北九州市第二の都市・黒崎
北九州市八幡西区に所在する黒崎。北九州市は小倉に次ぐ第二の都市としてこの街を位置付けています。まずは黒崎の町について見て行きましょう。
黒崎駅ではJRと筑豊電鉄が接続しています。隣にはコムシティという区役所や商業施設を備えた大型施設があります。駅の北側は洞海湾に面し、安川電機や三菱ケミカルなど工場地帯が広がります。南側は商店街が同心円状に広がっており、かつての宿場町もここで栄えました。「くまで通り」は黒崎宿のメインストリートです。




筑前国の玄関口・港町黒崎
江戸時代の黒崎は筑前国・黒田藩の玄関口といわれました。筑前国内で最も栄えた長崎街道の宿駅を「筑前六宿」といいますが、黒崎はその中でも一番でした。
その要因は洞海湾に面した湊。ここから上方(大坂)への渡海船が発着していました。また、江戸時代に開通した人工水路「堀川」。これにより洞海湾と遠賀川がつながり、筑豊の年貢米や石炭など様々なモノが輸送可能となりました。黒崎は水上交通の上でも重要な拠点でした。近代以降は、隣の八幡の町に製鉄所ができ、日本の工業の発展に貢献しました。

井上周防之房が造った宿場町
黒崎の町の始まりは城下町です。慶長五年(1600)黒田長政が筑前に入部します。黒田二十四騎の一人である井上周防之房に一万六千石を与えて黒崎城を作り、彼を城主とします。城下町として整備していた矢先、元和元年(1615)幕府によって領国の居城以外の城を壊す一国一城の制が敷かれたため、黒崎城はわずか十数年で取り壊しになりました。同時に参勤交代の制が敷かれ、黒崎は宿場町として整備しなおされることになります。街道の整備、田畑や湊の開墾工事が行われました。

城下町の名残から、黒崎宿は黒崎城(道伯山)のふもとに広がっているため、現在では人通りの少ないJR線北側の田町に東構口がありました。城の西側は舟町といい黒崎の湊がありました。宿場町は東から田町・藤田・熊手と続き西構口に出ます。その後街道は、当時の様子を復元した「曲里の松並木」経て木屋瀬宿まで南下していきます。

神武東征・花尾城・五卿
宿場町以外での黒崎の歴史はおおまかに以下の三点です。一点目は、神武天皇東征とゆかりのある岡田宮です。古事記では神武天皇が日向より東征の際、この地に一年間滞在されたといわれています。

二点目は中世の花尾城です。中世には麻生氏という豪族が黒崎をはじめ遠賀郡一帯を支配しており、その居城・花尾城が皿倉山の一角にありました。しかし秀吉の九州平定により筑後へ追われ、城は廃城となりました。

三点目は五卿上陸の地です。幕末に尊王攘夷派の五卿が失脚して京都を追放され太宰府へ流されることになるのですが、その途上、五卿が上陸したのが黒崎の湊でした。

黒崎宿 散策
今回の黒崎宿散策は、東構口付近にある常夜灯からスタートです。黒崎城を登って眺望を楽しんだ後、湊を散策。再び宿場町へ戻り、東構口からかつての宿場町の通りを沿って曲里の松並木まで歩きました。最後に1kmほど離れた一宮神社を見学して終わりです。
① 黒崎湊の常夜灯
さて、スタートとなる写真の交差点は田町東交差点です。ここに黒崎宿の案内板があり、右側の道を進むと東構口跡につながります。案内板のある地点には黒崎湊の常夜灯と城石村開作成就の碑があります。二つとも、もともとは別の場所にあったのですが、この地に移設されています。常夜灯は黒崎湊の入り口に設置され、航海の安全を守る灯台として機能していました。

城石村開作成就の碑は、JR黒崎駅の北側の城石村に建てられたものです。この地域は、洞海湾が深く入り込んでいる浜を埋め立てて水田を作るために、江戸時代に大規模な工事が数回行われたといいます。遠賀郡や鞍手郡など周辺の郡から多くの人が従事し元文三年(1738)に完成しました。堤防には城山(黒崎城)の石垣が使用されたことからこの地名の由来となりました。碑には「元文三年午五月城石村開立成就」と記され関係者の氏名が刻まれています。

