筑豊の石炭開発を指揮した町
長崎街道の飯塚から木屋瀬の間に位置する直方は、飯塚・田川と並ぶ筑豊の主要都市です。遠賀川流域の都市に見られるように、古くから年貢米や石炭をはじめ多くのモノが船で行き交い、交易によって発展しました。明治以降は筑豊の石炭開発が大規模に行われ、石炭の輸送は鉄道に切り替わります。市内を走るJR福北ゆたか線と平成筑豊鉄道は当時の石炭輸送路線を引き継いでいるのです。

筑豊三都市の中でも直方は、筑豊炭田の開発を指揮統制する役割を担いました。筑豊炭田の経営者達によって開設された筑豊石炭鉱業組合直方会議所では、石炭輸送問題・鉱山保安問題・採炭制限による単価調整等を討議していました。
なお、筑豊の五大炭鉱主の内の二人、堀三太郎・貝島太助の邸宅は直方にありました。今回の散策で立ち寄っています。

東蓮寺藩の城下町
直方は江戸時代の約100年間、福岡黒田藩の支藩・東蓮寺藩の城下町であり、廃藩後は長崎街道の町場として発展しました。かつての街道筋の一部はとのまち通り・ふるまち通りと言った商店街になっています。

東蓮寺藩は元和9年(1623)福岡藩より4万石を与えられて成立しました。初代藩主は黒田長政の第四子・黒田高政です。二代目は之勝、三代目は長寛と続きますが、長寛は福岡藩の跡を継ぐことになり、東蓮寺藩は一度本藩に返還。元禄元年(1688)長寛の弟・長清が5万石を与えらえ四代目藩主となり、直方藩と名前を替えて再開します。長清の子は福岡藩を継いだため、他に直方藩を継ぐ者がなく、享保5年(1720)廃藩となりました。

藩政時代に築かれた城下町ですが、立派な城郭があった訳ではありません。藩主は御館(陣屋)に住んでいました。御館は三代長寛までは現在の双林院(殿町)にあり、四代長清の時に妙見山(御館山)の高台に移築しています。そのため妙見山に元々あった多賀神社は現在の地に移転。妙見山の麓には家臣の屋敷が築かれました。

城下町は南北に連なり、南の町人が住む新町、妙見山の麓の門前町や武家屋敷、藩主の居館があった殿町、昔からの町屋が連なる古町、寺院が並ぶ西側の丘陵地、といった具合に大別することができます。また、城下町の出入口には門が5か所設置されました。東の頓野口には遠賀川の渡し場があり、木屋瀬へはこれを渡ります。
長崎街道の間の宿へ
廃藩後、直方の町は廃れる危機に直面しました。この時、町年寄の庄野仁右衛門が小竹から直方の間にある岩鼻と呼ばれた岩山の開削工事を行い、元文元年(1736)長崎街道を直方へ引き込むことに成功。以後、直方の町は街道の宿駅的な性格を持つ町場「間の宿」として現在の古町を中心に発展しました。

写真は小竹方面から見た現在の岩鼻です。開削されてJR線が通っています。従来の長崎街道は岩鼻の1.5㎞程手前で遠賀川を渡り、川の東側を進んで木屋瀬に通じていたため、直方に立ち寄ることはありませんでした。

直方 散策
散策の始点は城下町南の「尾崎口御門跡」とし、石炭記念館や多賀神社、古町・殿町の商店街、西側の丘陵地に並ぶ寺社を見て回り、城下町東の「頓野口跡」へ。ここまでが直方の散策です。その後は街道を進み、感田の町を経由して木屋瀬宿まで歩きます。頓野口跡から木屋瀬宿までは3.7km程で、終点を「木屋瀬宿西構口跡」としました。
なお、同じく間の宿で栄えた小竹から「尾崎口御門跡」までの散策はこちらをご覧下さい。
① 尾崎口御門跡
城下町の南の出入口に当たる尾崎口御門跡です。この門から先は町人の住む町屋(新町)と武家屋敷(殿町)に続きます。
洪水を防ぐ目的で写真のような土塁が右奥の山から左の方まで伸びていました。左の方では城郭にあるような立派な枡形構造をしていました。

② 香原邸
香原邸は幕末の文久年間(1861-1864)に移築されたと伝わる町屋建築です。


南直方御殿口駅は平成筑豊鉄道の駅です。平成筑豊鉄道は直方から田川、行橋を結ぶ第三セクターの会社です。この辺りが御館の門前町に当たるためこのような駅名になっています。

③ 家老屋敷跡
直方藩家老の伊丹九郎左衛門の屋敷跡です。新町交差点の手前の片隅にありました。

④ 須賀神社
須賀神社は新町北公園の一角にあり、古くは祇園社と呼ばれていました。

⑤ 直方歳時館
直方歳時館は、近代の炭鉱開発に尽力した堀三太郎の住宅で、明治31年(1898)建築です。その後公民館として利用され、現在は生涯学習施設となり、復元を経て邸宅は無料で一般公開されています。



