小田の里は当郡第一の繁昌所なり
今回散策する宿場町は小田宿で、佐賀県杵島郡江北町に位置します。蛇のようにくねくねと曲がる六角川。宿場町はその北側の山裾に形成され、江戸時代に長崎街道の開通によって大きく繁栄しました。

今日では河川の治水対策により、田畑に囲まれた長閑な風景が当たり前のように広がっていますが、平安時代に作成された『倭名類聚抄』という辞書には次のように記されているとのこと。「小田は駅どころにて南は不知火の内海、入り来る大小の船舶の着岸の所にて之を小田津と云う。小田の里は当郡第一の繁昌所なり、駅には駅守、津には津守…」。
つまり、当時の小田は大きな船も多数行き交う程の入江であったことが分かります。また宿駅が置かれていたということは、ここを官道が通っていたのでしょう。水陸両方の交通が盛んで賑わっていた小田の様子が目に浮かびます。
写真は牛津方面から小田宿を望んだ風景です。小田宿の手前に広がるこのような田畑も昔は入江だったと想像が膨らみます。小田の町は正面の山の麓に形成されました。長崎街道はこの山裾を辿って東へ続いています。

長崎街道「小田宿」
戦国時代になるとこの地域は横辺田と呼ばれ、周辺の小規模な領主による支配を受けてきました。その後、馬場氏がこの地域を拠点とし、乙宮山に城を築きます。これは現在も天子社の裏山にその遺構を認めることができ、馬場氏の拠点集落が小田宿の前身として形成されていたことが分かっています。

江戸時代には肥前国の支配が龍造寺氏から鍋島氏へと移り、長崎街道の宿駅として小田宿は繁栄。この頃、町の首長として中島家が大庄屋を世襲し、その屋敷跡が現在も残っています。

小田宿のシンボルと言えば、馬頭観音堂です。天平9年(737)に行基がこの地にいた豪族の親娘の情愛や孝行話に感動して大楠に馬頭観音像を彫ったという伝説があり、その大楠が現在も残っています。大楠は嘉永4年(1851)の観音堂の火災により延焼。現在その彫像は摩耗により確認できなくなっています。しかし、小田宿を訪れたケンペルやシーボルトが記録に残していることから、その存在は確実と思われます。

さて、宿場町で見かけないことはない恵比須像。商売繁盛を願う宿場町に相応しい神様ですが、勿論ここ小田宿にもいらっしゃいました。大黒天と並んでいるものも。こうした石像を見かけるとここが宿場町であることを象徴的に教えてくれて、嬉しくなります。お供えされたお花と共に宿場町を鮮やかに彩ってくれていました。以下、見つけたものを挙げます。






小田宿 散策
小田宿の範囲がどこからどこまでかは分かりませんが、小田宿広場から馬頭観音堂辺りであろうと思われます。散策の始点は「大庄屋中島家」、終点は「茅葺の家屋」で、750m程の町並みです。
散策すると当時を偲ばせるような小田宿の町並みは薄れています。「小田宿歴史探訪マップ」という散策パンフレットが馬頭観音堂や関川家住宅前に置いてあります。これによると当時の面影を伝える庭園や道標が現在も残っているのですが、どれも一般の住宅の敷地内にあり、実物を見ることができない状況です。これは仕方ありませんが、貴重な観光資源があるのに見れないのは歯痒いなと思いました。なお、駐車場とトイレが馬頭観音堂にあります。

① 大庄屋中島家
それでは散策スタート!写真は牛津方面から小田宿へ入る直前の交差点。矢印の方へ進みます。なお、牛津宿から小田宿までの散策は次のリンクからご覧下さい。

大庄屋の中島家は藩主や大名の宿泊施設である本陣として利用されました。現在もここに中島家の方がお住まいです。建物は新しく立て替えられ、白い塀で囲まれています。大庄屋中島家は現地で入手したパンフレットに場所が記載されているのですが、何も知らなけれが素通りしてしまうでしょう。因みに伊能忠敬もここに宿泊し、天体観測を行ったとのことです。

② 小田宿広場
小田宿広場には道標があります。しかしこれはレプリカです。本物は「⑨関川家住宅」の敷地内にあり、見ることができません。その道標も元々はこの先の中島商店の交差点にあったとのこと。しかも本物の道標は「ながさき美ち 古くらみち」と陰刻されており、レプリカとは異なっています。これはよろしくないですね。

③ 中島商店
小田宿広場から小さな川を渡ります。写真はその風景で比較的古い家屋が残っています。中島商店は奥の交差点の右の角にあります。中島商店の家屋は結構大きく、歴史と風格を感じさせるもので立派でした。街道はここを左へ直角に曲がります。


