伊万里へ通じる小さな宿場町
今回散策する宿場町は長崎街道の北方宿です。北方宿は佐賀県武雄市の東部に位置する北方町にあり、伊万里を経由して唐津へ向かう唐津街道への分岐ともなっている宿場町です。見所としては本陣を務めた稗田家の白壁の家屋、炭鉱絵馬で知られる大崎八幡神社、街道の分岐となる追分石、そして改築や取り壊しが進むも何とか面影を残している町並みでしょうか。

北方宿に藩主や大名の宿泊する本陣が設置されたのは江戸時代後期の天保12年(1841)です。これは他の宿場町と比べると遅く、それまでは宿泊施設の整っていない間の宿として機能していたと言われています。従って小規模な宿場町だったと言えるでしょう。
写真は元禄年間に描かれた北方宿の鳥瞰図です。北方宿には出入口に当たる構口が東西に設置されており、その間の凡そ365mがメインの町通りであったと考えられます。伊万里への分岐点では直角に折れ曲がっています。伊能忠敬は北方宿に立ち寄り、本陣に宿泊しました。

橘氏・龍造寺氏・多久氏…長嶋荘を支配した者達
ではこの地域の歴史を大まかに見ていきましょう。平安時代、北方宿のあるこの地域は京都の蓮華王院(三十三間堂)が所有する荘園で長嶋荘と呼ばれていました。その規模は肥前国最大の神埼荘に次ぐ程であったと言われています。
鎌倉時代には橘氏がこの地へやって来ます。橘公業は伊予国宇和荘から転封となり、長嶋荘の地頭となりました。この時代から地頭の力が強くなり荘園は実質的に地頭が支配していくようになります。
橘公業はその子孫たちに荘園の支配を委ねました。長嶋荘は上村と下村とに分かれ、上村は大崎氏が支配していくことになります。大崎氏は館を現在の大崎八幡神社に構えています。下村は渋江氏・牛島氏・中村氏・中橋氏の四家が分割支配しました。
そんな橘氏も室町時代の中頃には勢力が衰えていきます。橘渋江氏は武雄領主である後藤貴明の配下になると、永禄5年(1562)十三塚で龍造寺長信との戦に敗れたことで、長嶋荘は龍造寺氏の領地となりました。因みに十三塚は北方宿の東の街道筋にあり、その名前の由来となった十三仏信仰の石塔が現在も立っています。

天正元年(1573)龍造寺隆信と長信は武雄の後藤貴明、須古の平井常治に対しても勝利を収め、その支配領域は拡大。戦の勝利に感謝した長信は大崎八幡神社の拝殿の改築や館の防御のために溝の造営を行っています。こうして長嶋荘をはじめとした多久の支配権は龍造寺長信が握ることになりました。

ところが江戸時代になると、龍造寺氏の重臣として活躍していた鍋島氏が佐賀藩の藩主となります。とは言え、鍋島氏にとって多久を支配していた龍造寺長信の一族は無視できるものではありませんでした。多久氏と名前を改めた長信一族は、多久領主としてこの地域の支配権を認められただけでなく、本藩の政治にも大きく関与しました。
北方宿 散策
北方宿は小さな宿場町で見所も少ないです。じっくり散策しても1時間は掛からないでしょう。散策の始点は東構口跡、終点は西構口跡です。
① 東構口跡
では散策を始めましょう。長崎街道を小田宿方面からやって来た時の北方宿入口がここ東搆口跡になります。なお、小田宿から北方宿までの散策はこちらをご覧下さい。
構口とは宿場町の出入口に当たる場所のことです。東構口は先述の鳥瞰図では写真のように横断歩道のような四つの白いブロックで示されています。東構口の周りには長方形の池のような部分があり、そこから三方向へ水路が巡らされ、それを渡すような形で構口は設置されていたようです。

