大里宿

長崎街道

赤煉瓦の残る街・大里

門司といえばレトロな洋風の建物が残る関門海峡の沿岸都市。写真は国道199号線沿いの大瀬戸という海岸から望んだ関門海峡です。この道を東に3.5km進むとJR門司港駅で、「門司港レトロ」とよばれる観光スポットが広がります。対岸には下関の街が見えます。大里だいりはこの手前、2km西へ進んだJR門司駅周辺の地域で、赤煉瓦の建物が多く残っており「門司赤煉瓦プレイス」とよばれています。

大瀬戸の海峡の風景

明治から大正初期にかけて急速な発展を遂げた関門海峡沿岸の都市、下関・門司・若松。下関はイギリスに対して港を開き英国領事館が置かれ、門司は三菱や三井などの商社や鈴木商店の資本によって食品工場の建物が立ち並び、若松は筑豊の石炭輸送を中継しました。文化庁はこれらに点在する遺跡をまとめて日本遺産「関門“ノスタルジック”海峡」として登録しています。

関門海峡に工場建設・明治の鈴木商店

鈴木商店は明治期に日本一の年商を誇った商社で、関門海峡の交通・流通の利便性に目を付け、沿岸部に多くの工場を建設しました。大里にある鈴木商店が建設した代表的な建物を三つ順に見ていきましょう。下の二枚の写真は旧サッポロビール九州工場(前身は帝国麦酒ビール株式会社)の醸造棟・事務所棟・倉庫です。

旧サッポロビール九州工場の醸造棟
旧サッポロビール九州工場の事務所棟
旧サッポロビール九州工場の倉庫

次は関門製糖(旧大里製糖所)の工場です。国道199号線の両側に敷地を持っています。「ばら印」で有名な大日本明治製糖の西部支社でもあります。写真は道路を跨ぐ連絡通路とばら印の倉庫です。

関門製糖の工場
ばら印の倉庫

最後に、ニッカウヰスキー門司工場(旧大里製粉所)の倉庫です。三角形の屋根が並びます。きれいに整備されていました。

ニッカウヰスキー門司工場の倉庫

内裏から大里へ

かつてこの地域は柳とよばれていました。それが大里とよばれるようになったのは源平合戦までさかのぼります。

寿永2年(1183)平氏は安徳天皇とともに柳へのがれ、一時的に御所(内裏)を定めました。この御所は「柳の御所」とよばれ、その所在地は戸ノ上山の麓にある御所神社とされています。柳から内裏へ地名が変わり、その内裏が大里と表記されるようになったのは享保5年(1720)頃。二代目藩主・小笠原忠雄ただたかによります。天皇ゆかりの地に宿場町を築くことを畏れ多いと感じ、表記を変えたのかもしれません。

御所神社と戸ノ上山

豊前小笠原藩が造った港町

小倉藩の小笠原氏は九州唯一の譜代大名です。そのため参勤交代は陸路ではなく航路が許可され、小倉城のそばを流れる紫川の河口から船に乗り、兵庫湊・難波湊へ行くことができました。外様大名はそうはいかず、黒崎湊から赤間ヶ関(下関市)へ渡り、歩いて江戸へ向かいます。

大里に宿場と湊が建設されたのは初代・忠真ただざねの時代。すると島津藩・有馬藩・鍋島藩の大大名や日田天領の代官が大里宿を利用するようになります。そして江戸時代後期には九州の半数の大名が大里宿を利用するようになるのです。

小笠原氏が大里宿を設けた理由は、ひとつに参勤交代で渡海待ちする人々を小倉城下町の旅籠はたごや本陣では賄いきれなかったからで、もう一つには城下町に他藩の武士たちが大勢寝泊まりすることは治安上好ましくなかったからといわれています。

