広重の描いた戸塚宿
仕事で横浜に出張した際に、空き時間を利用して東海道を散策することにしました。今回は番外編と言うことで九州から遠く離れた東海道を歩きます。
訪れたのは横浜市戸塚区にある戸塚宿。歌川広重の東海道五十三次では大橋付近の風景が描かれ、知名度も高いのではないでしょうか。左に「こめや」という旅籠・茶屋があり、中央に「かまくら道」の道標、右に大橋が架かっています。

ここで掲載する浮世絵は現在の大橋の欄干に掲示されていたものです。大橋は広重の浮世絵で戸塚宿を象徴する橋になりました。広重が描いた東海道五十三次には版が幾つかあり、この絵は初期版です。再刻版は馬から降りる人物の姿勢が変わっていたり、こめやに壁が付いていたりと違いが見られます。
次の絵は佐野喜版で狂歌が入っています。天保11年(1840)頃の絵です。戸塚宿は高低差が40m程ある丘陵地の底部に位置します。東に品濃坂、西に大坂という坂道に囲まれた戸塚の様子はこれらの絵からもよく分かります。

戸塚宿は日本橋から約40km、東海道の五番目の宿場町に当たります。戸塚は朝に江戸を発った当時の旅人が最初に宿泊するには最適の距離にあり、また鎌倉や大山へ向かう分岐点でもあったため、大変な賑わいを見せました。

戸塚宿の成立は、慶長9年(1604)で、隣宿である藤沢宿、保土ヶ谷宿の成立から三年遅れています。それは元々宿場町がなかった戸塚が利便性で賑わい、戸塚宿が創設されることで客が奪われることを恐れた藤沢宿が猛反対していたからです。
天保14年(1843)頃に作成された東海道宿村大概帳によると、宿内の人口は2900人余、家数613軒、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠75軒で、東海道五十三次の宿場の中では10番目に宿泊施設の多い宿場町でした。戸塚宿は二つの見付跡に挟まれた約2.2kmの範囲で、現在も戸塚区の中心地として賑わっています。

戸塚宿 散策
散策の起点は保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置する「品濃一里塚」、終点は戸塚宿の西側出入口に当たる「上方見付跡」としました。全長約6.2km、始点から戸塚宿までは約4km、戸塚宿が約2.2kmです。宿場町は現在も町の中心地であり、都会の風景が広がりますが、それまでは山沿いの住宅地を進みます。街道は残っていますが白壁の家屋など古い建築物は失われています。人も車も多いですが寺社も多いです。よくよく散策すればもっと多くの歴史的な遺構を見て回れると思います。
東海道は長崎街道と比べて認知度が高く、歴史散策やウォーキングとして実際に歩けるように案内板や道が十分に整備されていました。インターネットの情報も充実しています。今回の投稿がそんな情報に埋もれてしまわないよう、自分の目で見て感じたことを書いていきたいと思います。
① 品濃一里塚
スタート地点となる品濃一里塚へ向かうには、JR東戸塚駅から東へ坂道を800m程上って行かなければなりません。そこでJR東戸塚駅東口にある西武デパートやオーロラシティ、イオンスタイルといったショッピングモール内を通り、エスカレーターを利用して上ることをお勧めします。登って歩道橋を渡った先が東海道で、そこから品濃一里塚まで北へ300m程です。

さて、この品濃一里塚は道の両側にある塚がほぼ当時の形のまま残っています。このような一里塚は神奈川県内でもここのみだそうです。写真では、道を挟んで右が西で、かつては榎が植えられていたようです。西の塚へは登って行くことができます。因みに西が品濃町、東が平戸町でちょうど街道がその境になっています。

② 品濃坂
品濃一里塚から南へ630m程進むと品濃坂が始まります。高低差約40mの急坂で途中、環状2号線を渡す歩道橋を通ります。今回は下りなのでラッキーです。

道路も舗装され階段や手摺など整備が行き届いています。かつての難所も今はそこら辺の坂道と大差なく感じるでしょう。案内表示がしっかり出ているので迷うことなく下りて行けます。

③ 王子神社
さて、次の王子神社までは約2kmです。この間、住宅地を進み、柏尾川を渡って国道1号線に合流。王子神社は柏尾町の丘陵部分にあります。入口の鳥居は国道1号線側にはなく、丘陵部へ向かう写真のような細い道を進んで行きます。社殿は国道を背にして立っている形です。

御祭神は後醍醐天皇の子・護良親王です。鎌倉幕府打倒に功績を挙げましたが足利尊氏との抗争に敗れ、鎌倉に幽閉された後、足利方の家臣によって殺されました。従者が護良親王の首を洗い清め、密かにこの地に埋葬したと伝えられています。

護良親王は父・後醍醐天皇の理想を実現するために尽力したにも関わらず失脚しました。殺された時の様子が凄惨であったことから怨霊になったと伝えられています。鎌倉にある鎌倉宮はその魂を鎮めるために建てられました。

