鹿島城下

長崎街道

鹿島藩の御膝元

今回散策する城下町は多良海道たらかいどう鹿島かしま城下です。多良海道は有明海側を通る長崎街道のことで多良通たらどおりとも呼ばれています。鹿島城下のある鹿島市は有明海に面した佐賀県の南方に位置し、南部の多良たら山系の山々を越えると長崎県です。かつてはこの地域を藤津ふじつ郡と言いました。

2023年現在で人口約2万7千人の小さな都市でやや寂しい印象もありますが、立派な歴史のある町であることは間違いありません。鹿島城の大手門や赤門は町のシンボル的な存在で、城内にある旭ヶ丘あさひがおか公園は桜の名所です。多良山系の麓には日本三大稲荷の祐徳ゆうとく稲荷神社があります。こうした遺跡は市民の誇りなのではないでしょうか。

鹿島城の赤門

鹿島は江戸時代に佐賀藩の支藩である鹿島藩の御膝元として栄え、JR肥前鹿島駅一帯に城下町・宿場町が形成されました。鹿島藩は2万石の小藩でしたが、その城郭は現在も立派に残っており、堅固な石垣には圧倒されます。宿場町も古い町並みを残しており、道中見所満載です。このページでは鹿島城下と鹿島宿を同時に取り扱います。

鹿島宿本町の風景

鹿島の支配勢力と城の変遷

今回散策して分かったことは鹿島城が数度の変遷を経て現在の我々が知る姿になったということです。ここでは鹿島の支配勢力と城の変遷について大まかに触れておきましょう。

室町時代から戦国時代にかけて藤津郡鹿島を支配していたのは大村氏でした。大村氏は現在の鹿島城の南西に位置する小高い蟻尾山ぎびざん在尾ありお城を築きましたが、文明ぶんめい9年(1477)に千葉氏の攻撃を受けて敗れると大村氏は力を失って行きました。

戦国時代末期には龍造寺りゅうぞうじ有馬ありまが対立しました。有馬氏は島原半島を本拠とし、藤津郡支配のため各地に居城を造り始めます。松岡城(浜町)・わしの巣城(北鹿島)などは有馬氏の居城であり、鷲の巣城跡は今回の散策でも立ち寄りました。

有馬氏が築いた鷲の巣城跡

有馬氏は肥前国最大の戦国大名・龍造寺隆信たかのぶに対抗するために塩田川と鹿島川の沖積地に横造よこぞう城を築きました。またこの横造城の近くの乙丸おとまるにも砦を築きます。これを乙丸の鹿島城と言いますが、現在その遺構を確認することはできません。横造城は龍造寺氏に攻め落とされ、有馬氏は勢力を失い、鹿島は龍造寺氏の支配下に置かれます。龍造寺隆信の重臣鍋島信房なべしまのぶふさは戦功を挙げたため横造城の城主となりました。

龍造寺隆信の死後、肥前国の実権は鍋島氏へ移ります。鍋島信房の弟直茂なおしげが実権を握ると、その子勝茂かつしげが初代佐賀藩主となります。慶長けいちょう12年(1607)勝茂は弟忠茂ただしげに鹿島2万石を与え、ここに鹿島藩が成立します。承応じょうおう元年(1652)には鹿島3代藩主直朝なおとも常広つねひろに城を建造しました。この常広の鹿島城も現在その遺構を認めることができなくなっており、代わりに北鹿島小学校が建っています。乙丸の鹿島城は一国一城令で取り壊されました。

常広の鹿島城は低平地にあったため水害に悩まされました。そこで文化ぶんか4年(1807)により小高い丘陵地の高津原たかつはらへ城を移転します。この高津原の鹿島城が現在残る鹿島城で、鹿島高校や旭ヶ丘公園があります。旭ヶ丘公園は文久ぶんきゅう2年(1862)13代直彬なおよしが城内にある松蔭まつかげ神社の境内に多くの桜を植えて衆楽園しゅうらくえんと名付け、宴を開催したことが始まりとなっています。

鹿島藩主の系図(案内板)

鹿島城下 散策

今回の散策ルートは街道沿いに進めて行きました。始点は「殿とんの橋」とし、宿場町・城下町を経由して「中川橋」まで歩きます。この中川橋を街道散策の終点とし、そこから鹿島城とその周辺の史跡を散策しました。

① 殿の橋

塩田宿から始まる多良海道。鹿島の町に近づいて行くと県道が交差する殿とんの橋という大きな交差点があります。ですが今回の散策の始点となる街道の「殿の橋」は、その少し手前の三叉路です。下の写真のようにここで浜道はまみちと合流します。浜道とは有明海側の白石町しろいしちょうを通る長崎街道です。つまりここは街道の分岐点(追分おいわけ)なのです。鹿島の宿場町・城下町へは殿の橋交差点を斜め右に進みます。

