中原~神埼 散策
今回散策するルートは長崎街道の中原宿から神埼宿までの約8kmです。街道はみやき町・上峰町・吉野ヶ里町・神埼市を国道34号線に沿う形で東西に横断します。長崎街道の肥前佐賀路は間の宿が多く、今回も寒水宿・目達原宿・田手宿を経由します。散策の始点は中原宿に隣接する寒水宿の六ノ坪橋とし、終点は神埼宿の出入口に当たる東木戸口跡としました。
① 六ノ坪橋・発掘された長崎街道
中原宿の西木戸口跡を出て約200m西へ進むと、三養基高校の隣を流れる寒水川を渡す六ノ坪橋があります。「~の坪」という名称は古代の条里制の名残と言われています。長崎奉行の太田南畝(蜀山人)は寒水川を飛び石で渡ったと記録しています。

なお、中原宿の散策はこちらをご覧下さい。
六ノ坪橋から進むと直ぐに案内板が立っています。写真のように三養基高校の裏に舗装されていない道があり、これが実際の長崎街道です。平成9年(1997)三養基高校グラウンド整備のための発掘調査の際に見つかったもので、現在の路面の20㎝下にあったとのこと。路面には小石を敷き詰め、路肩には大きめの石を並べ、さらに公衆トイレと考えられる甕が発見されました。

また寒水がらがらという土鈴が見つかっており、これを家の門口に掛けて魔除けとしたり、田の水口に埋めて豊作を祈願したと言います。英彦山参拝のお土産として腰に下げる英彦山がらがらの元にもなっているようです。寒水がらがらはつまみが猿の形をしているのが特徴です。

がらがらについてはこちらをご覧下さい。
② 寒水宿の風景
寒水宿は本宿である中原宿より栄えていたと言われており、元禄4年(1691)にここを通過したドイツ人医師ケンペルによれば700戸の人家があったとのことです。写真は東寒水交差点を過ぎた辺りで、建物は新しいですが往時を偲ぶ造りの建物があります。
それでは東から順に見所を挙げて行きましょう。



写真は東寒水交差点です。左の有岡書店の建物は古く、漆喰の白壁が見られます。交差点奥の左角の茂みには道路元標があります。知らないと絶対に気付かないでしょう。

道路元標とは、大正11年(1922)に当時の各市町村に1か所ずつ設置された道路の距離を測る基準点です。街道の交差点や役場前に設置されることが多いことから、この東寒水交差点がこの地域の中心地だったことを意味しています。写真は茂みの裏から撮ったもので、表面には「中原村道路元標」と刻まれていました。

東寒水交差点を過ぎると緩やかな下り坂。その先は田んぼが広がり、また上り坂です。この上り坂に子供守り地蔵尊を祀るお堂があります。

地蔵堂の先の交差点を過ぎると恵比須像があります。この恵比須像から900m程歩くと国道34号線に合流し、みやき町から上峰町に入ります。

③ 切通しの天満宮
国道34号線に合流すると今度は右手の裏道に入ります。天満宮を過ぎると切通川が流れています。切通しという地名はこの川によって形成された谷を越えるように山を切り開いて道を通したことに因るものだと思います。

写真は切通橋の麓に立つ地蔵像。橋を渡ると緩やかな上り坂です。街道は約1.2km先の久留米分岐交差点まで国道34号線を進みます。

④ 都紀女加王墓
さて、久留米分岐交差点に向かう前にここで寄り道です。Google Mapを見ていたら宮内庁管轄の陵墓がこの近くにあることを偶然知り、立ち寄ってみました。
都紀女加王とは先代旧事本紀という歴史書に伝わる皇族で、第15代応神天皇の曾孫に当たり、筑志米多国造の始祖とされています。この地域には米多国があり、都紀女加一族が代々支配していたのですね。

目達原という地名の由来は上峰町から吉野ヶ里町にかけて存在した米多の原にあります。大小の古墳が点在しており、目達原古墳群と言います。
昭和17年(1942)陸軍飛行場が建設され、上のびゅう塚古墳以外の古墳は破壊されてしまいました。上のびゅう塚古墳を都紀女加王墓として認定し、他はまとめて都紀女加王墓の隣に1/7サイズで復元されています。これが現在の目達原古墳群で、公園になっています。

