一 高橋は武雄唯一の川港町
今回の長崎街道散策は北方宿から塚崎宿までの凡そ5.5km。途中、高橋宿という間の宿があり、数え歌で「一(市)は高橋、二(荷)は牛津」と歌われた程、高橋の町は江戸から明治に掛けて武雄領内唯一の川港町として栄えました。(※この歌の高橋を佐賀城下の西に架かる高橋とする説もあります。)
六角川は潮の干満差が大きく、河口から29km程離れた大日堰(武雄市橘町)まで海水が遡上します。鉄道やトラックなど陸上輸送手段の発達していない時代は六角川の潮の干満差を利用する舟運が盛んで、牛津や北方、鳴瀬といった六角川沿いの多くの町と同様にここ高橋でも多くの船が出入りし、ここで荷揚げされた物資は周辺の地域へ輸送されました。

高橋宿では毎月六斎市が開かれ年末年始、お盆や田植え後の「さなぼり」には大売り出しがあって大変賑わっていたようです。さなぼりとは田植えが無事に済んで田の神様を送る祭事で、反対に田植え始めは「さびらき」と言います。

荷揚げは町の南東に位置する新堀津で行われ、陸路と小舟を使って高橋の商店に運ばれていきました。従って町中に小舟が通る水路があり、橋は船が通り易いように高く架けられました。これが高橋の地名の由来となっています。

写真は高橋宿の水路に架かる船瀬橋で現在はコンクリート橋になっていますが、かつては石橋が架かっていたようです。その奥には大正橋が架かっています。現在は水量が少ないため船を浮かべるのも困難だと思いますが、水嵩が増せば往時のようにこの水路を小舟が多く行き交っていたのを想像するのは難くありません。



二 享保のルート変更
高橋宿は鍵型に二度折れ曲がる町並みをしていて、その西側に享保橋という元号の付いた橋が架かっています。この橋が架けられたのは享保2年(1717)で、それ以前の長崎街道は小田宿と北方宿の間にある焼米の追分で南に進み塩田を経由して嬉野へ向かうルート(塩田通)でしたが、度重なる塩田川の氾濫により小田→北方→塚崎→嬉野へ変更されました。享保橋はこのルート(彼杵通)への変更がきっかけとなって掛けられました。

実際の所、佐賀藩多久領の業務日誌『御屋形日記』によると享保3年に福岡藩主・唐津藩主が唐津方面から長崎へ下る際、塩田通を使用したとあり、享保4年に初めて幕府の長崎御目付役が北方から塚崎へ通ったとあることから、このルート変更が始まったのは享保4年以降で、高橋や塚崎がそれによる経済的恩恵に授かったのもこの時以降と考えられています。
三 「北方~塚崎」の散策
散策の始点は北方宿の西構口跡、終点は塚崎宿の夢本陣としました。途中、武雄鍋島家の菩提寺である円応寺についての記述がありますが、円応寺は街道筋からは大きく外れるため、この順番で一度に全て歩いて散策するのは困難でしょう。私は別日に訪れました。時間・体力共に無理のない散策をして楽しみましょう!
① 北方宿 西構口跡
北方宿については次のリンクをご覧下さい。構口跡とは言え遺構は何も残っておらず、この小さな川を渡す白い柵の付いた橋があるのみです。
ここを進むと国道498号線に合流し広い道を進んで行きます。武雄北方ICを越え、その先のY字路で国道から外れて裏通りを進むと高橋宿へ到達です。この間凡そ1.5kmで特に遺跡等見所はありません。



② 妙輪寺
高橋宿に到着して一番最初のスポットはここ妙輪寺です。妙輪寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。

③ 新堀津跡
かつての川港だった場所がここ新堀津跡です。写真は「新堀津跡」の石碑と新堀橋の改築に寄付した芳名塔です。新堀津には蔵屋敷が数戸もあり新堀津蔵番が取り締まっていたと言います。武雄領内唯一の川港であり、武雄領主は領内に海軍を持たなかったため、ここに舸子(水夫)を23人置いて不時に備え、御用船「高橋丸」を常備していました。

④ つねみせ
昔の商店をそのままの形で修復した桑原家の家屋です。「古川呉服店」「つねみせ」と呼ばれる着物屋だったとのことです。

⑤ 高橋天満宮
高橋宿の表通りに乃多屋という割烹料理店があり、その隣に高橋天満宮の鳥居が立っています。参道は裏通りに向かっており、境内には右から順に高橋恵比須神社・高橋天満宮・祇園牛頭天王社の三社があります。高橋天満宮は高橋の産土神で学問の神である菅原道真を祀っています。