写真は現在の東構口付近の様子ですが、鳥瞰図に示された水路は現在も健在です。奥に見えるガードレールの付いた橋がちょうど東構口であることが分かります。その先に見える白壁の家屋が稗田家の家屋で北方宿の本陣でした。

② 本陣跡
本陣とは藩主や大名の高級宿泊施設で筑前では御茶屋と呼ばれます。本陣を務めたのは稗田家で、天保期に造られた当初は茅葺で明治期に瓦葺になりました。綺麗に維持管理された白壁は北方宿を象徴しています。

③ 泰林寺
泰林寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、橘公業がここに布教所を設置したと言われています。

ここから先は古い家屋が散見されます。そうした家屋は改築され新しくなっていますが、屋根や窓の造り、壁や家屋の奥行きなどを見るとそれと分かります。きっとこうした家屋がずらりと並んでいたことだろうと想像が膨らみます。


④ 大崎八幡神社
大崎八幡神社の社殿は丘の上に建てられています。大崎氏の館や龍造寺長信の砦もあった所ですが、その具体的な場所は分かりませんでした。鳥居の前は宿場町時代の高札場があり、近くには問屋場・籠立場もあったようです。

神社の縁起は古く、神功皇后がここに立ち寄って石祠を立てたという伝説に始まります。社殿の後ろの森にはその時代に造られた古墳が確認されています。鎌倉時代には多久荘の地頭が応神天皇を合祀し八幡神社となりました。

大崎八幡神社がユニークなのは江戸時代に炭鉱絵馬という炭鉱採掘の様子が描かれた絵馬が奉納されたことです。宿場町の北東に大副炭鉱があり、そこで働く人々の安全を祈願して慶応元年(1865)に奉納されました。写真は案内板のもので実物は武雄市歴史資料館で見ることができます。

拝殿の天井には十二支が描かれ、同じ戌でもブルドッグなどの洋犬がリアルに描かれていて面白いと感じました。また源頼政の鵺退治の絵馬も奉納されています。鵺とはその字が示すように夜に不気味な声で鳴く鳥のような妖怪です。顔は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇のような姿と伝えられています。平安時代末期に弓の名手である頼政が鵺を退治し、これに苦しめられていた近衛天皇を救ったという伝説があります。

神社の右手の斜面には弁財天を祀ったお社があります。階段が下へ真っ直ぐ続いていることから本来は鳥居から直進してこのお社まで上って行くことができたのでしょう。現在は途中で分断されています。

案内板に説明がありましたが、弁財天はインドでは川の神様であり、川の水を農地に引いて作物を育てることから農業の神様でもあります。従って湖や池、海などの水辺に祀られるのですが、弁財天信仰が日本に入って来ると、丘や山の上にも祀られるようになりました。それは日本では山が多く、川はそうした身近な山から流れ出していて、人々に恵みを与えていたからだろうと思います。この地域では弁財さんと呼び、毎年4月苗代田に種籾を蒔く季節に弁天祭が開催されていたそうです。
弁財天のお社の上にも行くことができ、そこは見晴らしの良い丘の頂上です。そこで天照皇大神宮、宮地嶽三柱大神、庚申尊、梵字などの石碑を見つけました。

⑤ 追分石
大崎八幡神社の先は写真のように街道の分岐点(追分)です。いつかここから伊万里へ歩いてみたいものです。正面の家屋の右隅に恵比須像と追分石が立っています。

追分石は地面に埋もれていて彫られている字が全部確認できないのですが、写真から見える面には「いまり」、その裏面には「さか」「たけお」と彫られています。

⑥ 聖恩寺
聖恩寺は真言宗大覚寺派の寺院で、ここから北へ3km程の山中にある大聖寺の隠居所だったとのことです。大聖寺は和銅2年(709)に行基によって開山された古い寺院です。

⑦ 西構口跡
追分を左へ進み西構口跡へ進みます。奥の白い柵の付いた橋が西構口に当たる所です。右の住宅の入口には恵比須像も見えます。

今回の散策はここまでです。この先の塚崎宿までの散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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