殿の橋

なお、殿の橋から塩田宿への散策はこちらをご覧下さい。

② 鹿島城跡(乙丸)

有馬氏が鹿島支配のために築いた乙丸の鹿島城。現在では想像しにくいですが、川合に挟まれた平坦地は泥濘ぬかるみ易く、城は泥で土手を築き深い濠で周囲を固めた簡素なものだったため、川の氾濫で崩壊し易かったようです。写真の乙丸郵便局の辺りにあったようですが、全く面影がありません。宿場町へは写真矢印のように右折し細い路地を進みます。分かりにくいので注意です。なお「③鹿島城(常広)」へ向かうには直進しJR線を越えて行きます。

乙丸郵便局(乙丸の鹿島城跡)
右折地点

③ 鹿島城跡(常広)

鹿島藩として最初の居城となった常広の鹿島城。現在は北鹿島小学校の敷地になっており遺構は分からなくなっています。赤い城門が学校の校門になっているのは高津原の鹿島城に立つ鹿島高校と同じです。校舎の屋根も瓦葺で歴史を意識をしていますね。

北鹿島小学校校門(常広の鹿島城跡)

④ 毘沙門天王社

毘沙門天をお祀りしている神社ですが、元は観世音菩薩をお祀りしていたと言います。泰智寺たいちじ(浜町)の和尚がこの地を通りかかったとき、村民らが礎石累々たる跡で念仏を唱えていた。和尚が聞くとここは古寺の跡であると言い、哀れに思った和尚は、藩主に請うて大慈堂というお堂を建て、観世音菩薩を安置したとのことです。明治の廃仏毀釈で大慈堂は荒廃し、代わって毘沙門天を安置したと言います。

毘沙門天王社

⑤ 鹿島宿の町並み

毘沙門天王社から直角に曲がって路地を抜け、広い道に出ます。この辺りが鹿島宿の本町です。寺社など密集していますので一気に見て行きましょう。

鹿島宿継場跡は、本町公民館の前に案内板で示されています。継場とは移動に必要な馬や人を提供し、輸送する荷物を搬送する役割がありました。鹿島宿内で見かける唯一の案内板で、しかも見逃し易いです。

継場跡

願行寺は浄土宗の寺院で、山門の朱色が鮮やか。常広城を解体する時に寺がもらい受けて移築したと言われています。山門手前の橋は水路に架かっていて、このような水路が宿場内に張り巡らされています。

願行寺

諸国屋は江戸時代から続く旅籠屋で、伊能忠敬の『測量日記』に記載があります。文化9年(1812)測量隊は浜道を通って殿の橋から鹿島へ来たと言います。もはや建物には何の趣もなく、看板が伝えるのみです。

諸国屋

幸徳寺は鹿島川のほとりに佇む浄土真宗本願寺派の寺院。入口掲示板のお言葉「若い時は二度ない 同じように 老いる時も二度ない 今を大切に」。宿場内には恵比須像も沢山ありました。以下列挙します。

幸徳寺
幸徳寺前
田中ふとん店前
武藤商店前

⑥ 横沢橋・新宮神社

写真は鹿島川(黒川)に架かる横沢橋から見た西側の風景。右手に見える均整の取れた三角形の山は唐泉山とうせんざん(410m)で肥前小富士・鹿島富士などと呼ばれます。有馬氏が築いた横造城はこの辺りにあったと言われ、竜造寺勢力に攻め落とされました。橋を渡ると鹿島宿の新町に当たる地域になります。渡ってすぐ、左手にある新宮しんみや神社は菅原道真をお祀りしています。祐徳稲荷神社の影響でしょうか、社殿の一部が白や青に塗られていて鮮やかです。

横沢橋からの風景
新宮神社

⑦ 矢野酒造・鹿島稲荷大明神

しばらく進むと三叉路に出ます。ここにあるのが矢野酒造と鹿島稲荷大明神です。矢野酒造は寛政8年(1796)創業で、主屋は国の有形文化財に登録されています。「竹のその」「肥前蔵心ひぜんくらごころ」という銘柄が有名のようです。

矢野酒造

江戸時代には稲荷信仰が流行り、この辺りの商家や庄屋には稲荷の祠が置かれたようです。この稲荷神社は、ここにかつてあった鹿島屋という屋敷で祀られていた祠が、大正3年(1914)の洪水で行方不明になっていたのを屋敷裏の水路を清掃中に発見し、再びお祀りしたことから始まります。