高橋恵比須神社は恵比須神を祀り、ここの見所は社殿の屋根下に見ざる・言わざる・聞かざるの三猿の彫刻があることでしょう。小さいですがお見逃しなく。
祇園牛頭天王社は素戔嗚命と同一神とされる牛頭天王をお祀りし、疫病退散を願う祇園祭りが毎年夏に行われます。



境内の左手には石祠や石碑が集約され、かつて新堀津のJR線路横にあったとされる大日如来の石碑もいつの間にかここに移設されていました。また境内右手には六地蔵塔があり、これは火除け地蔵と言って明治3年(1867)に高橋が大火事に見舞われた際に当時の区長が柳川の石工に頼んで作ってもらったものです。


⑥ 光明寺
高橋宿の裏通りから東へやや外れた所にある光明寺は真言宗の寺院です。武雄新四国八十八ヶ所の総本寺です。

⑦ 高峰寺・上滝八幡神社
高橋宿を北上していくとあさひこども園や朝日小学校が見えてきます。ここを左へ曲がれば享保橋ですが、寄り道して右手の小高い丘の方へ進み、高峰寺と上滝八幡神社に立ち寄りました。高峰寺は臨済宗南禅寺派の寺院で上滝八幡神社と隣り合うように小高い丘の中腹に建てられていますが、由緒等は分かりませんでした。上滝八幡神社の本殿前の狛犬は中々の重量感がありました。


⑧ 享保橋
何の変哲もないコンクリートの橋ですが、先述のように長崎街道が武雄経由へルート変更されたこと伴い、享保2年(1717)に架けられた橋です。

⑨ 閻魔大王の石像
享保橋を過ぎると開けた田圃道を800m程進み、そこから上り坂になって丘を越えることになります。上り坂の入口付近に武雄領主の後藤家信が朝鮮出兵に従事した時に持ち帰ったと伝えられる閻魔大王の石像があります。像は多くの人が触っていったせいなのか擦り減って顔の様子がよく分からなくなっていました。

閻魔大王と言えば冥界の王、地獄の裁判官といったイメージがありますが、元々はインド神話における人類の祖ヤマがモデルとされ、それが仏教に取り入れられて次第に訛ってエンマになったと言われています。こんな所になぜ閻魔大王がいるのか不思議に思いますが、日本では地蔵菩薩の化身として崇められていたそうで、現地の人々の暮らしや街道を行き交う人々の安全を見守るような役目を担っていたのかもしれません。

⑩ 追分の石柱
閻魔大王の石像から560m程先で写真のような分岐があり矢印のように細い道を進みます。右奥に見える綺麗な台形型の山が柏岳でこの麓に武雄鍋島家の菩提寺である円応寺があります。

細い道を進むと写真のように大通りへ合流します。この合流地点に追分(分岐点)を示す石柱が立っていて「長崎街道」、その裏面には「唐津往還」と刻まれています。え?どういうことと思いますが、この大通りを北上すれば唐津方面なので昔もここから唐津へ向かう街道があったのかもしれません。


⑪ 英彦山大権現社の鳥居・方立石
追分からまもなく英彦山大権現社の立派な石鳥居が目に入ってきます。第3代後藤(鍋島)茂和の時、子供に恵まれなかったためこの地に勧請したとされる権現様で、これにより寛永19年(1642)第一子茂紀を授かることができたと伝わっています。しかしこの子は正室との子供ではなかったので諫早で隠して養育し、後に呼び戻して跡を継がせました。

鳥居は道路から目立つ位置にありますが肝心の社殿がどこにあるのか周辺を探しても分かりませんでした。柏岳にあるのでしょうか、御存知の方は教えて下さい。
英彦山大権現社の鳥居から少し進むと写真のように武雄のシンボルである御船山が見える景色になります。この写真のちょうど左手に、大変見逃し易いのですが、方立石という何の変哲もない石が立っています。隣で住宅の新築工事が行われていましたが、それでもこの石だけは取り払わず敢えて残しているようだったので私はそれと確信しました。しかしこの石が実際何なのか謎で、どうやら奈良時代にまで遡る大変古いもので、昔はこれで方位を示していたそうです。