大里宿の渡海口

多くの人に利用され大変賑わった大里宿。しかしながら、筑前の木屋瀬宿や黒崎宿と比べると規模は小さく、町衆のふるまいは旅人からは不評だったようです。薬缶蛸やかんだこの逸話があります。薬缶蛸は大里宿の名物料理。しかし、口の小さい土瓶に入った蛸は取り出しづらく食べづらい。船待ちをする旅人がもたもたしているうちに出航の声。旅人は食べることなく出ていくのでした。お店は残した料理を次のお客へ回しお金を取ったのでした。

宿場の商人にとっては旅人がお金を落としてくれることを期待します。これは今も昔も変わりません。大里宿を利用した島津藩・鍋島藩は財政が厳しく質素倹約でした。夜遅くに到着し早朝に渡海して朝夕の食事代を浮かせたのだから、町衆の不評を買ったといいます。当時の人間臭さが感じられる面白い話です。

大里宿の風景

大里宿 散策

大里宿は現在の「門司赤煉瓦プレイス」周辺にありました。宿場の出入り口にあたる構口かまえぐちは確認できませんでした。従って、どこからどこまでが宿場町なのか明確に判別はできません。宿場内はほぼ一本道で、狭い割に車の往来は激しいです。江戸時代の町並みは完全に消失し、二・三の寺社を残すのみとなっています。○○の跡というような石柱だけが建っていて、私が確認しただけで10本ありました。歩くとやはり赤煉瓦の建物が目立ちます。大里は宿場町というより赤煉瓦の町として保存・活用されています。

散策のスタートは海岸に建つ「住吉神社」、ゴールは「大里渡海口」。散策の終わりに御所神社に立ち寄りました。明治期の赤煉瓦の建物については先述しましたので、ここでは省きます。

なお、小倉城から大里宿へ至る街道の散策については、こちらをご覧ください。

① 住吉神社

旧サッポロビール九州工場の建物が並ぶ「門司赤煉瓦プレイス」から海岸へ。住吉神社はその一角に建っています。コンクリート製の社殿、灰色の屋根。何とも味気ない神社で、昭和45年(1970)に再建されたものです。

創建は第二代・小笠原忠雄のときで、近海に外国の密貿易船が出没していた時代。そこで海上鎮護を祈願して住吉三神と神功皇后を大里の浜辺にお祀りしたのが起源となります。明治期に八坂神社に合祀されたため、その鳥居だけ今も八坂神社に残っています。

住吉神社

② 長崎番所跡

門司赤煉瓦交流館(旧サッポロビール九州工場の倉庫)の一角に建つ石柱。長崎番所の設置は寛政11年(1799)。長崎番所は玄海灘に出没する密貿易船を取り締まり、清国との貿易の代物を長崎へ送るための保管・中継の基地でした。

長崎番所跡

③ 街道松

宿場町を象徴する松。10mはあるでしょうか。

街道松

④ 一里塚跡

一里塚跡

⑤ 人馬継所跡

馬や駕籠などここで乗り換えをしました。石柱は一般宅のお庭にあります。

人馬継所跡

⑥ 高札・南郡屋跡

高札とは幕府や藩の通達内容を掲示したもの。お触書が建っていたところです。郡屋とは藩の役人が各村の庄屋を集めて通達や打ち合わせを行ったところです。

高札・南郡屋跡

⑦ 重松彦之丞屋敷跡

伊能忠敬は大里宿を訪れ、重松彦之丞のお屋敷に宿泊しました。お屋敷は藩主の宿泊施設である本陣(御茶屋)で、大変立派であったことがその測量日記に記してあります。

重松彦之丞屋敷跡

⑧ 佛願寺

佛願寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。

佛願寺

⑨ 永野九助屋敷跡

脇本陣とは本陣に次ぐ格式の宿泊施設。庄屋・永野九助が営む脇本陣は、熊本・福岡・久留米・中津藩などの御用達であったといいます。

永野九助屋敷跡

⑩ 在番役宅・浜郡屋跡

ここから80mほど先の番所に務めていた役人の住居があったところです。浜郡屋では、藩の役人や庄屋が湊に出入りした者や船舶の検問・取り締まりを行いました。

在番役宅・浜郡屋跡

⑪ 本陣跡

本陣とは、藩主や参勤交代で大里宿を訪れた諸大名、長崎・日田の代官、オランダ使節などのVIPが宿泊する施設で、御茶屋ともいいます。石柱は八坂神社の鳥居にあります。

本陣跡

⑫ 八坂神社

拝殿が箱のようで、おそらくそう古くない時期に再建されたものと思われます。このような箱式の味気ない拝殿はよく見かけます。境内には金盛稲荷神社と猿田彦大神・興玉神があります。

