底井野往還
今回の散策は底井野往還を歩く(中間編)です。底井野往還(底井野編)はこちらをご覧下さい。
底井野往還とは何でしょうか?下の図をご覧ください。福岡藩は参勤交代の際、近道として唐津街道の赤間宿から赤間街道を通り長崎街道へ接続するルートを採っていました。その際、底井野を経由して黒崎宿へ通じるルートを底井野往還といい、現在では鞍手郡鞍手町新延の「六反田」から北九州市八幡西区の「中の原」までがそれにあたります。

底井野往還の開通は慶安年間(1648~1652)とされています。唐津街道の本宿通りに対して内宿通りともいい、古門往還・御成り道・殿様道ともよばれていました。なぜこのようによばれたのかというと、底井野には福岡藩藩主の宿泊施設である御茶屋があり、歴代の藩主はここへ遊猟のためによく訪れていたからです。そのため底井野には代官所や郡屋など藩の重要な施設が置かれ、また旅人や商人の往来も多く、商家が立ち並び近郊の村々の中心的役割を果たしました。


さて、この底井野往還を利用すると長崎街道の木屋瀬宿をショートカットすることができます。この底井野往還の利便性の高さは、木屋瀬宿にとっては大事なお客さんを失うことになりました。そこで木屋瀬宿は郡代役所に「往来之旅人底井野通り近道通路御差留」という嘆願書を出し、高札を立てて旅人を底井野往還に入らせない、赤間宿・黒崎宿は底井野を通る旅人に人馬を差し出さない、垣生・下大隈村は旅人に遠賀川を渡す船を出さないなどとしたほどです。六反田には旅人通行止めの標石も設置されたといいます。
中間 散策
底井野往還の散策ですが、遠賀川で東西の二つに分け、東を「中間」西を「底井野」とし、二回に分けて投稿します。今回は「中間」ということで、涼天満宮から遠賀川水源地ポンプ室までの散策ルートです。
① 涼天満宮
長崎街道と底井野往還の分岐点である中の原交差点。その一角に佇む涼天満宮は、その名の通り旅人がここの松の下で涼んで休憩したことによります。このあたりは高い丘の上に位置します。黒崎へ向かうにしろ底井野へ向かうにしろ、後は下り坂です。一息休憩するにはちょうどいい地点だと思います。


なお、中の原交差点から黒崎への街道散策はこちらをご覧下さい。
② 風景A
中の原交差点から底井野へ向けてスタートです。しばらくは写真のような住宅地の中を進みます。

③ 熊野神社鎮座跡
下上津役の住宅地の中に高々と立つ楠の木があります。伝説によれば神功皇后が三韓征伐を終えて帰ってきた際、この地域から多くのお出迎えがあったといいます。と同時に、次期天皇の座を巡って他の皇子が反逆を起こしていることも聞き入れます。皇后は生まれた応神天皇を次期天皇にするため、紀伊国へ潜らせ、紀伊国の熊野大神をここで祭り応神天皇の安泰を祈ったといいます。後の時代にこの熊野神社は上上津役と下上津役へ遷座され、このもともとの場所は廃れただ楠の木が立つのみとなってしまいました。

④ 熊野神社
さきほどの神功皇后がお祭りした熊野神社が後に遷座したものがこの熊野神社です。

⑤ 観慈亭
観慈亭の由来は次のようになります。明治初めの動乱の時代、大和与市という人物が暴動の首謀者として無実の罪を着せられ拷問を受けるも、観世音菩薩を祈り続けた結果、無罪放免となります。与市はその後全国の神社仏閣を巡業し、この地に観慈亭を建てます。後に四国八十八か所・西国三十三か所の石仏を多くの方から寄進されたため、境内にはその石仏が奉納されています。


⑥ 役之郷清水ヶ池古駅水
塔野小学校入口交差点の右手には田畑があり、そこへ降りていくと茂みの中に井戸とお地蔵さまがあります。役之郷清水ヶ池古駅水とは何でしょうか?役之郷とは平安時代までのこの地域の呼び名です。そしてこの役之郷は「夜久の駅」という奈良時代の官道に置かれた宿駅と関係するのではないかといわれています。そして井戸の水が清水ヶ池古駅水という地名を意味しているのでしょう。写真右下の木の根元に大正時代に建てられた地標があります。


