の写真は、かつて倒木で塞がれ水浸しだった道と土砂崩れが発生していた地点です。今はどちらも安全に通行できます。
峠は山家からも内野からも越えられますが、山家から超えた方が標識に気付き易いと思います。今回はそのルートでの散策です。
とは言え、大根地神社の鳥居から登山する人は見かけますが、こうして街道を歩く人はほぼいません。人気のない山を歩くことになり怖いと感じるかもしれません。無理せず時間に余裕を持って歩いて下さい。そして自然の美しさを味わいましょう。


冷水峠 散策
散策の始点は山家側の「浦の下橋」です。途中、下西山・上西山という地域にある神社に寄り道し、冷水峠の頂上にある郡境石に到着。そこから大根地山を登山。峠を降り、内野宿の手前を終点として散策しました。これはかなりハードな散策ですので、寄り道や大根地山の登山は余裕があればやってみて下さい。
なお、浦の下橋から山家宿の散策はこちらをご覧下さい。
① 浦の下橋
いよいよスタート。この道を真っ直ぐ進むと国道200号線の峠道。正面上の高架は国道200号線のバイパス道です。長崎街道は高架下の信号で左の細い道を進みます。
以下、国道200号線の峠道とバイパス道を「峠道」「パイパス道」と表記します。

② 比翼塚
比翼塚は「バイパス道」と「峠道」が交差する森の中にあります。先程の①から街道を進むと、この森が右手に見えてきます。比翼塚を見るには森に入っていかなければなりませんが、残念ながら入り口は木や草が生い茂り足場は滑り易く、草を分け入って行くにしても大変困難です。かつては整備され、石の階段やロープがあったようですが、今は完全に埋没しています。ここから入って行くのはお勧めしません。
もし行くのであれば①に戻りましょう。そのまま真っ直ぐ「峠道」を通ってこの森まで行きます。すると整備された入り口があり、標識もあります。こちらの方が簡単です。車には注意してください。
比翼塚とは切害塚ともいい、豊前中津藩の武士が自分の妻が同僚の男と駆け落ちして長崎へ二人で逃げていたのをこの地で敵討ちにしたという出来事によるものです。山家「浦の下」の豪農・山田又九郎が大日如来のあるこの森に塚を立てて弔いました。この二つの石は二人の墓石です。

③ 梵字石
比翼塚から30mほど先にあり、こちらも「峠道」沿いにあります。元々は20m程離れた高い場所にあったようですが、道路工事により現在地に移されました。かつてはこの辺りを大日峠とも言いました。これを見たら街道に戻ります。

④ 下西山寝手神社
左に山家川・JR筑豊本線を見ながら長崎街道を北上。すると下西山という地域になります。
下西山の方へ道を進んで行くと下西山寝手神社があります。この先の上西山という所にも寝手神社があり、どちらも大根地神社の神様が勧請されています。

神社の由来は、源頼朝の富士の巻狩りから逃れた白狐がはるばるこの地までやってきて、大根地権現から「ゆっくり寝てゆけ」とねぎらわれたことによると伝えられています。また大根地の根地とは本来は「寝手」であったとも言われています。

⑤ 冷水トンネル
「バイパス道」にある冷水トンネルです。街道は冷水トンネルの左の道を進みます。

⑥ 風景A
写真矢印のように進みます。この辺りを鍋峠と言います。


⑦ 大鍋・小鍋の川原
写真の地点を大鍋・小鍋の川原と言い、キャンプ地になっています。

⑧ 風景B
風景Aの道を進むと国道の峠道と合流しますが、これを横断し、向かいの道を進みます。


⑨ 風景C
雑木林を進むと山家川を渡す砂釜橋を渡ります。

⑩ 風景D
写真のように川土手の側面を進みます。木々のトンネルみたいで大変美しいのですが、足元にはご注意下さい。奥まで行くと土手を這い上がり「峠道」に出ます。

⑪ 茶釜石
茶釜石は「峠道」がカーブする道端の茂みにあります。

⑫ 風景E
茶釜石から街道は「峠道」の脇下の茂みを通ることになるのですが、現在は通行止めになっています。車に気を付けながら「峠道」を歩きます。


⑬ 風景F
写真の地点で橋を渡り、右の民家の前を通ります。

⑭ 風景G
写真の地点で「峠道」を渡り、向かいの道を進みます。

⑮ 上西山の猿田彦大神
この猿田彦大神で、街道は右へ進みます。今回は寝手神社・甕冠神社に立ち寄りますので左へ進みます。



⑯ 上西山寝手神社
上西山寝手神社までは階段を上って行きます。境内からの眺めも良いです。

⑰ 甕冠神社
神社の名前の由来は、寛永11年(1671年)に平島与兵衛と刻した大甕が奉納されたためと言われています。また、中世の豪族・肥後国の菊地氏が大保原・立花山の合戦で戦勝祈願し、戦に勝利したとも伝えられています。