なお、長崎街道はこの田町東交差点から東へ進み、小倉城へ続きます。小倉城までの散策はこちらをご覧下さい。
② 黒崎城跡
田町東交差点から右へ進み黒崎城へ向かいます。住宅地から写真のような階段を登ります。坂道を登って15分くらいで頂上に着きます。


黒崎城は先述した通り黒田長政が作った端城の一つで、城主は家臣の井上周防之房です。一国一城制のもとわずか十数年で取り壊しとなり、現在はわずかに石垣が残る程度となっています。しかし眺望は最高です。黒崎の町と湊がきれいに見渡せます。展望台もあるためぜひここに来てみてください。

黒崎城の周辺は城山緑地として整備され、緑豊かな歩道や公園になっています。頂上の東にある階段を下りた先に住吉神社があります。このあたりは屋敷という地名で秋月藩の年貢米の蔵屋敷を芦屋からここへ移したことからこう呼ばれるようになったといいます。祭神の住吉の神は海の守り神で、人々は航海の安全を祈りました。

③ 秋月藩蔵屋敷跡
住吉神社から湊の方へ進みます。ヤマト運輸の宅急便センターに面したコンクリート塀に写真の案内板があります。

④ 五卿上陸地
秋月藩蔵屋敷跡から大通りへ出るとすぐに五卿上陸地の碑があります。黒崎湊は幕末に尊王攘夷派の公家が太宰府へ流された際に立ち寄った湊です。

⑤ 黒崎湊跡
黒崎湊跡は、五卿上陸地の石碑の裏側にあります。柵で囲まれた木々の茂る工場の敷地沿いを湊へ進んだところにありますが、若干わかりにくいかもしれません。


⑥ 東構口跡・海蔵庵
さて、黒崎湊跡から①黒崎湊の常夜灯の方まで進みます。写真に見える左の白壁がかつて黒崎宿の東構口があったところで、その奥は海蔵庵というお寺の敷地で六地蔵の大きな石塔が見えます。構口とは宿場の出入り口にあって通行人の監視を行う場所です。このあたりは黒崎城が廃城になった後、その堀を埋め立ててできた地域だといいます。

海蔵庵の歴史は古く、聖武天皇が九州へ御巡拝されたときに立ち寄った観音寺が由来とのことです。この後立ち寄る浄蓮寺に所属しています。境内にある阿弥陀如来像や毘沙門天像、六地蔵が大きく、とても存在感のあるお寺でした。


東構口を後にして西へ進み、写真の交差点を左へ進みます。曲がったあたりが御茶屋、つまり藩主や大名の宿泊施設があったところといわれていますが、現在は何も残っていません。


⑦ 櫻屋の離れ座敷と歌碑
JR線を渡ると交差点の一角に櫻屋の跡地があります。櫻屋は黒崎宿に設けられた旅籠の屋号で、薩摩藩の定宿所でもあったため薩摩屋とも呼ばれていました。

櫻屋には離れ座敷がありその庭には歌碑が二つありました。ひとつは櫻屋の主人と五卿の一人・三条実美の歌碑で、もう一つは東久世通禧の歌碑です。どちらも太宰府へ流された時の苦しい気持ちが詠まれています。現在は櫻屋はなくなってしまいましたが、かつて離れ座敷があったこの交差点の一角に、歌碑が二つ残されています。



⑧ 浄蓮寺
櫻屋跡から国道3号線の大通りを渡ります。まずは東の浄蓮寺に向かいます。さきほど東構口にあった海蔵庵の本寺で、慶長二年(1597)創建の浄土宗の寺院です。

⑨ 春日神社
春日神社は中世にこの地域を支配した豪族・麻生氏の氏神でした。宮司である波多野家が記した古文書が残っており、麻生氏が周辺の豪族の対処に苦心している様子がうかがえるようです。

