赤間宿

唐津街道

唐津街道の分岐点

豊前小倉から肥前唐津を結ぶ唐津街道。赤間宿はその唐津街道の宿駅であり、筑前福岡藩領内にある「筑前27宿」のひとつです。場所は現在の福岡県宗像市に位置し、江戸時代から明治・大正にかけては宗像郡一帯の中心的な町として栄えました。赤間は古くは赤馬と書きました。神武東征の際に、八所宮の神が赤い馬に乗って神武天皇を迎えたことによります。

さて、下の写真は「街道の駅 赤間館」の展示から撮影したもので、唐津街道とその宿駅を示しています。赤間宿は木屋瀬こやのせ宿という長崎街道の宿駅と繋がっているのがわかります。この赤間から木屋瀬間のルートを中筋往還とよび、赤間宿は街道の分岐点として多くの通行人で賑わいました。

赤間宿から長崎街道へ接続

地理的には、周辺の漁村から三里離れた扇の要のような位置にあるため「七浦三里」といわれ、これら七浦への物資や魚の集散地としての役割を果たしました。

七浦三里

城山ふもとの宿場町

宿場町の構成としてはおおまかに次の通りです。南に釣川を渡す辻田橋があり、その先に宿場町の出入り口である構口があります。そこから先は商家が立ち並ぶまっすくで緩やかな坂道が600mほど続きます。それはこの宿場町がそばにある城山じょうやまのふもとに形成されていることによります。須賀神社あたりで街道は分岐し、東へ進むと中筋往還です。北へ進みJR教育大学駅あたりまでがかつての宿場町です。次の芦屋へは城山を越えていくことになります。

城山

町は現在でも多くの白壁の家屋が残され、かつての雰囲気を感じることができます。道幅も当時とあまり変わらないので現在は対向車との離合がギリギリです。私が訪れたのは6月19日でちょうど「あじさい祭り」が開催されていたため、人出が多く車の交通量も多いため気を付けて散策しました。

あじさい祭り中の宿場町の風景

五卿・出光佐三

今回散策して知った赤間宿ゆかりの歴史が二つあります。先ほど同様、下の二つの写真も「街道の駅 赤間館」の展示から撮影したものです。ひとつは、赤間は幕末に都落ちしたいわゆる五卿(もともとは七卿)が宿泊した地であること。もう一つは明治以降、石油業界で有名な出光産興の創業者・出光佐三いでみつさぞうの生家があったことです。

七卿西国行之図
出光佐三

赤間宿 散策

今回の散策は南の辻田橋から宿場町を通り、北のJR教育大学駅までです。最後に中筋往還の七社宮を観てきました。白壁の家屋が多く残る宿場町ですので、それらを多く紹介していきます。梅雨入り直後でしたが晴天に恵まれ、あじさい祭りできれいな花が町に彩を与えていました。こんな幸運に恵まれたことを感謝しながら歩きました。

① 赤間宿石碑

釣川沿いにある公園に建っている「唐津街道 赤馬宿」石碑。ここでは赤馬となっていますね。この川の土手道は散歩道になっています。緩やかにカーブする辻田橋を渡ります。

赤間宿石碑
辻田橋

② 追分石・一番定石

二つの石柱が建っています。右は「此方鞍手郡山口道 此方畦町道」と刻まれており、道標を表す追分石です。左は「自是下田久鎰分之内迄このしたよりたくかぎわけのうちまで八百六十一間 自是洲口波打際迄長これよりすぐちなみうちぎわまでながさ五千四百廿間 一番自此下川中いちばんこのしたよりかわはば五間半 寛政三亥辛亥かのとい四月定」と刻まれており、一番定石といいます。

釣川は氾濫しやすい暴れ川だったため江戸時代に大規模な治水工事が行われました。寛政三年(1791)川底をさらって土砂などを取り去る「川底浚い」がここ辻田橋(田久)から河口(江口)にかけて10ヵ所で行われました。その間およそ9㎞です。この石柱はその時行われた川底浚いの一番目の場所を示しています。当時の人々の苦労がしのばれます。

