古い町並みが最も残る宿場町
江戸時代へタイムスリップ。浜宿に入った瞬間、町並みの保存と整備の良さに息を吞みました。ここまで保存状態の良い宿場町を私は知りません。浜宿は鹿島市の市街地から少し離れた浜町に所在し、その名の通り有明海の浜辺にある宿場町です。背後に多良岳が迫り、長崎街道(多良海道)は矢答峠を越えて多良へ至ります。

町並みは平成18年(2006)国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、「浜中町八本木宿」と「浜庄津町浜金屋町」の二つの地区に分かれています。前者は御茶屋や継場・高札場などの宿場町の機能を備えると共に、酒造業が盛んで、現在も多くの酒蔵が残っているため「酒蔵通り」と呼ばれています。後者は浜庄津町と浜金町を合わせたもので、浜庄津町は商人や船乗りなどが、浜金屋町は鍛冶屋や大工などが住んでいました。浜宿は多職種の人々が暮らす鹿島藩内最大の商工業地だったのです。

浜宿 散策
散策の始点を鹿島の市街地方面の「中川橋」とし、途中で誕生院に寄り道。多良海道を通って浜宿へ。中川橋から浜宿へは約2kmしかありません。宿場内は約1.2kmで「番所跡」を街道ルートの終点としました。その後は松岡神社など周辺の散策です。今回の散策は距離が短いのでゆっくりと散策できます。
① 中川橋
中川橋はJR肥前鹿島駅から国道444号線を南へ約1km行った所にある朱色の橋です。国道444号線は祐徳稲荷神社へ向かう道路であるためか、このようなデザインが施されています。多良海道はこの道をそのまま南へ進みますが、ここでこの中川を約1km遡ったところにある誕生院へ寄り道です。誕生院へは写真の手前にある鹿島市役所の横を通る道を進むと良いでしょう。

なお、鹿島城下の散策はこちらをご覧下さい。
② 誕生院
誕生院は新義真言宗の寺院です。新義真言宗は空海を始祖とする真言宗の宗派の一つで、覚鑁聖人(興教大師)によって新たな教義が打ち立てられたことから新義と呼ばれます。つまり覚鑁聖人は新義真言宗の始祖であり、真言宗を復興された人物なのです。誕生院はそんな覚鑁聖人が生まれた鹿島に、室町3代将軍足利義満によって1405年に創建されました。その後戦火で消失するも、大正2年(1913)鹿島藩13代鍋島尚彬によって復興。戦時中は日本軍の宿舎となり荒れてしまいましたが、戦後整備され現在に至るという経緯を持ちます。



③ 鬼塚古墳・琴路神社
誕生院の敷地を奥へ進むと外に出られるようになっており、そこから鬼塚古墳への案内表示が出ていますのでその通りに進みます。鬼塚古墳は6世紀後半に造られた円墳で、内部に入ることができる数少ない古墳です。羨道と玄室に巨大な石が敷かれており、玄室の長さ16mに比して羨道は11mと約2/3、幅は2mと羨道が大きめに造られているのが特徴とのことです。この地方の有力者の古墳であろうと言われています。

鬼塚古墳の隣には立派な琴路神社があります。これは立ち寄らずにはおられません。由緒書きから次のようなことが分かりました。
琴路神社は古来からこの地域の鎮守の大社でありました。1166年の大旱魃の時には、国司が領内の神社に奉幣し降雨を祈願したところ、雨に恵まれたとのこと。その恩に対して倉稲魂大神が勧請されています。この神様は食物の神様です。
1241年には中川を上流まで遡った所にある三嶽神社より「琴を渓流に流してその留まる所に社殿を建てよ」との御神託を受けます。そして実際にこの地に流れ着いたことから広国押武金日命(安閑天皇)と吉野水分大神が勧請されています。

こうして琴路神社は三嶽神社の下宮として位置付けられ、勧請した二柱の神は三嶽神社の御祭神ということになります。広国押武金日命は安閑天皇のことですが、神仏習合でこれは蔵王権現と同一神とされています(ややこしい)。蔵王権現は修験道の本尊であり、引いては山の神様です。吉野水分大神は山や水の神様です。