⑥ 直方藩主居館跡
直方歳時館から西の直方市民体育館のある山の方へ進みます。踏切を渡って坂を登ると、写真の体育館の入り口に到着です。この妙見山(御館山)一帯が第四代長清の居館跡です。
先述のように元々、藩主の御館は双林院にあったのですが、5万石に増加されたことを機にここに移築しました。それによりここにあった妙見神社(多賀神社)が現在の地へ移されることになります。周囲に築地塀を廻らした91m四方の御館で、ここにあった門は西徳寺(⑲)に移築され現在も残っています。山裾には水路や石垣が廻らしてありました。

⑦ 直方城址石柱
体育館から北へ進むと大きな「直方城址」石柱があります。「城址」となっていますが、正確には城ではなく館でした。妙見山頂上は多賀公園となっています。木がなければ町を見渡せるので監視には最適な場所だったでしょう。

⑧ 双林院
双林院は真言宗の寺院で中には入れません。この辺りが三代長寛までの藩主の御館があった所です。

⑨ 直方市石炭記念館
直方市石炭記念館は、日本の近代化に貢献した石炭開発の歴史を伝えるために造られ、またかつての筑豊石炭鉱業組合会議所の建物も展示室として使用しています。筑豊炭田は明治初めから昭和51年(1976)までの約100年間に約8億トンの石炭を産出した日本有数の炭鉱です。施設係員のおじいさんは石炭を輸送した蒸気機関車の元運転手で、展示を熱心に分かり易く説明して頂き心揺さぶられました。貴重なお話に感謝致します。有難うございました。

筑豊には堀三太郎・伊藤伝右衛門・安川敬一郎・麻生太吉・貝島太助という五大炭鉱主がいました。また安川・麻生・貝島は筑豊の地方財閥「筑豊御三家」として知られています。安川敬一郎は安川電機など安川財閥の創始者です。麻生太吉は首相を務めた麻生太郎の曾祖父です。
堀三太郎の邸宅は直方歳時館(⑤)、貝島太助の邸宅は直方多賀町公園(⑪)、伊藤伝右衛門の邸宅は飯塚市幸袋にあり、どれも長崎街道沿いにあります。

伊藤伝右衛門の邸宅は飯塚宿の散策で訪れました。宜しければこちらもご覧下さい。
施設敷地内には貝島太助が購入したドイツ製のコッペル32号蒸気機関車と日本車両が制作したC11 131号蒸気機関車が展示されています。


また炭坑内でのガス爆発や落盤などの災害時に備え、救護隊員養成のための訓練施設として、救護練習坑道が残っています。大正11年(1922)に造られたもので、やはりここが炭鉱開発の中心的な町であったと分かります。

⑩ 多賀神社
石炭記念館から多賀神社へ向かいます。多賀神社は直方城下町の鎮守で歴代藩主が厚く信仰してきました。御祭神は伊邪那岐・伊邪那美です。雛人形の展示が華やかでした。


⑪ 貝島太助銅像
多賀神社を後にして、商店街の方へ東へ進みます。途中にある多賀町公園は貝島太助の邸宅跡で銅像が立っています。

⑫ 大曲り
大曲りとは町の防衛上、わざと道路をコの字型にして見通しを悪くしたものです。多賀町公園と殿町商店街の間の道が大曲りに当たります。写真の案内板はその道に立っています。

⑬ 西構口跡
古町商店街の入口には大正時代に建設された十七銀行直方支店の建物があり、現在はアートスペースとなっています。写真にある案内板は建物の裏に立っており、直方の宿場町として設置された構口がかつてここにあったことを示しています。


⑭ 向野堅一記念館
南へ進みアーケードを出ます。ここから南の通りはとのまち通りで古い町屋が残ります。最初に目に飛び込んでくるのが向野堅一記念館です。モダンな建物は大正11年(1922)に建てられた讃井病院で、記念館はその建物を利用しています。

向野堅一は直方出身の実業家で、当時の中国・清に渡って商人として活躍しました。明治38年(1905)には旧満州に渡り中国人と合弁で正隆銀行を設立し財界人としても活躍しました。
堅一の死後は日中戦争となり、以後両国関係は現在まで複雑です。それゆえ地元の人でも彼はあまり知られておりませんが、歴史の事実として彼を知ることも大切だろうと思います。

写真は満州の奉天という堅一が開拓した町の風景です。かつては荒涼とした原野をこのような大都市に変貌させたというのには驚きました。


⑮ とのまち通りの風景
とのまち通りは長崎街道のルートであり、南へ進むと「④ 須賀神社」へ繋がります。ここではその内の3か所を挙げます。他にも魅力的なお店や町並みがありましたので実際に歩いてみて下さい。
江浦医院は明治末頃に建築された木造様式建物で、現在も耳鼻咽喉科医院として営業されています。

前田園茶舗は昭和初期の町屋建築です。奥に見えるのが商店街アーケードです。

直方谷尾美術館は大正6年(1917)建築され、もともとは奥野医院でしたが、現在は谷尾美術館となっています。

⑯ 庚申社
さてここで一旦、寺社が並ぶ西側の丘陵地を散策しに行きましょう。「⑫大曲り」のある交差点から西へ進み、御館橋を渡ってJR線の向こう側へ。正面に雲心寺が見えてきますが、まずはその南にある庚申社に向かいましょう。

