久留米有馬の支藩・松崎藩
松崎宿は福岡県小郡市松崎に所在し、松崎藩内を通る薩摩街道の宿駅として栄えました。松崎藩とはどのような藩だったのでしょう。
松崎藩は久留米・有馬藩の支藩です。有馬藩は第二代藩主・忠頼の時、後継ぎとなる男子がいなかったため、出石藩(兵庫県)に嫁いでいた忠頼の妹の子供・豊範を後継ぎとしました。しかし、忠頼にはその後男子が生まれたため、豊範が後を継ぐことはなくなりました。代わって豊範には松崎の領地一万石が与えられ、寛文八年(1668)松崎藩が設置され、その藩主となったのです。豊範はその後、幕府のお家騒動に巻き込まれて領地を失うことになります。代官として服部六左衛門が派遣され、松崎は幕府直轄の天領となったのち、元禄十年(1697)に有馬藩に還付されました。城はわずか14年で取り壊しとなり、現在は三井高校が建っています。
交通の要衝地・小郡
薩摩街道は九州を南北に貫く街道で、松崎宿はその最北端に位置する宿場町です。松崎では松崎街道や往還などと呼ばれています。松崎宿を出て北へ向かうと石櫃(筑前町)という地域で天領・日田へ向かう日田街道に接続します。そこから長崎街道の山家宿(筑紫野市)にも接続します。

小郡市には薩摩街道の他に、佐賀鍋島藩主から篤い信仰を集めた英彦山への参詣道として英彦山道が東西に通っていました。多くの佐賀の領民が英彦山道を通って参詣したようです。また、松崎宿経由の薩摩街道とは別に、久留米と筑前を南北に結ぶ街道として旧筑前街道が通っていました。松崎宿の設置に伴い旧筑前街道は廃れ、参勤交代の道として薩摩街道が主要街道となります。さらに古代にまで遡ると、古代の役所である官衙の跡が点在しており、筑後国府へ通じる官道も通っていました。このように小郡市は交通の要衝地でした。英彦山道や旧筑前街道についてはまた別の機会に投稿したいと思います。
松崎宿
松崎藩主である有馬豊範は、田舎のこの地に城を立て、土堤を築いて山桜を植え、桜馬場を造りました。また、宿場町の整備を進め、久留米藩内において筑後三宿(松崎・府中・羽犬塚)とよばれるほどの発展を遂げます。
町には大名の宿泊施設である御茶屋(本陣)があり、旅籠26軒、煮売屋6軒など総戸数は129軒に及びました。松崎藩が廃藩になっても参勤交代の宿駅としての重要性は変わりなく、大変繁盛したといいます。

松崎宿は防犯上、周りを竹藪で囲むような構造になっていました。宿場町は南北に軒を連ね、宿場の安易な通り抜けを防ぐため枡形が二か所設置されています。特に珍しいのは、南北に設置された構口の石垣がどちらもきれいに残っていることです。桜馬場の桜が美しく、旅籠の油屋は2019年に復元されました。松崎宿のランドマーク・観光資源となっています。


松崎宿の歴史について詳しく知りたい方は油屋か歴史資料館に行きましょう。資料館は事前に連絡が必要です。今回私は資料館を見学し、解説員さんから丁寧にお話をして頂きました。有難うございました。
(見学)無料/(開館)9:00~16:00/(休)日・月/(無料駐車場)油屋向かい |
(松崎歴史資料館TEL)0942-75-7555 |
松崎宿 散策
散策の始点は南構口、松崎城を経由し、終点を北構口としました。散策日は4月5日(火)。天気は晴れ。桜の見頃は過ぎていましたが、青空を背景に緑とピンクが綺麗でした。お祭りの後だったようでゆっくりと散策できました。
① 南構口
松崎宿の南側の構口。構口とは宿場の出入り口に設置され、通行人の出入りを監視する番所のようなところです。石垣が完全ではないにしてもここまで残っているのは、私が知っている限りここだけです。両サイドへ石垣が続き重厚感があります。おそらくですが、この石垣の上に白壁の塀が築かれていて屋根は瓦が葺かれていたと思われます。石一つひとつの大きさや形に合わせてきれいに積まれているさま、ぜひ直接ご覧になってみてください。

構口から間もなく進むと、左手に恵比寿像が建っています。商売繁盛の神様ですね。このような恵比寿像が松崎宿には四か所残っています。

② 旅籠鶴小屋
恵比寿像から間もなく進むと、右手にだいぶん朽ちてしまっている家屋があります。これが旅籠の鶴小屋でした。現在の姿は明治以降の建築によるものとされています。

