山家宿

長崎街道

桐山丹波守孫兵衛が切り開いた宿場町

山家宿やまえしゅくは福岡県筑紫野市の北東部、宮地岳みやじだけ(338m)の麓に位置します。そのさらに北東には大根地山おおねちやま(437m)がそびえます。この大根地山を越すと飯塚市で、国道200号線とJR筑豊本線がこの山を越して行きます。この山間やまあいを冷水峠と言い、長崎街道は冷水峠を越えて内野宿へ続きます。また、山家宿の南方では博多と日田を結ぶ日田街道が通っています。

山家宿の西構口には二人の人物を称える石碑が建っています。一人は桐山丹波守孫兵衛きりやまたんばのかみまごべえです。彼は黒田二十四騎の一人として黒田家四代に仕えた功臣として知られてます。彼は御笠郡の代官に命じられた後、慶長16年(1611年)山家宿を創設しました。彼は山家宿の初代代官を務め、冷水峠道を開通させました。

墓所案内板より「桐山丹波守」
「筑前山家宿初代代官 桐山丹波守遺跡」石柱(西構口跡)

広瀬淡窓が認めた女流詩人・原采蘋

もう一人は原采蘋はらさいひんです。原采蘋は秋月藩の儒学者・原古処はらこしょの娘で、日田・咸宜園の広瀬淡窓に才能を認められた女流漢詩人として知られてます。嘉3三年(1850年)山家宿に私塾「宜々堂」を開き、近郊の青年の教育に当たりました。

原采蘋塾跡(西構口跡)
原采蘋の漢詩(西構口跡)

郡屋の土蔵が残る山家宿

山家宿は福岡藩内の六つの宿駅「筑前六宿」の一つです。かつての山家宿には関番所・構口・代官所・下代屋敷・藩主の宿泊する御茶屋・重要な打ち合わせを行った郡屋・大庄屋・人馬供給を行った問屋・旅籠などがありました。現在は西構口と郡屋の土蔵が当時の姿をよく残しています。また、宿場の特徴をよく表しているのが、宿場内部の道が大きくカギ型に折れ曲がっていることです。これは、大軍が一気に駆け抜けられないようにするための防衛上の目的がありました。

郡屋の土蔵

山家宿 散策

散策の始点は山家宿の南方にある「郡境石」とし、山家宿を出て街道を進み、冷水峠の入り口に当た「浦の下橋」を終点としました。

① 郡境石

日田街道にある「従是 西御笠郡 東夜須郡」の郡境石です。ここは今でも筑紫野市と筑前町の境です。

郡境石

なお、原田宿からこの郡境石までの散策はこちらをご覧下さい。

② 関番所・追分石跡

郡境石から東へ進むと間片まがた交差点に出ます。ここは長崎街道と日田街道の交差点です。奥に進む細い道が山家宿につながる長崎街道です。広い道が交通量の多い現在の国道200号線です。左右の道が日田街道です。写真の左にある標識には、かつて関番所と追分石があったことを伝えています。

間片交差点

現在、追分石は「ふるさと館ちくしの」に実物が展示してあります。追分石には「右 肥前 太宰府 長崎 原田 左 肥後 久留米 柳川 松崎」と彫られています。間片交差点から日田街道を東へ進むと石櫃いしびつという久留米方面へ続く薩摩街道との分岐点に出ます。その街道の最初の宿駅が松崎であるため追分石はこのような表記になっています。

追分石

なお、松崎宿から山家宿までの街道散策はこちらをご覧下さい。

③ 西構口跡

さきほどの間片交差点で奥の細い道を通って山家宿へ向かいます。しばらくすると西構口です。石垣の上に漆喰の白壁、その上に瓦葺の屋根という当時の姿を残しています。道幅も当時のままです。

西構口跡
桐山丹波守の石碑
原采蘋の石碑

④ 御茶屋跡

構口入って正面にある御茶屋跡。この近辺には他に代官所・下代屋敷・恵比寿石神像・中茶屋がありました。

御茶屋跡

⑤ 桐山丹波守墓所

御茶屋跡を左に曲がり宮地岳の方へ進むと、初代代官・桐山丹波守のお墓があります。標識がしっかりあるので迷わず行けます。奥に見える五輪塔がそれです。

桐山丹波守墓所

⑥ 郡屋跡

郡屋とはその郡内の村役人たちが集まって郡奉行の通達を受けたり、参勤交代の人馬役の打ち合わせなどをする施設で、主要な宿場に置かれていました。写真には現在プレハブ小屋が建っていますが、この辺りに郡屋本体の建物がありました。当時の建物の基礎だけが残っています。

郡屋跡

土蔵は筑紫野市指定有形文化財になっています。参勤交代の際、大名たちの旅支度品や街道の補修用具などを収納していました。土蔵の構造は柱を持たず、下部に60cm程自然石を積み上げ、その上に土と藁を混ぜた壁を50cmの厚さで築いています。内部は入れませんが太い松の梁が三本渡されているようです。

郡屋土蔵
灰屋
穀蔵

⑦ 円通院

円通院は天台宗の寺院です。山家宿は大火に見舞われたことがあり、火災防止祈願のため文化八年に造られた地蔵堂が境内にあります。

円通院境内
庚申尊天が入り口にあります

⑧ 西福寺

西福寺は浄土真宗西本願寺の寺院です。鐘楼の脇に昭和三年建立の「冷水隧道工事殉職者弔魂碑」があります。

西福寺
冷水隧道殉職者の碑

⑨ 大庄屋役宅跡

大庄屋とは郡をさらに二・三に区分したふれという区域を管理する役人のことです。各村への年貢の割り当てや納入・土木工事・参勤交代の人馬役など広範囲にわたって村政に深く関わっていました。山家宿の大庄屋は代々近藤家が務めました。ここの役宅跡地には長屋門という武家屋敷に用いられるような立派な門があったようですが、今は建物すら残っていません。広い敷地がかつての立派なお屋敷を伝えています。明治以降、近藤家は郵便取扱事務を務め、ここに郵便取扱所が置かれました。

大庄屋役宅跡

⑩ 東構口跡

大庄屋役宅の隣が東構口で、西構口とは違って現在は何も残っていません。ここには恵比寿像や一字一石法華塔などが集められています。

東構口跡

⑪ 山家宝満宮

山家宿を後にして街道を進むと山家小学校があり、そこから宮地岳の方へまっすぐ山家宝満宮の参道が続いています。線路が通っていますが階段で跨ぎ社殿に行きます。御祭神は玉依姫・神功皇后・応神天皇です。毎年10月17日、岩戸神楽が奉納され、筑紫野市の無形文化財に指定されています。

山家宝満宮
山家宝満宮拝殿
宝満宮・神功皇后・八幡宮の額
岩戸神楽阿(案内板)

⑫ 肥後細川藩本陣跡

さらに街道を進むと、浦の下橋の近くに山田家があり豪農として知られていました。ここに見える石垣や白壁のお屋敷はこの山田家のお屋敷で、肥後・細川藩主がこの道を通るとき、本陣宿として利用していました。

細川藩本陣跡
猿田彦大神像

⑬ 浦の下橋

ようやく浦の下橋に到着です。この先、冷水峠にの散策はこちらをご覧ください。最後まで読んで頂き有難うございました。

浦の下橋

参考

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