方立石から200m程街道を進むと写真のように僧庵橋という名の橋があって、ここを矢印のように左へ曲がります。この近くに円応寺の僧庵があったからこう呼ばれた橋ですが、ただの小さなコンクリートの橋で名前のみが風情を留めています。街道はこの後330m程裏道を進んだ後再び大通りに合流し、八並水源池交差点に出ます。

⑫ 須鵞神社
八並水源池交差点から南へ200m程進んだ所にあるのが須鵞神社です。祇園社とも呼ばれていますので御祭神は牛頭天王こと素戔嗚尊です。由緒は武雄領主第2代後藤資茂が武雄の東の護りとして建てたとされています。また蛇伝説があるとされていますが、調べてもそれがどのようなものなのか私には分かりませんでした。御存知の方はお知らせ下さい。
後藤資茂は前九年の役で功績を挙げ武雄に地頭として任じられた後藤章明の子供です。平安時代後期の11世紀、後藤氏が初めてここ武雄にやって来た時の人物であることが分かります。従ってこの神社もそれだけの古さを持っています。杜の中に佇む社殿は雰囲気があり、境内には大変太い楠がありました。

境内の右手にあるお社には木造の牛頭天王坐像が収められていたそうで、写真付きの案内板が立っています。密教的な天部の姿をしたこの像は珍しいらしく武雄市重要文化財になっています。

⑬ 円応寺
円応寺へは八並水源池交差点から北へ1km程進んだ所にあり、一直線に伸びる桜並木の参道は花見スポットとして有名です。長崎街道から離れているため街道散策とは別に訪れた方が良いでしょう。円応寺は曹洞宗の寺院で武雄領主第20代から続く武雄鍋島家の菩提寺です。
桜並木の一番南にあるのが鳥居型石門です。塩田で採れた安山岩を塩田の石工が加工して、寛政10年(1798)に造られました。江戸時代に造られた石造りの鳥居型石門は希少であるとのことです。中央に「白雲関」の扁額石が付いています。このような石造りの門は仏教寺院で時々見るのですが、やっぱり珍しいです。

200m程続く参道の先にはアーチ型石門があり、これも文化14年(1817)の江戸時代の作で、下から八段目まで綺麗に切り石を並べ整った姿で残っているのは珍しいとのことです。中央に「西海禅林」と刻まれた扁額石があります。禅寺に洋式の石門があるとは驚きでした。

柏岳を背に佇む円応寺は荘厳さと自然の美しさが融合した空間で只ならぬ重みのある場所だと感じました。階段を上って行くと威厳のある楼門があり本堂もシンプルながらドーンと構えている様子でした。


楼門や本堂の左手には歴代領主の墓が立ち並ぶ御霊屋があります。どれが誰のものかは分かりませんが、2m近くはある五輪塔が一所に幾つも並んでいて、ここが菩提寺であることを実感しました。対馬を訪れた時に宗家累代の菩提寺だった万松院で見た光景と重なりました。一つ言うなら落ち葉で地面が埋め尽くされて掃除されておらず、五輪塔の入ったお堂がボロボロだったのは残念です。御霊屋を綺麗にすれば御霊もきっと喜ぶでしょう。




⑭ 八並水源池跡
再び八並水源池交差点へ戻ります。交差点を過ぎて間もなく八並水源池跡があり記念碑が立っていて小さな公園になっています。武雄市の水道発祥の地で、昭和2年(1927)豊富な地下水のあるこの地から水道水を市内へ供給し始め、平成9年(1997)に市内全域が給水区域になったことを記念してこのような記念碑が建てられました。

⑮ 八並の石塔・夜泣き地蔵
八並の古さを感じさせる街道筋を歩くこと約250m、交差点の一角に地蔵堂と石塔がひっそりと建っています。この石塔は佐賀県最大級の角宝塔で3m程の高さがあり、その異様な大きさに驚きました。住宅地にこんな大きな石塔がある風景は中々の衝撃です。地蔵堂は夜泣き地蔵を安置し、子供の夜泣きをおさめてくれるお地蔵様です。