③ 南枡形
突き当りは枡形になっています。このように道をクランクさせることで宿場内の通りを悪くし、内部に侵入した不審者を仕留めやすくしていると言われています。


④ 眞浄寺
枡形を出た道は割と交通量が多く、先程とは違いのんびりした感じはありません。枡形から南には浄土真宗本願寺派の眞浄寺がありますが、改築中のため近づくことができませんでした。

⑤ 本陣跡
通りを北へ進み、交差点を左へ曲がって桜馬場へ進みます。右手に本陣跡があります。本陣とは藩主や大名が宿泊する施設で御茶屋とも呼ばれます。写真の左手にある道の先に本陣の建物があったようですが今はありません。ここにも恵比寿像があります。

⑥ 桜馬場


⑦ 野田宇太郎文学碑
桜馬場の途中にある文学碑。野田宇太郎は松崎で生まれた詩人です。詩を作るだけでなく多くの詩集や文学集を出版・編集し、文学や歴史の保護に努めました。戦後、新聞掲載を端に発する「文学散歩」シリーズがベストセラーとなります。全く私は知りませんでしたが、松崎のキーパーソンですね。

⑧ 松崎城跡
城下町としての松崎は、先述のように有馬豊範の一代で終わり以後は宿場町となります。城は取り壊され、跡地には三井高校が建っています。

⑨ 天満稲荷神社
三井高校の向かいには神社の敷地が広がっています。有馬豊範が城の鎮護として京都伏見から勧請した稲荷神社で、倉稲魂を祀っています。また菅原道真を祀る天満神社があります。この天満神社は、もともと宿場町の北側にあったものをここに移設しています。不思議なことに天満稲荷神社とよばれ、一緒くたにされています。境内は緑が鮮やかできれいでした。池や橋もあり他にもいろんな神様が祀られています。




⑩ 土蔵

⑪ 旅籠油屋
松崎宿のランドマークとなっている旅籠油屋。復元され、無料で一般公開されています。NPO法人「文化財保存工学研究所」の事務所でもあります。
西郷隆盛が宿泊したという伝承があり、乃木希典がここで昼食をとったことが残された日記で分かっています。
写真右の建物が主屋で一般客が利用し、左の小さい方は座敷とよばれ、身分の高いお客さんが利用しました。座敷の内部は見学できませんが、入り口に門と前庭があり、三つのお座敷が縦に連なる構造をしているようです。主屋は二階が客間で一階は土間が広がり玄関のような感じです。大きな階段があり二階へ上って見学することができます。


私が訪れたときは雛人形の展示イベントが終わった翌日だったため、片付け作業でバタバタしていました。お邪魔しました。

⑫ 恵比寿像・お堂・石水盤
油屋を後にし、曲がり角を右へ進みます。すると右手に写真のようなお堂が見えます。よく分かりませんが、このお堂は八十八か所霊場巡りに関するお堂と思われます。そして右の恵比寿像。文化三年(1806)の銘からこの宿場にある恵比寿像の中で最も古いとのことです。真ん中にあるのは石水盤です。

さてこの石水盤、なぜこのような所にあるのでしょう。解説員さんの話では、天満稲荷神社の天満神社がこの北側にもともとあったので、神社の御手水として使われていたものが残ったのではないかとのことです。なるほど!ちなみにこの石水盤は石造りの遺跡としては松崎宿で最も古く、このハート形は日本古来の文様である猪目であろうとのことです。

⑬ 北枡形
さて、この枡形に見える門や土蔵は三原家という松崎の豪商の邸宅の一部です。現在は土蔵が松崎宿歴史資料館として利用されています。

⑭ 松崎宿歴史資料館
資料館として利用されている土蔵へは裏の敷地から入ります。そこには三原家のきれいな青緑色の洋館が建っています。


下の写真は油屋の看板で右が江戸時代のもの、左が明治以降のものです。江戸時代のものは「諸国 御宿 油屋喜平」とあります。喜平とは油屋の亭主です。この看板の「御宿」「油屋」の字体をそのまま現在の油屋の表看板に使っているのだそうです。そして左は油屋最後の亭主・池田喜久次の時のものです。見比べると材質や字がみすぼらしくなっていますね。最盛期を過ぎた宿場町の様子を示しているのでしょう。

⑮ 北構口
北構口に到着。やっぱり石垣は立派です!

今回の散策はここまでです。この先は国道500号線に合流し、街道は北へ向かいます。松崎宿から山家宿までの散策はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。
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