⑤ 目達原宿の風景
久留米分岐交差点を西へ進みます。ここから吉野ヶ里町です。200m程進むと写真のような白壁の古い建物があり、目達原宿を象徴しています。

突き当りは三叉路でここを左に曲がります。これは宿場町特有の鉤型道路で、敵の侵入を遅らせたり通し矢による損害を避けるためですね。
正面に見えるのが祇園社で境内の火の見櫓が印象的です。左の角には恵比須像があり、そのさらに左にはたけだ薬局があります。薬局の壁には鍾馗さんが描かれた鏝絵がガラスに入って保存されています。



鍾馗とは中国の道教の神様で厄除けの神として知られています。
次のような逸話があります。唐の皇帝玄宗が病に伏せている時、夢で鬼が玄宗の宝物を盗み取ろうとしました。そこに髭面の大男が現れ鬼を引き裂いて退治しました。その大男は鍾馗と名乗り、科挙に失敗して自ら命を絶ったにも関わらず、帝に手厚く葬って頂いた恩に報いるためにやって来たとのこと。玄宗が夢から覚めると病はすっかり癒えていたのでした。

日本では鍾馗に関して次のような逸話があります。京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ、向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れてしまいました。この原因を薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったからではないかと考えます。そこで鬼より強い鍾馗を造り魔除けに据えたところ住人の病が完治したのでした。
今でも京都市内の民家には、屋根の軒先に瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのだそうです。
目達原宿のたけだ薬局に鍾馗さんが造られたのも、この逸話から納得ですね。

⑥ 旧目達原飛行場正門跡
目達原宿を後にして街道を進みます。600m真っ直ぐ進むと苔野交差点で、再び国道34号線と交わります。ここには陸上自衛隊目達原駐屯地があります。

交差点を直進し、さらに560m程進むと旧目達原飛行場正門跡の石碑が立っています。大日本帝国陸軍大刀洗陸軍飛行学校目達原分校として飛行場が完成したのは昭和16年(1941)で、多くの若者が訓練に励み、特攻隊として53名が国のために命を捧げて逝きました。絶対に忘れてはならない歴史です。

⑦ 弁財天道の追分石
旧目達原飛行場正門跡から約1.2km、ひたすら真っ直ぐ西へ進みます。住宅地や学校があり、道中昔の趣は感じられません。
写真は吉野ヶ里町田手交差点の少し北側に立つ追分石です。伊能忠敬や太田南畝の記録にも出てくる追分石で、正面に「日本六所辨才天道」と彫られています。
背振山は修験道の山であり、山岳信仰や神仏習合により弁財天が上宮に祀られています。それ故、ここから背振山へ向かう道を弁財天道と言い、追分石の側面には山頂や背振神社、霊仙寺までの里程が刻まれています。

⑧ 田手宿の風景
田手宿の町並みは田手川の土手で直角に折れ曲がり、道幅は狭く昔のままなのでしょう。町並みは失われていますが、大神宮と古い白壁の家屋が数軒、恵比須像などの石像が二体確認できました。東から順に列挙します。





⑨ 広円橋
田手宿を出ると広円橋を渡ります。橋を渡ると神埼市です。

⑩ ひのはしら一里塚
意外なことに、ひのはしら一里塚は長崎街道に現存する唯一の一里塚です。一里塚は街道筋に約4km毎に造られた道標であり、このように土を盛って松や榎などを植えていました。
ひのはしらという名の由来は、かつてここに神埼宿にある櫛田宮の赤い鳥居が火の柱のように立っていたことに因ります。頂上にはいぼ地蔵が祀られ、一里塚の隣には観音堂があります。



⑪ 神埼宿東木戸口跡
ひのはしら一里塚から西へと進んで行くと、古い家屋が散見されるようになり神埼宿に近づいていることを実感します。
一里塚から500m程進んだ所に荒木屋菓子鋪があり、長橋という小さな橋が架かっています。ここに神埼宿の出入口に当たる東木戸口がありました。

今回の散策はここまでです。この先、神埼宿の散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
コメント