つまり琴路神社がお祀りする三柱の神は食物・山・水の神様なのです。これは自然崇拝ですね。長い文章になりましたが、こうして整理して行くと、昔の人々の信仰心がどのようであったかを知ることができて面白いのです。
④ 藤の森
多良海道に戻ります。国道を南下し、しめご交差点を過ぎた辺り、右手に延びる道の先に藤の森という広場があります。住宅地の中にある小さな広場で分かりにくいです。『肥前国風土記』には藤津郡の名前の由来について記述があります。この地に行幸した日本武尊は日没になったので船をこの津に泊め、ともづなを大藤に繋いだ。よってここを藤津と言うようになったとのことです。石碑は鹿島13代直彬の書体によるもので、手前には藤棚があります。

街道に戻ります。しばらく歩くと石木津川があり、これを渡って右斜めに進みます。次第に町並みが古くなり浜宿に入って行きます。

⑤ 若宮神社(ドミニコ教会跡)
浜宿に入り、町通りを歩いて行きたいところですが、進行方向順に史跡を追って記して行きます。本通りから外れた住宅地の中にある若宮神社。この神社は肥前で初めてキリスト教のドミニコ会が教会を建てた跡地でもあります。慶長12年(1607)鍋島勝茂から教会設立の許可を得て、6年間ここで布教活動を行っています。以下引用です。
ドミニコ会のメーナ神父は『書簡報告』のなかで「……肥前の領主が昨年(1607)私たちに教会を建設できる場所を領内に与えてくれた」と述べ「ここは日本だけでなく世界の中でも優秀な健康地です。平野で果物が多く、人々は親切で理解力があり、すべての事が信仰を説くのに相応しいのです」と浜町の印象を書き送っている。翌年には鹿島と佐賀にも教会を建てた。神父たちは幕府の禁教令に際し、慶長18年(1613)10月8日、浜の港から大勢の見送りを受け、長崎へ退去した。
『長崎街道 肥前長崎路と浜道・多良海道』p112 松尾紀成
西洋人から見て、当時の日本が土地も人も豊かであり好印象であったという話はよく聞く話です。これは日本が他国に比べて自然に恵まれており、その恩恵が教養を身に付けるだけの心の余裕を人々にもたらしたことが要因の一つと私は考えています。撤去という事態になっても大勢の人から見送りを受けたということは、町の人々と穏やかに布教活動が進んでいたことが伺えます。キリスト教の教えを排除せず上手に取り込めるだけの精神的・知的な余裕があったと勝手に思うのです。

⑥ 浜中町八本木宿の町並み
それでは浜中町八本木宿を歩いて行きましょう。ポイントとなる酒蔵や寺院を進行方向順に列挙しました。実際に歩いて雰囲気を味わって下さい。
旧乗田家住宅の場所は分かりにくく、煙突が目印の飯盛酒造の隣に流れる水路に沿って進んで行くと辿り着けます。

旧乗田家住宅は鹿島藩の武士に家屋で、佐賀県に特徴的なくど造りの屋根になっています。くど造りとは棟(屋根の面と面の接合部)がΠ・L・T字型に連なる形式のことで、くどとは竈のことです。竈は正面から見ると焚口があってΠ字型をしていますよね。そこから名付けられています。

富久千代酒造はJR肥前浜駅へ延びる通り沿いにあり、平成23年(2011)銘柄「鍋島」は(IWC)の日本酒部門で世界一を受賞したことで知られます。またかつてこの通りには祐徳稲荷神社の一の鳥居として昭和8年(1933)に建設された巨大な赤鳥居があり町のシンボルでしたが、老朽化のため平成19年(2007)解体が決定。今はありません。









知恩院から浜川へ進むと天満宮があり、そこからの眺めも美しいです。年末大晦日に訪れましたが、果物や野菜などお供え物も色とりどりで充実していました。因みに参樂橋を渡って進むと「⑪泰智寺」に行くことができます。