④ 不動坂
国道1号線に復帰後、100m程進んだ所から東側へ続く細い道があります。これを進んで行くと柏尾追分不動尊というお堂があります。今回は気付かず立ち寄れなかったのが悔やまれますが、このお堂から大山へ道が続いていました。大山は神奈川県伊勢原市の北に聳える1252mの山で、古くから山岳信仰が盛んな所です。大山祇大神を祀る阿夫利神社と真言宗の大山寺があります。江戸時代には大山詣でが盛んに行われました。
国道1号線に戻って進むと不動坂と呼ばれる道を進みます。写真の矢印の道です。柏尾追分不動尊から不動坂と名付けられたのでしょう。因みに柵からはみ出すように立っている木は、今上天皇の御成婚を祝って王子神社の氏子によって植樹された桜です。

⑤ 首洗い井戸
街道から若干外れますが、首洗い井戸があります。住宅地の中にあって分かり辛いですが、先述の王子神社の御祭神・護良親王の首を洗い清めたと伝わる井戸です。

⑥ 鎌倉ハム倉庫
街道を歩いていると赤煉瓦造りの建物を発見。何も案内板がなかったのでその時は分かりませんでしたが、これは鎌倉ハムという大正時代に建造された倉庫であることが分かりました。因みに煉瓦の長い面だけを並べた列と短い面だけを並べた列が交互に積み上げられたイギリス積みです。

明治7年(1874)にイギリス人ウィリアム・カーティスがこの地でハムの製造を始め、横浜で外国人相手に商売を始めました。また、カーティスは柏尾町の大庄屋の齋藤氏へハムの製法を伝授します。これが評判となり齋藤氏は商売を拡大。柏尾町は鎌倉ではありませんが、鎌倉ハムと呼ばれるようになりました。これが現在も続く創業明治20年(1887)の老舗ハム屋「鎌倉ハム」の起源です。

因みに先程の王子神社から国道へ戻ってくるときに白壁の建物があったのを記憶しています。写真に収めていなかったのが悔やまれますが、これはカーティスが外国人向けに建てたホテル白馬亭の土蔵であることが分かりました。
⑦ 宝蔵院
宝蔵院は鎌倉ハム倉庫から490m程進んだ国道1号線沿いにあります。この辺りで柏尾町から吉田町へ入ります。宝蔵院は真言宗の寺院で、天文16年(1547)に東峰山光圓寺として中興され、本堂を宝蔵院と称しました。その後現在地へ移転しました。御本尊は不動明王で、境内には地蔵堂や日本舞踊芸道精進の扇塚などの石造物があります。


⑧ 江戸方見付跡
さあ、いよいよ戸塚宿にやって参りました。長崎街道の宿場町の出入口は石造りの構口や木製の戸口である木戸が一般的ですが、東海道の宿場町の出入口は見付と言い、江戸方面を江戸方見付、京都方面を上方見付と呼びました。松や楓が道を挟んだ両側に植えられていたようです。参勤交代でやって来る諸大名を宿役人はここで出迎えました。

⑨ 東峯八幡宮
ここで寄り道です。東峯八幡宮と明秀寺へ立ち寄るため、元町交差点を東へ進みます。370m程で東峯八幡宮に到着です。
八幡宮ですので御祭神は応神天皇。永久2年(1114)に創建され、明和2年(1765)に現在地へ遷座しました。吉田町の鎮守の神社です。源義家が奥州へ赴く際、拝殿前にある椎の大木に馬を繋いだと言い伝えがあります。

参道が特徴的で、他より一段高く石が積まれた段葛と言う形式になっています。これは鎌倉の鶴岡八幡宮が有名です。

参道や境内には多くの青面金剛の石像がありました。青面金剛は九州より関東に多いことは知っていましたが、今回の散策で実際にそれを確かめることができました。青面金剛はインド密教の鬼神なのですが、中国の道教に影響を受けた日本の庚申信仰と結び付き、庚申講の本尊とされました。

庚申信仰とは、人間の体内には三尸という三種類の悪い虫が棲んでいて、寝ている間にその人の悪事を全て閻魔大王に報告しに行くため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、人々は眠らずに集まって、徹夜で過ごすというものです。
この時、青面金剛が三尸の活動を抑えてくれると信じられたのです。また、一年間に七回庚申が訪れる年を七庚申の年といい、特別に塚や石塔を建立し、盛大に庚申会を行ったと言われています。散策中に見かける庚申塔はその時のものです。

私が九州北部の街道を散策中に、庚申尊天と文字が刻まれた石塔は沢山見てきましたが、青面金剛を象った石像に出会ったことは今の所ありません。逆に今回の散策に限ってですが、一度も恵比須像を見かけませんでした。佐賀ではやたらと恵比須像を見かけますが、これも地域の特色なのかもしれません。

⑩ 明秀寺
明秀寺は日蓮宗の寺院で、境内には冒頭で紹介した広重の「戸塚 元町別道」に描かれている「かまくら道」の道標が移されて残っているのですが、何も知らなかったので見逃してしまったのは惜しいです。是非立ち寄った際は探しましょう。

