街道の名称
小倉城から大里までおよそ6km。今回はその街道を歩きます。この街道を何と称するかは意見が分かれるようです。一般的には小倉城の常盤橋を長崎街道の起点とするため、そこから大里までは「参勤交代往還路」「門司往還」などと別の呼び方をします。しかし、小笠原藩や島津藩・有馬藩・鍋島藩は参勤交代の際、大里まで向かい、そこから渡海していました。寛政11年(1799)には、大里宿に長崎奉行所の出張所である「長崎番所」が設置されます。したがって長崎街道を大里宿までと解釈することもできるのです。
私としてはどちらでも構わないのですが、知名度のある長崎街道として紹介します。写真は常盤橋から京町商店街を抜け、セントシティというショッピングモールの入り口の立つ案内板。正面に見える道が大里へ続く街道です。

企救の浜・宮本武蔵
今回散策する地域は古くは企救とよばれており、海岸沿いの白浜と根上がり松の美しさが万葉集に詠まれています。根上がり松とは根元が地面に露出した状態の松です。
長浜や高浜という海岸地域を歩きますが、国道199号線・国道3号線といった幹線道路に、JR鹿児島本線・JR山陽本線といった鉄道と、交通路の著しい開発が行われた結果、企救の白砂青松は失われました。その罪滅ぼしをするかのように、松はきれいに整備された公園や大通りに沿って新たに植えられています。

上の写真は、赤坂にある延命寺臨海公園に植えられた松の海岸風景です。海の向こうには山口県の彦島が見えます。下の写真も同じ公園からの風景で、向こうに見えるのは下関の海岸都市です。

街道は手向山の麓を通ります。この山にはかの有名な宮本武蔵を称えた頌徳碑が建っており、今回立ち寄りました。巌流島の戦いで有名な宮本武蔵。決闘に勝利した武蔵は小笠原藩主・忠真の客としてもてなされ長く小倉にいました。武蔵には養子がいて宮本伊織といいます。伊織はわずか20歳で家老となり島原の乱で功績を挙げました。頌徳碑は伊織が承応3年(1654)に建てたものです。


小倉~大里 散策
手向山のある赤坂という地域で、街道は線路の敷かれたJRの敷地内となり消失。しかしそれを除けば、概ねかつての街道を歩くことができます。スタートは小倉城の東側出入口にあたる「門司口門跡」、ゴールは大里宿の「街道松」としました。最高気温33℃、一時雨との予報もあり、大気は不安定。蒸し暑い中、大量の汗をかいての散策となりました。さすがにきつかったのですが、青空に恵まれ美しい景色を味わえたのは幸運でした。
① 小倉城 門司口門跡
小倉城の東、門司へ向かうため多くの人が通過した門司口門。関番所があり数人が交代で務めていたといいます。写真は案内板にあった「小倉藩士屋敷絵図」。かつては海に面した城郭の角で、石垣が廻らしてあったことが分かります。

現在は高架下のコンクリートの橋となり、海岸は埋め立てられサッカースタジアムが見えます。

なお、小倉城の散策についてはこちらをご覧ください。
② 貴布禰神社・企救の長浜
門司口門を出ると長浜という地域になります。ここは万葉集に詠まれた浜辺です。長浜と高浜の二首が詠まれ、長浜の一首が石碑となって貴布禰神社の境内に建っています。
では、案内板をもとに長浜の一首を紹介しましょう。
豊国の企救の長浜ゆきくらし 日の暮れ行けば妹をしぞ思ふ
豊前の国の企救の長浜を歩き続け、日が暮れてしまえばそぞろにいとしい人のことが思われます、という意味です。


③ 岩松助左衛門の生家跡
岩松助左衛門は長浜の庄屋で、江戸時代末期に海の難所として知られた白洲という沖に灯台を建設しようと尽力した人物です。財政難で完成を見ることなく亡くなり、後を明治政府が引き継いで完成させました。彼の建設しようとした灯台の模型は小倉城内に復元され、彼のお墓は西顕寺にあります。詳しくは小倉城散策「⑱西顕寺」をご覧ください。
岩松助左衛門の生家は街道に面しており、写真はその街道の風景です。右側に建設中の家がありますが、そこが生家跡です。柵のところに石碑が無残にも倒されていました。


④ 閻魔堂
案内板によると、焔魔堂では毎年1月16日と8月16日に住職が読経をし、祭りが行われます。堂内の地獄絵を親や祖父母が子供に見せて「言うことを聞かぬと地獄に落ちて、エンマ様から舌を抜かれるぞ」と教えるのだといいます。しかしながら、今年の夏祭りはコロナの影響により中止との張り紙がしてありました。

⑤ 庚申塔
焔魔堂から南へ130m。長浜の住宅地内にあって分かりづらいですが庚申塔があります。

⑥ 地蔵堂

⑦ 風景
街道は高浜という地域に入ります。写真は国道199号線の隣を進む街道。かつての白浜の風景を意識してか、松が整然と植えられています。

⑧ 風景
街道はこの通りをまっすぐ進むのですが、看板にあるように、この先工場の敷地となります。迂回して国道199号線を進みましょう。


⑨ 高浜橋
工場敷地内を通る街道を右目に、国道を東へ進むこと860m。延命川を渡す高浜橋に到着。写真の橋を渡って右側へ進み、高浜の住宅地に入ります。

⑩ 企救の高浜
ご覧のように高浜の住宅地を走る一本道。これがかつての街道であり、先ほど⑧で迂回した道の延長線にあたります。かつては美しい浜辺の道だったのかもしれません。300mほどあるこの一本道。突き当りは工場の敷地で行き止まりです。そのちょうど真ん中あたりに案内板があります。ここに住む人しか使わない道。こうやって街道を散策する人でなければ誰も見ないであろう案内板。なんだか寂しくなりました。