ここの二体のお地蔵さまは道標にもなっています。そのことを知っていたため、長いことお地蔵さまを観察していたのですがわからず、大変恐れ多いながらも赤い前掛けを外させていただきました。下の写真はお堂の中の一番右のお地蔵さまです。「右 やまみち 左 くろさき道」とあり、これは下上津役と上の原の間にあったものをこちらに移設したものだそうです。「やまみち」とは朝霧方面の山越えの道を意味しています。

もう一体はお堂の外にあるお地蔵さまです。「右 あかまみち 左 やまみち」とあり、あかま道というのが妹ヶ谷の切り通しを通るルートです。最後にありがたく前掛けを取り付けさせていただきました。

⑦ 妹ヶ谷の切り通し
見通しが悪く車の離合も困難な狭い道です。交通量も多いので歩いて通るときは要注意です。

⑧ 風景B
写真は新中間病院があるあたり、筑豊電鉄の線路沿いを流れる曲川の風景です。100mほど柵沿いを歩くことができますが、これがかつての街道です。現在は「曲川源流水辺の里」として整備され、よほど水がきれいなのでしょう、五月上旬にはゲンジボタルの飛翔が観察できるのだそうです。

⑨ 太賀神社
もともとこの地域で妙見神社として崇拝されていたものの廃れてしまい、戦後に滋賀県の太賀神社から神様を合祀して現在に至ります。

⑩ 地蔵堂
蓮花寺交差点まで来ると多くの商業施設が立ち並ぶ開けた地域になります。地蔵堂はその一角にあります。街道はこの交差点でぐるりと90度方向転換し、大通りの裏道を進みます。

⑪ 法専寺
法専寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。

⑫ 梅安天満宮
菅原道真を祀る梅安天満宮ですが、梅安という地名は産安という意味でもあり、安産の神様としても崇敬されているようです。


⑬ 総社宮


⑭ 篠隈宮の鳥居
篠隈宮という神社がかつてこの鳥居の先の森にあったのですが、現在は向かいの総社宮に合祀されています。森の中には武道場が建っており、篠隈宮跡の石碑があります。


⑮ 江川橋
街道は中間市役所の裏側に通じます。写真の建物は中間市役所、橋は江川橋です。橋は江戸時代に造られた堀川に架かっています。橋を渡らず左に曲がり堀川沿いを進みます。

⑯ 唐戸の大楠

⑰ 中間唐戸水門
堀川とは一体何でしょうか。堀川とは、遠賀川の洪水によって飢えで苦しむ農民を救うために江戸時代に造られた、全長12kmの人工の運河です。写真のように堀川は遠賀川を分水して洞海湾へつながっています。堀川は令和元年(2019)文化庁によって「歴史の道百選」選出され、唐戸水門一帯はきれいに整備されています。

堀川の開削工事は福岡藩初代藩主の黒田長政と家老・栗山大膳によって実施されました。長政の死後は工事がストップしていましたが、第六代継高によって再開され、宝暦十二年(1762)に中間唐戸水門が構築され翌年に堀川は開通しました。堀川は年貢米や筑豊の石炭の輸送に利用され、明治時代には年間13万艘もの輸送船(川ひらた)が通過しました。
これらのことは先程の「⑯唐戸の大楠」辺りの堀川沿いに設置されている石板に写真やイラストで説明されています。分かりやすい説明がとても有り難いです。その一部を掲載します。立ち寄った際は他の説明板もご覧になってください。





⑱ 厳島神社
写真左のお社が厳島神社です。そこで左に曲がり笹尾川沿いを進みます。


⑲ 遠賀川水源地ポンプ室
遠賀川水源地ポンプ室は「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつとしてユネスコの世界文化遺産に登録されています。ここから11km離れた八幡製鉄所に工業用水を送水して鋼材生産量を2倍にするため、イギリス製の蒸気ポンプとボイラーが設置されました。アーチと丸型窓、イギリス積みのレンガが特徴のポンプ棟とボイラー棟の二棟からなります。


ここで散策は終了です。写真はポンプ室から見渡す遠賀川。かつては渡し場がありました。街道はここを渡り、ちょうど対岸の十五社神社から先へ伸びています。現在は遠賀橋を渡って対岸まで迂回するしかありません。

底井野往還を歩く(底井野編)は対岸の十五社神社からスタートです。最後まで読んで頂き有難うございました。
コメント