内野~飯塚

長崎街道

山から街へ繋がる街道

長崎街道の内野宿から飯塚宿までは3里7町(約12.5km)で、これは筑前六宿においては飯塚‐木屋瀬間の4里20町(約17.9km)に次ぐ2番目の長さになります。勾配もなく歩きやすいですが、やはり10km超を歩くので楽ではないでしょう。

街道は大部分が現在もそのまま残っているため、忠実に歩くことができます。山の麓から歩き始め、広大な田畑と小さな集落を経て街中へと進んで行きます。風景は山から街へ大きく変わるため、飯塚宿に着いたときには、出発地の内野の山々が昔のことのように感じます。

山々に囲まれた内野(小深田)

街道は現在の飯塚市と桂川けいせん町を通り、主な経由地は阿恵あえ・長尾・豆田まめだ寿命じゅめい・瀬戸・天道てんとう・楽市・堀池・徳前とくぜんです。自然を最も味わえるのは内野・阿恵・長尾です。豆田・寿命は住宅地で、瀬戸では川を渡ります。天道は古い寺社や家屋が残り、今回の散策で最も江戸時代の町並みを感じる場所です。楽市・堀池の住宅地を抜け、徳前で再び川を渡ると、商店街が連なるかつての飯塚宿に繋がります。

瑞穂菊酒造(天道)

JR筑豊本線(福北ゆたか線)と筑豊の大動脈・国道200号線は街道に沿って造られています。街道を歩けば、いつもそばにJRの線路や駅があることに気付きます。JR4駅分(筑前内野・上穂波かみほなみ桂川天道・飯塚)を線路に沿って歩くような感覚です。加えて内野から寿命までは、歩いている傍を多くの自動車やトラックが高速で走っている様子が見えます。

街道隣の国道200号線を自動車が高速で駆け抜ける(内野)

内野~飯塚 散策

散策の始点は内野宿東構口跡、終点は飯塚宿西構口跡としました。散策日は2022年11月6日(日)。天気は晴れ。気温は最高21℃・最低6℃。絶好の散策日和でした。所要時間は5時間50分(9:40~15:30)。内野宿には無料の見学者用駐車場があり、車をそこに停めて散策を開始しました。終点の飯塚宿西構口からはJR新飯塚駅前まで歩き、筑前内野駅で下車して戻りました。

青空は景色を美しく一変させてくれる重要な要素です。ほぼ一日を通して青空に恵まれたため、鮮やかな写真をここに掲載することができてうれしいです。また紅葉した木々が美しく、阿恵老松神社の銀杏は黄金に輝いていました。

阿恵老松神社の黄金の銀杏

なお、内野宿・飯塚宿の散策記事はこちらをご覧ください。

① 内野宿東構口跡

内野宿見学者用駐車場から内野宿を北へ進み、宿場の出入り口にあたる構口かまえぐちが今回のスタート地点です。看板のみで遺構は確認できません。ところで構口はいつも東・西と名付けられ、北・南とは言いません。内野宿は南北に連なっていますので北構口が相応しいようにも思いますが、これは江戸を東とし、そちらに向かう方角なので東搆口と呼ぶのだと思います。写真奥は内野小学校です。

内野宿東構口跡

② 小深田の街道松・一里塚跡

街道を進むと写真のような緩やかな下り坂に差し掛かり、左手は土手になっています。このあたりは小深田こふかだという地域で、この土手に「内野最後の街道松」の看板が立っています。知らないと見過ごすでしょう。

この辺りは松並木だったようですが、昭和50年代初めに最後まで残っていた松も伐採されました。見にくいですが、看板には最後の松の風景写真が付いています。この看板の5mほど先には一里塚があり老松が生い繁っていたとのことです。

左手はかつての松並木(小深田)
土手に立つ看板

すぐ先には「内野・小深田」の看板があり、空き地には祠などがありました。タイミングよく列車も通過です。筑豊本線(原田-桂川)は単車で1時間に1本あるかないかです。

小深田の祠

③ 風景(横山)

街道はしばらく山裾を進み、緑豊かで気持ちのいい散策ができます。下の写真の地点で一時国道200号線に合流するも再び山裾へ分岐します。この辺りは横山です。

国道200号線と合流(横山)
国道200号線から分岐(横山)

④ 横山峠

写真の地点に「長崎街道 横山峠」の看板があり、紙垂が張られ、どうやら境界を示しているようです。右手の階段を上ると大師堂があります。峠というには平坦ですが、こうして看板を立てるからには、かつては急峻だったのかもしれません。