八坂神社
金盛稲荷神社
猿田彦大神・興玉神

「①住吉神社」で述べましたが、住吉神社の鳥居がここにあります。下の写真、奥の鳥居の扁額に「住吉宮」とあります。手前は「祇園社」つまり八坂神社です。

八坂神社にある住吉宮の鳥居

⑬ 番所跡

番所跡

⑭ 庄屋石原宗祐屋敷跡

石柱によると、庄屋の石原宗祐は凶作に苦しむ農民を救済するため、118町余りの新田を開作した郷土の誇りとする功績者であるとのことです。江戸時代は新田開発が盛んに行われ、黒崎でも同じように浜を埋め立てて水田が作られました。

庄屋石原宗祐屋敷跡

⑮ 大専寺

私が訪れたのはちょうどお盆の時期。法要が行われ、お墓参りされる方を多く見かけました。

浄土真宗・大専寺

⑯ 西生寺

西生寺さいしょうじは浄土宗の寺院。小倉藩がまだ細川氏の所領だったとき、ここには細川氏の浜御殿(御茶屋)がありましたが、小笠原忠雄公は八坂神社前にあった西生寺をここへ移し、その跡に本陣を置きました。「⑪本陣跡」の場所ですね。

本堂には信濃国の守護職を務めていた時代の祖先・小笠原信定のぶさだ公の霊牌が安置されており、歴代小笠原藩主はたびたび西生寺を参詣しました。またキリシタンの改宗を迫る踏み絵が行われ、企救郡における判行寺(踏み絵寺)としても知られています。

西生寺

境内の墓所には「福間松」という石碑があります。中国地方の戦国大名・福間元明ふくまもとあきは毛利家の家臣として数々の功績を挙げたことで知られています。しかし秀吉の九州征伐に従軍の際、ここ大里の浜で亡くなりました。戦死した浜の松の傍らに元明の子孫が石碑を立てましたが、その後転々とし、昭和にここに移されました。

福間松

同じ場所に「萬世一夢ばんせいちむ」の石碑があります。鈴木商店は大里製糖所(現在の関門製糖)を創設。その際、工場敷地内の無縁墓を人見一太郎ひとみいちたろう主任がこの境内に移し、標木を立てて「萬世一夢」と名付けました。

萬世一夢の石碑

⑰ 大里渡海口

国道199号線に接続する「大里本町一丁目」交差点。この海岸から下関へ渡ったとされています。

さて、ここから東へ300mほど関門製糖の敷地が続きます。その先、JR小森江こもりえ駅付近の海岸には有馬藩のお屋敷や蔵があり「久留米屋敷」とよばれていました。大里宿は多くの人で賑わった反面、物資の輸送や渡航は滞りがちでした。久留米藩は土地を借りて藩士を常駐させ、自藩の交通の便を図ったのでした。

JR小森江駅

⑱ 御所神社

最後に御所神社へ向かいます。場所はJR門司駅から550mほど離れた場所にあり、海岸とは反対側にあります。朱色の屋根がけばけばしいのですが、この拝殿はもともと、明治天皇が熊本で行われた陸軍特別大演習を御統監のために大里へ上陸された際に、休憩所として使用された建物です。そのため屋根には菊の御紋があり、見ることはできませんが内部には玉座の間があるそうです。

御所神社

安徳天皇の仮の御所が築かれたこの地。境内には都を追われた平家の公家たちがかつての栄華を偲んで詠んだ歌碑が建っています。

柳の御所

参考

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