では、案内板をもとに高浜の一首を紹介しましょう。
豊国の企救の高浜たかだかに 君待つ夜らは小夜ふけにけり
企救の高浜の高の名のように高々と爪先立つ思いで君を待つ夜はもうふけてしまった、という意味です。
⑪ 猿田彦大神
高浜橋を渡ると赤坂という地域です。細い道を進み下の写真の分岐を右へ進むと、文化2年(1805)と刻まれた猿田彦大神があります。


街道はここで線路に阻まれ行き止まりです。再び高浜橋へ引き返し、線路の高架下をくぐって国道3号線へ進みましょう。
⑫ 宝樹寺
JR高架下を通ると橋脚部分に九州鉄道の煉瓦が残っていました。長短の煉瓦を交互に積むイギリス積みです。その先には浄土真宗の宝樹寺があり、国道3号線に接続します。


⑬ 風景
国道3号線を東へ進みます。正面に見えるのは戸ノ上山。左の線路が通るJR敷地内を街道が通っていました。

⑭ 九州鉄道アーチ橋
国道3号線の「赤坂四丁目」交差点付近で見つけた九州鉄道アーチ橋。沿線を探せばまだまだたくさんあるでしょう。

⑮ 宮本伊織の墓
さて、寄り道して手向山に向かいます。標高76mの小さい山で15分もあれば頂上へ着きます。頂上まで公園になっており、気軽に上れます。しかしながら、この暑さの中では気軽にという気にはなれません。ここは我慢ですね。いざ登ってみると山の中は比較的暑くありませんでした。まずは入り口付近にある宮本伊織の墓。宮本家代々の墓が並ぶ中、伊織のものは奥にあるようですが、確認はできませんでした。

⑯ 探照灯台座跡
中腹あたりにあるのが探照灯台座の跡。頂上には明治期に築かれた砲台の跡が残っています。この探照灯台は夜間に関門海峡を通る船を照射していました。照射された船はここからさらに上にあった観測所で確認され、その情報は頂上の砲台へ伝えられました。

円形煉瓦の上部はセメントになっており、目標となる地名が刻まれています。写真では「矢筈山」「大里」などの文字が見えますね。

⑰ 手向山砲台跡
手向山は陸軍によって明治期に接収され、関門海峡の防備のため、山頂東側に砲台が合計6台設置されました。実際に使われることはありませんでしたが、現在も円形の砲台跡が残されています。写真の白い壁は倉庫跡です。

⑱ 宮本武蔵の頌徳碑
宮本伊織が養父・武蔵を称えた頌徳碑です。小笠原藩の筆頭家老であった伊織はこの手向山を拝領し、武蔵のためにこの碑を建てました。武蔵を知る上での重要な史料として多くの学者がこの碑文を研究しました。またの名を「小倉碑文」といいます。
上部に大文字で「天仰実相円満 兵法逝去不絶」とあり、これは武蔵の遺言の言葉で、私の兵法は死後も絶えることはないといった意味であろうと思われます。

そばには佐々木小次郎の碑があります。これは作家の村上元三が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して旧小倉市に寄贈したものです。元三が詠んだ句「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」が刻まれています。佐々木小次郎は隣の武蔵の頌徳碑では「兵術達人岩流」として出てきますが、彼の本当の名前や生年など、不明な点が多いようです。


⑲ 水かけ地蔵尊
さて、手向山を後にして国道3号線を東へ進みます。手向山トンネルの前に水かけ地蔵尊があったので立ち寄りました。八十八か所巡りの札所にもなっているようです。

案内板によると、かつての街道は手向山の麓の海岸沿いを通るごつごつした岩場ルートと、それとは別に手向け山の南側・富野からの峠を越える鳥越峠ルートがあったようです。現在、手向山の南側は都市高速道路が通っていて、ちょうどトンネルになっています。鳥越トンネルです。

水かけ地蔵はごつごつした岩場ルートにあり、水が湧き出ていて旅人の喉を潤したとのこと。その後、開発により現在の地に移りました。鳥越峠ルート、思わぬ発見でした。
⑳ 風景
手向山トンネルを抜けると門司区です。左手には線路などJRの敷地が広がり、この中を街道は通っていました。


街道に合流するには300m先の「大里新町」交差点を左折。その後すぐに左折して線路下トンネル「大里新町アンダーパス」を通ります。

㉑ 風景
アンダーパスを抜けると松原という地域になります。ここで東西を走る一本道に接続。これが街道です。西へ進むとJRの敷地でもちろん行き止まり。写真は行き止まりの風景。しかしJR敷地内を通っていた街道はここへ接続していたのです。

さて一本道を東へ進みます。工場や倉庫が立ち並ぶ殺風景な細い裏道です。ここもかつては美しい浜辺の道だったのかもしれません。残念ながらかつての面影を伝えているのはこの道そのものだけです。


㉒ 中原橋
1.1kmほど進むと中原橋があります。これを渡ると大里本町です。このあたりから狭い道にもかかわらず交通量が増えてきます。あと500m歩けばJR門司駅前の交差点。門司赤煉瓦プレイスです。


㉓ 大里宿の街道松
この巨大なクロマツは大里宿の象徴です。散策の終着地点まで来ました。暑い中よく歩きました。散策される方はこまめに水分を摂り、帽子をかぶって暑さ対策をしましょう。休憩を所々で取り、くれぐれも無理しないようお願いします。

なお、大里宿についてはこちらをご覧ください。最後まで読んで頂き有難うございました。
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