横山峠
大師堂

⑤ 茶臼山城

写真の地点は第2七畑ななはた踏切で、左の桜の木には湯ノ浦公民館があります。この踏切を渡ってすぐのところに茶臼山城の石碑がありましたので、一応掲載しておきます。

裏には説明文がありましたが、漢文で到底読み解く気にはなれませんでした。中世の秋月氏の居城であるのは確かなようです。誰にも読めるような平易で分かりやすい案内板を立ててもらいたいものです。街道を進むと猿田彦大神の石がありました。

第2七畑踏切
茶臼山城址
猿田彦大神(阿恵)

⑥ 阿恵愛宕神社

愛宕神社の御祭神は、火事や天災から人々を守る防火の神様と言われています。社殿は小さなコンクリート造りで趣はありませんでしたが、掃除はきちんとしてありました。

阿恵愛宕神社
阿恵愛宕神社

⑦ お堂・集魂墓

阿恵愛宕神社を過ぎると、山々を抜け田畑が広がる風景になります。国道200号線側にこんもりと木が密集している所があったので立ち寄ってみると、お堂やお墓・祠などがたくさんありました。

こんもりとした木々(阿恵)
お堂(阿恵)
集魂墓の石(阿恵)

⑧ 風景(阿恵)

街道は阿恵の住宅地に入ります。阿恵はJR上穂波駅周辺が中心部だと思いますが、もう廃れてしまい寂しく感じました。写真は赤いトタン屋根で葺かれた古い家屋のある阿恵の街道風景です。この先で橋を渡り住宅地をしばらく進むと阿恵老松神社があり、中心部に至ります。その先には田中酒店がありなんとなくかつての繁栄が感じられます。

街道の風景(阿恵)
橋(阿恵)
田中酒店(阿恵)

⑨ 阿恵老松神社

阿恵老松神社は立派でやはりこの地域の歴史を感じさせます。境内に植わっているのは銀杏で、一番美しいタイミングに訪れることができました。本殿破風の装飾に人か猿のような一風変わったキャラクターがあったので掲載します。

阿恵老松神社
阿恵老松神社
本殿破風の装飾
境内に集約された猿田彦大神の石

⑩ 長尾老松神社

街道は長尾の住宅地に入り、ここにも老松神社があります。老松神社は菅原道真と縁があります。道真が松を植えるとき、松が一夜のうちに成長し古木になるなら、後年自分の無実が晴れるだろうと念じると、一夜で老いた松になったという言い伝えや、飛梅の後に続いて、左遷された太宰府へ道真を追って(老って)飛んで来たという言い伝えによります。

長尾老松神社

ここ長尾老松神社はそれよりもっと古い由緒があり、驚きました。天平3年(731)行基は筑紫を行脚しているとき、高祖明神から信託を受けます。神様は若杉という峰にお祀りされていましたが、年老いた者には参詣に不便なため官道の通る便の良い長尾に祀ってほしいというものでした。そこで行基は伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの神像を彫り、この地に奉納したというのが起源です。

長尾老松神社

かつての官道は太宰府から米山こめのやま峠を越えて筑豊へ抜けていました。米山峠は宝満山と大根地おおねち山の間の峠道で、これは冷水峠を通る長崎街道とは別です。中世までは米山峠が主要ルートだったようですが、その実態は現在もよく分かっておらず、個人的に興味があります。こうした神社の起源を聞くと長尾と官道のつながりを感じワクワクします。

⑪ 風景(長尾)

写真の曲がり角を右へ進み汐井川しおいがわ橋へ向かいます。

街道の風景(長尾)

⑫ 汐井川橋

穂波川を渡す汐井川橋。穂波川は遠賀川の支流で、水源を冷水峠に持ちます。穂波川も長崎街道に沿ってずっと流れています。橋の先の長尾交差点で国道200号線と合流。北へ向かいます。

汐井川橋
長尾交差点

⑬ 風景(平塚)

写真は国道200号線の出雲交差点付近の風景です。この辺りは平塚という地域です。

街道の風景(平塚)

⑭ 日露戦役記念碑

出雲交差点を渡るとすぐに街道は左の細い道へ分岐します。分岐地点には日露戦役記念碑が立っています。

街道の分岐点(平塚)
日露戦役記念碑
街道の風景(平塚)

⑮ 豆田の追分石

街道を進むと豆田天満宮の鳥居の手前に写真のような追分石があります。おそらく現代に造られた新しいものでしょう。「← 天道 飯塚 道/→ 出雲 長尾 道」とあり、長崎街道を示しています。また右側面には「→ 九郎丸道」とあり、これは国道200号線の東側にある九郎丸という地域に通じています。

豆田の追分石

⑯ 豆田天満宮・天神山古墳

豆田天満宮の参道は国道200号線を歩道橋で渡るようになっています。面白いのは社殿が古墳の上に建てられていることです。案内板にある図を写真に撮って掲載しています。古墳を部分的に削って社殿が建てられているのが分かります。天神山古墳は前方後円墳で全長約62m、周濠が巡らされています。