さてこの石塔ですが、日本三大仇討ちの一つである「曾我兄弟の仇討ち」が由来となっています。これは建久4年(1193)に源頼朝が行った富士の巻狩りの際に発生した事件です。巻狩りとは遊興や神事祭礼、軍事訓練のために行われた大規模な狩猟で、大人数で周りを囲み獲物を射捉えるものです。頼朝は征夷大将軍たる自身の権威を誇示するために配下の御家人を大勢集めて富士山麓で巻狩りを実施しました。
この時、巻狩りに参加していた曾我祐成と曾我時致の兄弟は父親の仇である工藤祐経を討ちます。結果、兄の祐成は殺され弟の時致は捕らえられて獄中で病死しました。祐成の許婚であった虎御前は尼になり、佐賀の小城にある岩蔵寺へ下って兄弟の冥福を祈りました。その際、虎御前は中国と四国に石塔を建て、三番目に建てたのがこの八並の石塔であると伝えられています。

ここで余談ですが、石塔の基礎となる石には盃状穴と呼ばれる窪みが幾つもあります。この窪みの意味は不明とされており、一般的には願掛けの一種で地域信仰の表れと考えられています。しかしこの盃状穴については面白い説があり、古代の祭祀跡ではないかとも言われています。日本だけでなく世界の名立たる古代遺跡から同様の盃状穴が認められ、今から1万2千年前の世界最古の遺跡ギョペクリテペ(トルコ)でも見られるとのことです。
詳細は参考に示す文献を読んで頂きたいのですが、簡単に言うと、縄文時代に日本を中心とした海洋民族が世界中に散らばって祭祀を行った痕跡であるというもので、大変興味深いです。その後日本にやって来た渡来人が海洋民族の風習を否定する形で盃状穴のある石を神社や寺院など自分たちの宗教施設の資材として利用したのではないかとされており、壮大な歴史観を唱えています。確かにこのような盃状穴は神社や庚申塔などの土台石などでよく見かけます。この八並の石塔にもそのような歴史があるのかもしれません。
⑯ 諏訪神社
諏訪神社と言えば長野県の諏訪湖近くにある諏訪大社を総本社とし、御祭神は建御名方神と八坂刀売神で知られています。建御名方神は日本神話の「出雲の国譲り」で登場し、葦原中国を治める大国主の御子神です。八坂刀売神は建御名方神の妃です。建御名方神は高天原系の天照大神が葦原中国を奪い取るために遣わした建御雷神と力比べをして敗れ、諏訪湖まで追い詰められました。そしてそこから出ないように約束され、その地に祀られるようになったというエピソードがあります。
八並に諏訪神社が建てられたのは13世紀の終わり頃で、第5代後藤清明の次男がこの地を領地として与えられ、館を構えました。その際、八並の守護神として諏訪の神様を祀ったのが起源になります。

境内には写真のように三つの伊勢講碑があります。伊勢講碑とは仲間で伊勢神宮に参詣しその目的を果たした記念に設置したものです。
右二つは江戸時代のもので一番左が明治38年(1905)のものです。この明治の伊勢参詣は鉄道を使った往復15日の旅だったという道中記録が残っており、交通機関の発達を伝えています。

神社の後ろは小高い丘になっていてその裏に「八並さん」と呼ばれる大きな五輪塔があります。元寇が攻めて来た時、八並領主は乗っていた白馬がつまずいて落馬した所を敵にやられ戦死しました。この五輪塔はその領主と家族が葬られた所に立てられ、八並神社として祀られています。
以後、八並の人々は領主が戦死したのは馬がつまずいたためとして馬を飼うことを禁止し、これは明治になるまで守られたと言います。八並さんは鉄柵の付いたコンクリート塀で厳重に囲まれ、風情のない格好になっていますが、地域信仰として根強く長い間語り継がれていたのが分かります。

⑰ 塚崎宿 夢本陣
諏訪神社を後にして街道を進むと宮野町に入って行き、次第に町通りが賑やかになっていきます。いよいよ塚崎宿に到着です。

夢本陣は長崎街道の魅力を伝える公園兼有料駐車場で、写真のような櫓と白壁のモニュメントがあります。中でも長崎街道全27宿の宿場町それぞれを象徴的に描いた絵が、宿場町の特徴や魅力をよく捉えていて素晴らしかったです。今まで訪れた宿場町を思い出して見入ってしまいました。




終点の夢本陣の近くには寺院など見所がありますが、その説明は塚崎宿散策で紹介します。次のリンクからご覧下さい。今回の散策はここまでです。最後まで読んで頂き有難うございました。
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