魚市場と書いてあるこの建物は戦前は魚問屋で、各地から多くの仲買人が来て毎朝非常に賑わっていたと言います。また浜町では1月19日に鮒市が開かれ、恵比須様に鮒をお供えします。有明海では鯛が獲れず高価なことから代わりに鮒をお供えするようになったと言います。また鮒は泥臭いので昆布を巻き、牛蒡・大根・人参などで煮たフナンゴグイという煮物が代表的な郷土料理です。



⑦ 浜橋
浜中町八本木宿を出ると浜大橋を渡ります。橋の麓には高札場が立てられました。また大正時代に道路を測量するための基準として各市町村に立てられた道路元標もあります。道路元標は大概残っておらず貴重で、今では旧鹿島町にも残っています。写真に見える橋は浜大橋の隣に架かる橋です。


⑧ 浜庄津町浜金屋町の町並み
橋を渡り鰻屋の角を曲がると浜庄津町浜金屋町です。一番の見所は茅葺屋根の家屋が並ぶ地点です。ここへは細い路地を通った住宅地の中にあります。ピカピカに整備されていて古い趣はありませんが、十分見応えがあります。内部の見学はできません。

浄立寺の側には恵比須様の祠があります。「夷三郎」と文字だけ彫ったものです。恵比須様はそのお姿の通り漁業の神様で、引いては商売繁盛をもたらすものとして江戸時代に信仰が盛んになり、宿場町や街道に沿って立てられています。因みに道中見つけた案内板によると、太郎は山、次郎は川、三郎は海、夷は宝を表すとのこと。従って夷三郎は有明海の海の幸を意味していると思われます。そう言えば、筑後川は筑紫次郎と言いますね。



旧橋本家・旧筒井家の家屋は隣同士に並んでいます。旧筒井家は移住体験施設となっており、この茅葺の町屋に一定期間お試しで暮らすことができるようです。移住を考えている方は体験してみましょう。悪くはないかもと思ったりします。因みに光厳寺へは旧橋本家の隣を曲がって行くことができます。

⑨ 番所跡
浜宿を出て国道を渡ります。ここから上り坂です。写真の地点に割れた案内板が立っていました。ここが番所跡です。

⑩ 事比羅神社・臥竜城跡
浜大橋へ戻り事比羅神社・臥竜城跡へ向かいます。写真のような階段を上って行きます。気のせいか、事比羅神社はいつもこのような高台にお祀りされている印象です。神社は船乗り達が海難防止のため厚く信仰していたとのこと。境内からは浜宿を一望できます。

境内一帯は臥竜城という城跡です。鎌倉時代に原長門守貞光という人物が築いた城で、先祖は筑後国原町(現福岡県朝倉市原鶴)です。貞光は祖先の菩提寺として原山知恩寺を今の泰智寺の場所に建てました。城はその後の合戦で消失し、知恩寺は浜宿へ移転しました。

⑪ 泰智寺
泰智寺は鹿島藩の菩提寺で曹洞宗の寺院です。初代忠茂が妻の霊を弔うために元和9年(1623)建立したのが起源です。後に3代直朝の長男断橋が黄檗宗の普明寺を建立し、鹿島鍋島家の第一の菩提寺としたことから、普明寺は歴代藩主の遺骨を納め、泰智寺は遺髪が埋葬されるようになったと言います。本堂には十六羅漢像が安置され、左手墓所には歴代藩主の墓が並んでいます。



⑫ 松岡神社
松岡神社の起源は、平安時代にこの地を支配していた大村直純が日本武尊をお祀りしたことに因ります。後に伊邪那美命・素戔嗚尊を合祀して祇園宮となりこの地に移されます。松岡神社の神様は小城の千葉介教胤氏が浜へ侵攻し狼藉を働いた際、怒りの神罰を下し雷鳴を轟かせ全滅させたと言います。
これを機に松岡神社は有名となります。神社の裏山は以後、松岡城が築かれます。鎌倉時代には大村氏の藤津郡支配の拠点となり、戦国時代に有馬氏が龍造寺氏との勢力争いを広げた際には、有馬氏の拠点となりました。
神社本殿には赤・青を主に色付けが施され鮮やかでした。祐徳稲荷神社の影響かもしれません。


今回の散策はここまでです。最後まで読んで頂き有難うございました。
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