追分石・一番定石

③ 大師堂

お堂の前の石柱には「宗像四国弐拾四番」「土佐国東寺霊場」とあります。宗像版八十八か所巡りがあるのですね。左の石像は修行大師です。

大師堂

④ 西構口

この赤間構口交差点に宿場の出入り口にあたる構口があり、旅人を監視していました。その遺構は何も残っていません。

西構口

⑤ 石松邸

石松邸の屋号は蔦屋です。妻側の屋根が二段に切り上げられており、これを兜造りといいます。また一階部分の扉は木造の格子に板を張り付けた蔀戸しとみどとよばれるものです。蔀戸は上と下の半分に分かれており、上半分を天井に張り上げて金具で止め、昼間に光を取り入れます。このような宿場町の商家の場合は、販売する商品や中で職人が作業している様子が通りから見えるようにするため蔀戸が採用されました。江戸時代の特徴を残す貴重な建物です。

石松邸

⑥ 吉田邸

吉田邸は明治初期の建物で、戦前まで家具の製造販売をしていました。二階の窓横に「儀」の鏝絵こてえがあります。

吉田邸

⑦ 辻井戸

辻井戸とは、旅人や馬に飲み水を供給するためのもので赤間宿には七か所ありましたが、現在はここと須賀神社入り口の二か所のみが残っています。

辻井戸

⑧ 今井神社

鳥居は細い木造で質素な感じです。参道では大木が通せんぼしています。

今井神社

⑨ 萩尾邸

江戸後期の建物で、明治二十一年(1888)こんにゃく製造を始めました。

萩尾邸

⑩ 勝屋酒造

勝屋酒造は寛政二年(1790)に隣の三郎丸という地域で創業し、明治六年(1873)筑前竹槍一揆で打ち壊しに遭ったのち、この地に移りました。筑前竹槍一揆とは明治政府による急激な中央集権的改革と大干ばつによる米価高騰によって民衆の不満が爆発した大暴動です。福岡県全域に広がり、県庁が焼き討ちになりました。

勝屋酒造

入り口には「ならの露」の看板が掛かっていますが、これは宗像大社に捧げるご神酒の銘柄で、勝屋酒造はその醸造元です。主屋と煙突は国の有形文化財に登録されています。店内に入ることができ、酒林は軒先だけでなく中にもありました。奥まで深く続く長屋はまさに宿場町の家屋の特徴ですね。驚いたのは歴代総理大臣の「國酒」と書かれた色紙が入り口に飾ってあり、国家や神様との関係を感じました。毎年二月が酒蔵祭りです。ぜひ立ち寄ってみてください。

店内の様子
店内の様子
岸田総理大臣の色紙

⑪ 街道の駅 赤馬館

赤間宿の商家の特徴「兜造り」を再現した観光案内施設です。特産品の販売や喫茶コーナー、宿場町の歴史を伝える展示があります。下の動画はあじさい祭りのイベント「日向ひょっとこ踊り」です。店内には井戸があり、あじさいできれいに飾られていました。【入場無料/開館時間:10~17時/休館日:月曜日】

街道の駅 赤馬館
日向ひょっとこ踊り
あじさいと井戸

⑫ 浄万寺

赤間館から西側の通りを進むと見えてくるのが万浄寺です。山門や鐘楼、本堂などとても立派な浄土真宗本願寺派の寺院です。

浄万寺

⑬ 猿田彦神社

猿田彦神社

⑭ 枡屋

お菓子の製造・卸・小売り販売を続けたお店です。内部にはお菓子の製造に利用されたレールがありこれは大変珍しいそうです。壁に枡屋の看板が掛かっていますね。

枡屋

⑮ 出光万兵衛生家・蛭子屋

写真の左にある木造の茶色い建物が出光万兵衛いでみつまんべえの生家です。彼は明治十五年(1882)に赤間に生まれます。海軍兵学校へ進み、海軍少佐となります。英国に駐留後、海軍中将にまで昇進。海軍兵学校の校長、舞鶴要港司令官を務めた戦時の赤間の英雄です。

右の白壁の建物は筑前竹槍一揆で襲われた赤間宿内三軒のうちの一軒で、醤油・酢・味噌などを製造し、両替・質屋・荒物業を営んでいました。屋号は蛭子屋で、兜造りの家屋は赤間宿内で最も古い建物です。

出光万兵衛生家・蛭子屋

⑯ 出光佐三生家

出光興産の創業者である出光佐三の生家です。郷土愛が強く地域振興に物心両面で尽くされた方です。

出光佐三生家

⑰ 五卿西遷の碑

幕末に攘夷派の五卿は京都から長州を経て筑前太宰府へ移されることになります。五卿は黒崎湊から筑前入りし、赤間宿の御茶屋で二十五日間滞在しました。写真の奥にネットが見えますが、これは城山中学校のグラウンドで、かつてはここに御茶屋がありました。御茶屋とは本陣ともいい、参勤交代で黒田のお殿様が宿泊する施設です。五卿はここを利用したのですね。