④ 正栄寺・一行寺
正栄寺と一行寺は並び合うように立っており、共に浄土真宗本願寺派の寺院です。この地域の住む人々の菩提寺なのでしょう。因みにこの寺院の向かい側に馬継場があり、人や物を運搬する人足や馬が準備されていました。


⑤ 祇園社跡
しばらく進むと御幸橋があり、道路と一体化していますが、これは祇園川という小さな川に架かっています。また、この付近に高札場があったようです。

御幸橋から山の方へ進むと、大きな楠が印象的な開けた場所があり、ここにかつて祇園社がありました。写真右の石碑に祇園社跡と彫られています。

⑥ 天子社
祇園社跡から続く300m程の一直線な道。ここが天子社へ向かう参道です。ワイングラスのような形に切り込まれた木々が左右対称に等間隔に植えられているのが印象的です。この参道では江戸時代に流鏑馬が行われていました。

流鏑馬は幕府の支援のもとで194年もの間、天子社に奉納されました。2014年には144年ぶりに奉納されました。次の動画がその様子です。この時は境内で馬を走らせずに実施したみたいですね。
さて天子社の由緒ですが、案内板によると天子社の天子とは天皇のことで、神功皇后が三韓征伐の際にこの地に逗留したという伝説に由来します。大変古い神社です。その後、この地域の時の有力者がここに神様を勧請したり、社殿を再建・修復したりして、長きに渡って厚く崇拝されてきました。そうした中で天子社は上宮・中宮・下宮で構成されるようになりました。境内のメインとなる大きな社殿は実は中宮です。

上宮は中宮の左隣にあり、社殿はなく石の祠がひっそりと立っている状態です。目立たない神社ですが、乙護法と扁額が付いた鳥居が立っています。元々は奈良時代に小田の駅長が仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の親子を祭神として大森神社を建立したのが始まりです。室町時代に再建され上宮となっています。

下宮は鎌倉時代に鎌倉から若宮八幡神を勧請して建立した若宮八幡神社です。場所は馬頭観音堂の傍にあったようですが、残念ながら現在は何も残っていません。
境内には石祠がずらりと並び、青面金剛など珍しいものもありました。

⑦ 乙宮山の山城
天子社の左から山の方へ200m程進んだ所に乙宮山の山城があります。写真の入口までは直ぐに行けます。案内板によるとV字型の二重の空堀や積石が部分的に残っているとのこと。写真のように入口付近はきれいに整備されていますが、そこから先は獣道です。茂みを搔き分けて進むことになるので、これ以上は深入りはしませんでした。

⑧ 禅定寺
禅定寺は曹洞宗の寺院です。元々は行基が道徳山に建てた真言宗の寺坊が由来です。江戸時代にこの地に移され曹洞宗として再興されました。

⑨ 関川家住宅・岩見屋・池田屋
宿場町へ戻って西へ進みます。ここでは当時を偲ばせる家屋が3軒あり、池園が保存されています。どれも一般の方の住宅ですので中に入って見学することができません。仕方のないことですが、これらが一般に公開されるとより観光資源として利用できるでしょう。
まず左手に見える白壁の家屋は関川家住宅で、明治中期に建設されました。銀行業などを営み実業界で成功を収めました。先述しましたが、この敷地内に道標が保存されています。

関川家住宅の向かいある住宅が岩見屋で、江戸時代は小田宿の本陣でした。鹿島藩主が参勤交代の際にはここに必ず宿泊したと伝えられています。岩見屋の庭には湧水を利用し、鶴・亀を配する池園が保存されています。
岩見屋の先、道路を挟んだ右手にあるのが池田屋です。小田宿の脇本陣として利用されました。ここにも池園があるようです。

⑩ 浜道の追分
写真は馬頭観音堂の手前の追分(分岐点)です。矢印で示しているように、ここを左に進むと浜道と呼ばれる長崎街道です。この道は六角宿・高町宿を経由して鹿島城下へ続きます。鹿島藩の行列が小田宿の岩見屋に宿泊するために、この追分を通ってやって来た様子が目に浮かびます。彼杵通とは、一般的に知られる長崎街道で、この先を進むと北方宿へ繋がります。

⑪ 馬頭観音堂
行基が馬頭観音像を刻んだ大楠は注連縄が掛かっている木であろうと思われます。その奥に高く育っているのは、二代目・三代目の楠で、命を繋いで来ているのが分かります。小田の人々が大切にこの樹を保存しようとしたのが分かります。これからも小田のシンボルであり続けて欲しいですね。

⑫ 茅葺の家屋
散策の最後に、茅葺の屋根の家屋が2軒残っているとのことで、見に行ってみました。馬頭観音堂の50m程先で右に曲がり、細い道を進んだ所にあります。一般の方の住宅ですので撮影は迷惑にならないようお願いします。


今回の散策はここまでです。なお、この先の北方宿までの街道散策は次のリンクからご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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