⑱ 大日如来・猿田彦大神
大日如来を表す梵字石や猿田彦大神の石像、お堂などがあります。

⑲ 風景H
写真のように標識の立っている山裾の細い道が長崎街道ですが、土砂崩れのため通り抜けできません。「峠道」を歩きます。

⑳ 庚申尊天・地蔵
庚申尊天・地蔵は山裾の街道方面にあります。

㉑ 風景I
写真の地点も進めないため、引き続き「峠道」を進みます。

㉒ 大根地神社鳥居
写真の地点で左に進みます。大根地神社の鳥居があり、ここから綺麗に整備された街道(参道)を進みます。



㉓ 郡境石
大根地神社の鳥居の前は開けた空間になっており、ここが冷水峠の頂上です。ここに二つの郡境石が向かい合って建っています。



因みに、この郡境石の辺りは明治時代まで茶店が三軒程あったようです。お店の名物は「白おこわ」で、美味いと評判だったらしく、蒸したもち米の上に地鶏の肉をあられ状にしたのを振りかけた丼ぶりでした。ふるさと館ちくしのに複製が展示してあります。

㉔ 大根地神社・山頂
大根地神社の鳥居から山頂を目指して登ります。鳥居の所が大根地山の中腹なので頂上までおよそ325mです。急勾配の坂道が最初から最後まで続き、1時間半くらいで着きます。
頂上近くには、神功皇后が羽白熊襲を征伐するために指揮を執ったとされる烏帽子岩があります。

大根地神社は天神七代・地神五代を大根地大神として祀り、神功皇后が羽白征伐の戦勝祈願を行ったとされています。また須佐之男命・大市姫も合祀されており、狐のお稲荷様が沢山あることから稲荷神社でもあるようです。


神社から山頂までは10分位で着きます。360度見渡せる絶景です。

㉕ 首無し地蔵・石橋
山を下り再び郡境石まで戻ります。ここからは冷水峠は下る一方です。山家側と違い石畳の道が断続的であれ、麓まで続いています。

首無し地蔵のある場所は木々に囲まれた河原で、時間が止まったような特別な空間です。旅人がここの冷たい水で喉を潤したことから冷水峠と呼ばれるようになったと言われています。また前述したオールコックはこの場所のスケッチを残しています。

首無し地蔵は写真奥のお堂の中にあります。案内板には民話「首無し地蔵」のあらすじが書かれています。

地蔵の横で連れの男を殺した悪者がいました。悪者は地蔵にこのことは誰にも言うなというと、地蔵は「わしは言わないがお前は言うな」と忠告します。驚いた悪者は地蔵の首をはねました。数年後、悪者はここで別の男にかつて自分が地蔵の首をはねたいきさつを自慢げに話します。ところが、話した相手は殺された人の縁者でした。悪者はその男に斬られ敵を討たれたのでした。
首無し地蔵
川を渡す石橋の側面には、「文政六末秋新規仕居」と彫られているるようです。よく見てみましたが読み取ることはできませんでした。
石橋は文政6年(1823年)に造られ、記録からオールコックがここを通ったのが文久元年(1861年)、シーボールトが長崎を発ったのが文政9年(1826年)であることから、二人とも確実にこの石橋を渡ったと言えます。

㉖ 風景J
首無し地蔵を後にして石畳を下りていくと山は開け、麓の民家が数件見えてきます。廃墟ではないでしょうか。


㉗ 荒田の鳥居
写真の荒田の鳥居で「峠道」と合流です。左へ進みます。

㉙ 風景K
「峠道」を進むと「バイパス道」と接続できますが、そのまま「峠道」を進みます。この部分の「峠道」は、今では車がほとんど通りません。
さて、「峠道」をさらに進むと写真の地点に出ます。街道は左の細い道で、これは発峠に続きます。そして街道はその先でいずれ「峠道」に戻って来ます。その街道ですが、今は畑や線路などで消失し、通行できません。従って発峠には進まず、そのまま「峠道」を真っ直ぐ進んで下さい。


㉚ 風景L
「峠道」は「バイパス道」と合流。一本道となった国道200号線を進みます。やがて内野宿方面に分岐する脇道が見えます。写真の地点まで来たら内野宿の構口までは直ぐです。

この先の内野宿はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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