江戸時代には井上周防之房が黒田官兵衛や藩祖・長政、家臣二十四騎を神霊として奉納し、黒田神社とも呼ばれるようになります。この家臣ひとり一人の肖像を一幅ずつ描いた絹本着色黒田二十四騎画像が神社に奉納され、波多野古文書とともに北九州市の有形文化財となっています。

写真は本殿内部の様子です。小さいですが奥の右側に金色の黒田二十四騎画像が見えます。

下の写真は春日神社の入り口の鳥居のそばにある東光寺のお堂です。浄蓮寺の末寺で麻生氏によって建立されたといわれています。

春日神社を後にし、宿場を歩きます。写真の地点は春日神社の手前、藤田の商店街へつながる交差点です。ここを右へ曲がり直進です。なお、ここには人馬継所がありました。

⑩ 正覚寺
正覚寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。親鸞聖人がお出迎えです。

⑪ 藤田商店街・くまで通り
宿場は藤田商店街、くまで通りと続きます。以下宿場町に関わる風景を列挙します。商店街を歩いていると、いくつか黒崎宿を伝える風景がありました。2014年の大河ドラマで黒田官兵衛が取り上げられた影響なのか、「軍師官兵衛」や「黒田家ゆかりの~」といった言葉をよく見かけました。黒崎の町は黒田官兵衛と長崎街道をテーマに町おこしをされているようで、案内板など整備が進んでいます。この日は春分の日でお彼岸の期間でもあり、人が多かったです。





⑫ 岡田宮
くまで通りを抜け岡田宮へ向かいます。岡田宮は古事記において初代天皇となる神武天皇が東征する際に滞在した地で、また神功皇后が新羅征伐の際に立ち寄った地でもあり、北部九州有数の古社です。祭神は神武天皇です。


七月には黒崎祇園山笠が奉納されます。慶長十年(1605)から行われている岡田宮・春日神社・一宮神社の夏祭りです。井上周防之房が春日神社・岡田宮に須賀大神を奉納したことが始まりとされます。彼はまた祭りに勇ましさを付けるため、関ヶ原の戦いの経験を生かして陣太鼓やほら貝を鳴らすようにしました。一宮神社もまた大変古い歴史のある神社で、今回の散策の最後に向かいます。
現在の山笠は派手さを増し夜には電飾も付くようですが、山笠の原型とされる笹山笠が八幡西図書館のエントランスに展示してあります。子供山笠もありますのでぜひ立ち寄ってみましょう。

⑬ 西構口跡
岡田宮を後にして西へ進むと、ふれあい通りという大通りに出ます。ここが西構口跡です。大通りを横断してさらにまっすぐ進みます。


⑭ 乱橋
西構口から間もなく乱橋に出ます。ここだけ欄干が朱色に塗られているため目立ちます。名前の由来として、黒崎宿出身の俳人・富田沙明の「ほたる飛ぶ まつのはつれや 乱れ橋」があります。コンクリートでガチガチに固められた現在の乱れ橋ですが、蛍が橋に邪魔されて乱れ飛ぶかつての風景があったのでしょう。街道はここで折れ曲がり、写真の手前方向へ進みます。

⑮ 曲里の松並木
乱橋から山手通りという大通りを渡ると、曲里の松並木の出入り口に出ます。現在は松を植樹して大変きれいに整備されていますが、昭和六十年代の写真を見ると松は現在のように密集しておらず、斜めに伸びているものが目立ちます。結構、今と違いますね。



曲里の松並木から長崎街道は木屋瀬宿へ向けて南下します。そちらの散策はこちらをご覧下さい。
⑯ 一宮神社
さて、最後に黒崎祇園山笠が奉納される一宮神社へ向かいます。曲里の松並木の出入り口から西へ山手通りを1㎞歩きます。このあたりは山寺町という地域です。一宮神社はこの地域の氏神である王子神社・大歳神社・諏訪神社を合祀して一宮神社となりました。岡田宮と同じく神武天皇東征とゆかりがあり、大変古い神社です。


注目すべきは、境内にある古代の斎場跡です。この古代斎場は、三角と丸の形をした磐境で大変珍しいらしく、私も初めて見ました。不思議な感じなのでぜひ立ち寄ってみてください。

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