庚申社というなかなか聞かない名前の神社ですが、祭神は猿田彦命です。猿田彦命は道祖神として庚申信仰と似たような扱いで祀られていますので、それと関係しているものと思います。小さな神社ですが本殿の裏には猿の置物が沢山あり、異様な雰囲気でした。

⑰ 随専寺
随専寺の名の由来は、かつてこの一帯には湧水が豊富で出て、周りには蓮池があったことから瑞泉寺と呼ばれたことに因ります。裏の墓地には直方藩士で俳人の永井浮風とその妻諸九尼の比翼塚があるそうですが、見学できませんでした。

⑱ 旭地蔵尊・雲心寺
随専寺と雲心寺の間には旭地蔵尊があります。

雲心寺は臨済宗の寺院で、初代高政が父長政の追善供養のために建立しました。歴代藩主の菩提寺です。敷地億は広大な墓地が広がっています。

初代高政は参勤交代で江戸に在府中の寛永16年(1639)に28歳で病死し、遺体は祥雲寺(渋谷)に葬られました。その時家臣の4人も殉死しています。4人共、20歳前後と若く、忠義心の凄まじさを感じずにはいられません。高政と殉死した4人の遺髪が雲心寺に埋葬されています。



⑲ 西徳寺
西徳寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、初代高政は本堂を寄進し、準菩提寺としていました。山門は妙見山にあった藩主居館から移築したものです。


西徳寺の梵鐘は吊るされて現役のものと、地面に置かれているものがあります。この置かれている方は福岡城の時鐘であり、実際に鳴らして福岡城下の人々に時を告げていました。ところが福岡藩主・黒田光之の治世中に割れたため改鋳されました。割れ鐘は様々な経緯を経てこうして西徳寺に据え置かれているのです。この鐘が福岡城の時鍾であることを示す銘文が儒学者・貝原益軒によって刻まれているとのことです。

境内には作家林芙美子の文学碑があります。林芙美子は山口県下関市出身ですが、幼少時代に各地を転々とする生活を送ります。大正4年(1915)12歳の頃には、直方の大正町の馬屋という木賃屋に滞在し、両親と共に行商生活を送りました。この地で様々な人と出会い触れ合った経験が彼女の文学の原点になったと言われています。

⑳ 圓徳寺・植木口跡
西側丘陵地を後にし、商店街へ戻ります。JR直方駅構内を通過して線路を跨ぐと、明治町商店街が東西に延びています。このアーケードを進み、北へ少し外れたところにあるのが浄土真宗の圓徳寺です。直方城下町の北方に位置する植木口の近くに位置し、植木口を守る要害として機能していました。

圓徳寺の北隣にある広場は須崎町公園となっています。ここは城下町の北西の隅に当たり、発掘の結果、水路や土塁の基礎部分が出土しました。植木の町へ続く植木口もここにあったとされ、その御門跡は現在の須崎町商店街の入口付近であると考えられています。須崎町商店街はシャッター街になり大変廃れた状態でした。またここにも林芙美子の文学碑があります。



㉑ 頓野口渡し場跡
明治町商店街を抜け東へ進みます。川岸に出る辺りが頓野口で、木屋瀬へ向かうための船渡し場がありました。頓野口には大きな銀杏の木があり船乗り達の目印となっていたようです。


㉒ 阿高神社
次は感田へ向かいます。遠賀川を渡り土手道を進みます。小野牟田橋交差点を右へ進み、しばらく歩くと阿高神社です。


阿高神社の由来は次の通りです。今から500年程前、洪水でこの辺りに木造の祠が流れ着きました。村人が引き揚げて調べると田川郡川崎町の安宅村のものと判明します。安宅村へ知らせると、自由に処分して良いとのことだったのでこの地に祀ることにしたと言います。

神社の鳥居の傍には井堰跡があります。洪水の際、通路の両端にある石垣に板を渡して閉ざし、水の侵入を防ぐためのものです。このような井堰がこの地域にはいくつか存在したとされ、それだけ洪水に悩まされていたことを物語っています。

㉓ 柴田丹兵衛の墓
柴田丹兵衛は島原藩士で、参勤交代の際、増水した川の瀬踏みをして溺れ死んだ彼の死体が、ここ感田に流れ着き、村人が丁重に葬りました。瀬踏みした丹兵衛の勇敢さを称え、いつしか男児の健全な成長と病気治癒を願う場となったと言います。


㉔ 木屋瀬宿西構口跡
街道は感田を過ぎると再び川岸を進みます。交通量が多く歩道も十分ではないため、気を付けて歩きましょう。木屋瀬宿へは2km程です。写真は北九州市の標識が立つ地点で、奥にコンクリート工場が見えます。ここを矢印のように右へ進みます。

ようやく終点、木屋瀬宿の西構口跡に到着です!

木屋瀬宿についてはこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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