⑪ 大橋
さあ、大橋に到着です。ここで広重の「戸塚 元町別道」と比較してみました。様変わりしましたね。


当時の大橋は長さ18.2m、幅4.6mの板橋で、現在の大橋は昭和61年(1986)に架け替えられました。街灯は大名行列が持つ馬簾を模しているとのことです。

⑫ 善了寺
善了寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。天福元年(1233)江戸麻布にある善福寺の了海の弟子・了前が開山しました。見た目が寺院っぽくなく斬新です。御本尊は阿弥陀如来で親鸞上人の教えを広めた蓮如上人の作と伝えられています。

JR戸塚駅まで来ると写真のように線路を渡すデッキがあるのでこれを渡りましょう。以前は大踏切があり渋滞の原因だったようです。平成27年(2015)に踏切は閉鎖されました。デッキ下に戸塚大踏切の想い出写真が掲示してありました。

⑬ 清源院
デッキを渡ると清源院入口交差点まで進みます。写真は交差点に向かう風景で完全に都会です。交差点を左に進むと東海道ですが、清源院に行きたいので直進しましょう。

清源院は浄土宗の寺院で、徳川家康の側室であった於万の方が、静岡にある駿府城で家康が病に伏しているとの知らせを受けて見舞いに駆けつけた時、喜んだ家康が於万の方に授けた阿弥陀如来像を安置するために建てられました。清源院の名は於万の方の法号から取られています。於万の方は寺の墓地の最上部で火葬されました。

⑭ 澤邊本陣跡・羽黒神社
澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣の内の一つです。本陣とは大名や幕府の高官が宿泊する施設です。明治天皇も行幸でここに宿泊されています。この本陣が創設された時の当主は澤邉宗三です。宗三は戸塚宿の開設を幕府に強く働きかけた功労者として知られていますが、この澤邊家は元々戸塚の在地の実力者でありました。

本陣の裏にある羽黒神社は、宗三の父信友が弘治2年(1556)に羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。戸塚宿の鎮守の神社です。羽黒神社の羽黒とは東北地方の出羽三山の一つ、羽黒山のことです。この三山への信仰は古くから盛んで、各地にある羽黒神社はこの御分霊を勧請したものです。

澤邊家は戦国時代に小田原北条氏の家臣でした。信友の父が戦死した後、幼い信友は出羽の国に逃れました。ここで羽黒神社や山伏との交流があったと言われています。再び北条氏の基に戻り、戸塚の盟主となった信友は世話になった出羽での恩義に報いるため戸塚に羽黒神社を創建しました。
東海道の利便性とそれを活かした信友の力により、戸塚は大きく発展。宿駅としては十分な規模であったと言われていますが、宿場として幕府の公認を得るとそれに見合った負担金が課せられました。澤邊家がその負担逃れを意識していたかは分かりませんが、藤沢宿側が戸塚が不正に宿駅営業をしていると訴え、一時幕府から宿駅業務を行ってはならないと命令が下されています。そこで澤邊宗三が各方面に働きかけ、宿駅として公認を受けたのです。戸塚宿はこうして名実共に誕生しました。
⑮ 八坂神社
戸塚宿の鎮守の神社である八坂神社は、牛頭天王を勧請して元亀3年(1572)に創建されました。因みに、神社脇は東海道と鎌倉道が交差しており、高札場が立られていました。

ここで全国の八坂神社と信仰を簡単にまとめさせて下さい。八坂神社の総本社は京都市東山区にあり、祇園神社・素戔嗚神社・須賀神社と呼ばれる神社も同様です。御祭神は須佐之男命ですが牛頭天王と同一の神様とされています。そして御神徳は主に厄除け、伝染病除けです。
戸塚宿の八坂神社も「お札まき」という毎年7月14日に行われる厄除けを祈願する夏祭りがあります。これは十数人の男子が女装して踊り、五色の神札をまき散らすというものです。人々はこれを拾って家の戸口に貼るのだと言います。実はこれが須佐之男命にまつわる蘇民将来説話とそっくりなのです。

蘇民将来説話とは次のようなものです。旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなしました。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて(一般的な説では弟の将来の一族を)皆殺しにして滅ぼしました。武塔神は自らを須佐之男命と名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたというものです。
この説話が受け継がれ、人々は自身が蘇民将来の子孫であること記した護符を家の戸口に付けて厄除けとしました。茅の輪潜りや戸口にお札を貼る行為は八坂神社のお祭りや信仰に共通なのです。
⑯ 冨塚八幡宮
冨塚八幡宮も戸塚宿の鎮守の神社です。御祭神は応神天皇と富属彦命。社殿後方に富属彦命の古墳があり、これを富塚と呼んだことから戸塚の地名が発祥したと伝えられています。前九年の役で源頼義・義家の親子が奥州へ赴く際に、この二柱の神々から御神託を受け、その加護で戦功を立てたことを感謝して延久4年(1072)に建造されました。

⑰ 上方見付跡
散策の終着地点に到着です。京都方面の上方見付跡は京都に向かって左に松、右に楓が植えられ、写真のように石で囲まれています。

最後まで読んで頂き有難うございました。
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