⑧ 清水観音

清水観音はもともと一里塚だったようです。

清水観音

⑨ 鹿島町道路元標

道路元標とは、慶長9年(1604)江戸の日本橋から始まる全国の街道の出発点として設置されたのが始まりと言われ、大正11年(1922)には当時の各市町村に1か所ずつ設置され、道路の距離を測る基準点でした。街道の交差点や役場前に設置されることが多く、この道路元標は旧鹿島町役場前に設置されたものです。下部が埋もれていますが「藤津郡鹿島町道路(元標)」と彫られています。

鹿島町道路元標

⑩ 祐徳馬車鉄道発祥の地

祐徳ゆうとく馬車鉄道とはJRの前身九州鉄道が開通した際、その路線網から外れた藤津郡の有志によって設立された軽便鉄道です。武雄から塩田を経て鹿島を繋ぎ、祐徳稲荷神社の参拝客の輸送も兼ねていました。1904年に馬車鉄道として始まり、1907年には祐徳軌道として蒸気機関車になるも、収支が悪化し1931年廃業となります。

祐徳軌道のバス部門は1932年に祐徳自動車として引き継がれ、これは現祐徳バスの本社です。祐徳自動車の祐徳グループと昭和グループ(唐津市)は佐賀を代表する企業グループです。

祐徳馬車鉄道発祥の地

⑪ 大神宮

大神宮とは伊勢神宮の分宮です。伊勢神宮は皇室の祖先である天照大神あまてらすおおみかみ豊受大神とようけのおかみをお祀りする別格の神社ですが、江戸時代にはこの伊勢神宮を参拝するお伊勢参りが流行りました。とは言え、遠い伊勢まで全ての人々が参拝できるわけではなく、地域で伊勢講を作り選ばれた者が代表者として参拝しました。神社を沢山見て回っていると、境内に大神宮塔をよく見かけますが、これは代表者が参拝の記念に建てたものです。

境内のある大神宮石祠せきしには「宝暦五年」とあるので1755年に社殿は建立されたようです。現在の社殿は大正4年に改築したものです。

大神宮

⑫ 中川橋

多良海道散策の終点「中川橋」に到着です。かつては飛び石伝いに渡ったとのことです。さてここからは鹿島城周辺の散策です。

中川橋

なお、この先の浜宿までの散策はこちらをご覧下さい。

⑬ 鷲の巣城跡・思瓊神社

鹿島城の北東部、古さを感じる住宅地の中に小高い丘があります。同じ丘の上に立つ浄林寺を目指して登って行きます。鷲の巣城とは有馬氏が鹿島支配のために築いたお城の一つです。有馬氏と龍造寺氏の戦いは鹿島の歴史上最大にして最後の激しい合戦と言われ、鷹の巣城は陥落し、その後は再び城として蘇ることはありませんでした。最後の城主岩永和泉守忠茂いわながいずみのかみただしげの五輪塔が写真に見える鳥居の右側にあります。

岩永和泉守忠茂の五輪塔

思瓊神社は鷲の巣城の跡に立てられ、鹿島藩三代直朝をお祀りしています。直朝は中川から水を引き、溜池を造って、新田を開発した功労者として知られています。

鷲の巣城跡・思瓊神社

⑭ 鹿島城(高津原)・旭ヶ丘公園・武家屋敷通り

鹿島藩9代の直のりによって造られた新城が高津原の鹿島城です。大手門・赤門・鍵型の折れ曲がった道・鏡石という大きな石を含んだ石垣・武家屋敷など見所満載です。鹿島城は姫路城のような天守閣は元々ありませんでした。桜の名所旭ヶ丘公園は13代直彬の時に桜を植えた衆楽園しゅうらくえんが起こりで、初代忠茂から直彬を祀る松蔭まつかげ神社があります。弘文館こうぶんかんは藩校、藍田らんでん塾は日田の咸宜園かんぎえんで塾長も務めた谷口藍田の私塾です。

大手門
赤門(鹿島高校校門)
鍵型に折れ曲がる道
石垣
鏡石
武家屋敷通り
13代直彬の像
松蔭神社
弘文館跡
藍田塾跡

⑮ 田澤記念館

武家屋敷通りに田澤記念館があり、記念館は田澤義鋪よしはるという社会教育家の生家跡に建っています。田澤義鋪は鹿島藩に仕える武士の家系に生まれた人物です。田澤は青年団の父と言われ、激動の明治時代に教育が不十分で職に就いていない若者たちを集め青年団を作り、彼らの教育に尽力しました。見学無料です。

田澤記念館
田澤義鋪の碑(旭ヶ丘公園)

最後まで読んで頂き有難うございました。

参考

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