内部の発掘調査は行われていないのですが、北西約700mに位置する装飾古墳で有名な大塚古墳との関係が指摘されており、天神山古墳も装飾古墳である可能性があります。なぜ発掘調査をしないのでしょうか。

豆田天満宮
豆田天満宮
天神山古墳
天神山古墳(案内板)

⑰ 新茶屋踏切

豆田天満宮を後に街道を進みます。写真は新茶屋踏切で、これを渡り北へ進みます。踏切の先には長崎街道の案内板もあります。

新茶屋踏切

この案内板から面白いことが分かりました。長尾から順を追って歩いてきた長崎街道ですが、これは元禄14年(1701)に変更された新しいルートであるとのことです。それ以前の古いルートがあり、それは「⑪風景(長尾)」のところで右に曲がらず直進するルートです。確かに、街道がそこで急に90度折れ曲がるのは不自然だなと私は感じていました。直進するのが道の様子からして自然だと思ったのです。

直進すると大木という地域になり、そこに一里塚・猿田彦大神の石があるそうです。さらに中屋という地域を通り、その後は詳しくは分かりませんが、川を渡って天道へ続くのだそうです。いつか歩いてみます。

長崎街道案内板
街道の風景(寿命)

⑱ 寿命天開稲荷社

天開稲荷社は京都の伏見稲荷大社の分霊をお祀りした神社です。太宰府天満宮の裏にある天開稲荷社は有名です。稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神うかのみたまのかみです。食物の神様で女神と言われています。謎多き日本の神様ですが、社殿の扉が開いていたので中を拝見すると、宇迦之御霊神の石像がありました。やはり女神で、印象的なのは足元の龍です。かなり大きく4匹はいるでしょう。私は日本の神話や古代史の謎にも興味があるのですが、龍は一体何を表しているのでしょうか。興味が尽きません。

宇迦之御霊神
寿命天開稲荷社
寿命天開稲荷社

⑲ 迂回地点(寿命~瀬戸)

さて、街道は写真の地点に出ます。本来は正面のガードレールを突き抜け、その先の泉河内いづみごうち川を渡ります。この川渡しが「瀬戸の渡し」です。しかし、それはできませんので迂回です。まずここを右に曲がり、寿命交差点に出ます。

迂回地点(寿命)

矢印のように寿命交差点を渡り、その後は散策地図を見て頂きたいのですが、直近の交差点を2度左折すると、ちょうど先程の延長線上に当たる場所に行くことができます。

寿命交差点
瀬戸の渡し(泉河内川)

⑳ 瀬戸の渡し・川庄屋蔵跡・街道の分岐点

写真左は川波家の家屋で、当時は川庄屋でした。旅人はこの家で休憩したと伝えられています。右は蔵跡で石碑が立っています。渡し場の川幅は十間ばかり(約18m)で、旅人は歩いて渡り、近くには旅館・茶屋・馬つなぎ場があったとのことです。

川波家の家屋と川庄屋蔵跡

写真に「瀬戸の渡し」の矢印看板がありますが、ここから渡し場へ直接は行けません。草木が塞いでいます。

「瀬戸の渡し」の矢印看板

加えて、この地点には石碑が立っています。明確には分かっていないようですが、瀬戸の渡し付近が秋月街道と長崎街道の分岐点でした。ここで言う秋月街道とは、飯塚と秋月を結ぶ街道のことです。当時は追分石が立っており、「左 秋月海道 右 肥前海道」と刻まれていました。「街」道ではなく「海」道なのですね。

街道の分岐点の石碑

㉑ 「一里塚・瀬戸の渡し」案内板

しばらく街道を進むと、写真のように「一里塚・瀬戸の渡し」案内板が立っています。街道はこの先の大楠おおくす踏切の手前を右に曲がり、線路に沿って進んで行くことになるのですが、結局のところ線路に阻まれ行き止まりです。一里塚はその行き止まり付近にあったようです。一応行ってみましたが、案内板にある通り、現在遺構は確認できませんでした。従って迂回です。大楠踏切を渡り右折、県道473号線を進みます。

「一里塚・瀬戸の渡し」案内板
線路沿いの街道の風景(行き止まり)
県道473号線

㉒ 恵比須神社

恵比寿神とはどんな神様なのでしょう。インド伝来の七福神の一柱として一般的に認知されていますが、日本神話の蛭子命ひるこのみこと事代主神ことしろぬしのかみと同一視する説もあります。しかし、街道や宿場町に見られる恵比須様の石像は七福神の一柱でしょう。にこやかな表情で釣竿を持ち鯛を抱えるお姿が印象的です。幸福をもたらす象徴として、街道や宿場町の人々は商売繁盛を祈願したのでしょう。何も案内板はありませんでしたが、この恵比須神社もそうだと思います。