五卿西遷の碑

写真は赤間館に展示してあった五卿の一人・三条西季知さんじょうにしすえともの和歌扁額です。ひょろひょろとした字体はとても特徴的ですね。和歌の学問「歌道」の宗匠である彼が書いたのであるからには、これが美しいということなのでしょう。

三条西季知の和歌扁額

⑱ 法然寺

黄色い塀が取り囲む姿が印象的な浄土宗の法然寺。浄土宗の開祖・法然上人の弟子である幸阿上人が圓光大師(法然上人)の白骨を首にかけ、九州に下り、この地に白骨を埋めて草庵を結び、圓通院と名付けたのが法然寺の始まりです。建物は天正三年(1575)慶春という僧が圓光大師の霊夢によって築いたといわれています。出光佐三が法然寺の山門を追加・寄贈しています。

法然寺

⑲ 追分石

法然寺から北へ進むと須賀神社の石鳥居があり、ここが中筋往還への分岐点となります。写真中央に見える石柱が追分石で、「従是右木屋瀬これよりみぎこやのせ 従是左芦屋これよりひだりあしや」と刻まれています。

追分石
追分石

⑳ 節婦お政の碑 石松林平・伴六の碑

須賀神社の参道の左に大きな石碑が二つあります。写真がその石碑で右は「節婦お政の碑」です。赤間村に住む政という娘は、父が決めた許婚いいなずけと経済的な理由から結婚できず、勝浦村の富豪の子息の求婚との挟間で思い悩み、享和元年(1801)に18歳で自害したのを悼み建てられました。江戸時代の人々はお政の道徳的で清らかな心に同情や共感を寄せていたのですね。時代や社会・価値観が一変した現代人はお政の死をどう捉えるでしょうか。死ぬほどのことかと笑い飛ばす人だっているかもしれませんね。

節婦お政の碑 石松林平・伴六の碑

左の碑は石松林平・伴六の碑です。徳重村の豪農石松家十代目の石松林平は、質素勤勉倹約、荒地を開墾植林し、農業全書を配るなどした篤農家です。安政の初めには許斐山頂に鐘を引き上げ時を報じさせました。従兄弟で義弟の石松伴六は五卿が赤間滞在中ねんごろに尽くしました。

林平・伴六に共通するのは人のために力を尽くしたことではないでしょうか。人間は自分中心の利己的な生き方ではなく利他的な生き方が素晴らしく尊いという価値観が当時の人にあったということを石碑は示しています。そのような生き方は当時の人でも難しかったからこそこうして称えているのです。

本当に大切なことは何か、何が幸福なのか現在も二つの石碑は私たちにひっそりと問いかけているようです。

㉑ 須賀神社

7月には祇園祭が行われる赤間宿の氏神社。入口の鳥居には辻井戸があり、赤間宿に現存する二つの辻井戸のうちの一つです。

須賀神社
辻井戸

㉒ 九州鉄道眼鏡橋

明治時代の私設鉄道会社「九州鉄道」が建造したレンガ造りの眼鏡橋。現在はJRにとって代わり橋は削られ一部を残すのみとなりました。九州鉄道の路線はおおかたJRにも引き継がれたため、このようなレンガ造りの橋や遺構は現在のJR線沿いでいくつも見かけます。JRを利用するときは探してみると面白いですよ。

九州鉄道眼鏡橋

㉓ 七社宮

散策の最後は、須賀神社から中筋往還を少し進んだ七社宮ななやしろぐうです。古墳の上に建てられており、飛鳥時代の674年には七柱の神々をお祀りして七社宮となりました。階段を上ると神楽殿も兼ねる拝殿があります。そのさらに上に続く階段を上ると本殿があります。ふつうは拝殿・本殿はこのように離れていないので珍しく感じました。

七社宮の鳥居
七社宮本殿

また東隣には徳満神社があり、大国主命の相棒で国づくりをしたスクナビコナをお祀りしています。スクナビコナは小人で一寸法師のモデルともいわれ面白い神様です。

徳満神社

最後まで読んで頂き有難うございました。

参考

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