恵比須神社

㉓ 風景(天道)

恵比須神社から天道宮までの間に白壁の家屋がいくつか残っています。天道は古い街並みを感じることができる場所です。瑞穂菊酒造は奥に深い長屋の様子が垣間見れました。機会があれば店内に立ち寄ってみてください。

篠崎商会
瑞穂菊酒造
魚佐醤油

㉔ 川艜船荷役場

川艜かわひらた船とは底の平たい船で年貢米や石炭・特産物を積んで遠賀川を往来していました。江戸・明治時代の重要な輸送手段です。遠賀川流域の飯塚・直方・中間・芦屋、さらには人工水路・堀川を通って黒崎・若松へ輸送することができました。そちらを散策した記事にも川艜船について触れていますのでご覧ください。穂波川に面した天道は川艜船輸送の最上流に当たる街だったのでしょう。

川艜船は後に鉄道に取って代わられ姿を消します。この荷役場でちょうど穂波川と泉河内川が合流し、川幅が増します。

川艜船荷役場跡
穂波川と泉河内川の合流

㉕ 天道宮

案内板によれば、天道宮の御祭神は天照大神です。そして由緒には、平安時代に起きた藤原純友の乱が古老の言い伝えとして紹介されています。源満仲みつなかが乱討伐の勅命を受け、大将陣たいしょうじん山の麓に祀られている天照大神に祈願し、全軍玉串を襟に差して戦った結果、純友軍を撃滅させたとのことです。大将陣山はすぐ東側にある山で現在は公園になっています。その麓にある天照大神を祀った神社が、この天道宮に当たるということです。

参考までに、勅命を受けたのは源満仲ではなくその父・源経基つねもとではないかという指摘をグーグルマップのクチコミで見かけたので正しくはその通りなのかもしれません。

天道宮

㉖ JR天道駅

街道は天道宮からJR天道駅へ向かいます。写真奥に見えるのは大将陣山です。駅前の小道が街道で、これを北へ進みます。街道に沿って水路も並走しています。大将陣山の横を過ぎると今度はボタ山が見えます。ピラミッドのようなきれいな形をしていますが、これは石炭を採掘した時に出た硬石が捨てられてできた円錐形の人工の山です。炭鉱都市・飯塚の象徴です。

JR天道駅
街道の風景(天道)
ボタ山

㉗ 新道交差点

街道は新道しんみち交差点で県道473号線と交差します。写真矢印の方向へ進みます。

新道交差点

㉘ 風景(楽市~忠隈)

街道は楽市・忠隈の住宅地を進みます。写真は楽市で見かけた唯一の白壁の家屋です。大地震が来たら簡単に倒壊しそうで危ないです。古い面影を残す建物は他に確認できませんでしたが、街道は県道473号線と並走するように分かりやすい形で残っています。

また長崎街道と表示された石碑が3か所もありました。楽市小学校の校門横と写真の2か所です。校門横には「昔 この道 長崎街道 今 あいさつ街道」とありました。上手く言いましたね。

白壁の家屋(楽市)
長崎街道石碑(忠隈)
長崎街道石碑(飯塚市穂波支所)

㉙ 風景(堀池)

街道は堀池古川交差点に出ます。街道はまだまだ直進です。

街道の風景(堀池)

㉚ 貴船神社・金倉寺

案内板によると、貴船神社の御祭神は高龗神たかおかみのかみ闇龗神くらおかみのかみです。どちらも水の神様で、洪水・旱魃などの災害から人々の安全を守ってくださるとのことです。貴船神社の裏には金倉寺きんそうじがあります。真言宗醍醐派の寺院で、本堂前の不動明王がお出迎えです。境内には石仏などがあります。

貴船神社
金倉寺

街道はさらに北へ進みます。終点まであと1.5km程です。堀池から徳前は殺風景な住宅地が続きます。

街道の風景(徳前)

㉛ 徳前大橋

穂波川を渡す徳前大橋。橋を渡れば飯塚宿はすぐそこです。徳前大橋北交差点では写真矢印の方へ進みます。

徳前大橋
徳前大橋北交差点

㉜ 飯塚宿西構口跡

ようやく飯塚宿西構口跡に到着です。お疲れさまでした!この先、飯塚宿の散策についてはこちらをご覧下さい。

飯塚宿西構口跡

今回の散策の魅力は山と街の雰囲気を両方を味わえることでしょう。また豆田までは天満宮・老松神社を多く見かけました。天神信仰の篤い地域だったのかもしれません。峠を一つ越えれば太宰府天満宮に行くことができるという地理的な要因もあるでしょう。そういった地域の特色に気付くのも面白いです。最後に好天に恵まれたことに感謝して終わります。最後までご覧頂きありがとうございました。

参考

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