松崎~山家 散策
今回の散策は薩摩街道の松崎宿から長崎街道の山家宿までの散策です。松崎宿・山家宿につきましてはこちらをご覧ください。
街道はおよそ10kmの平坦な道で、参勤交代で九州南部の諸大名が利用しました。途中、筑後国から筑前国へ国境を跨ぎます。また、石櫃というところで薩摩街道は日田街道と接続し、日田街道は山家宿で長崎街道に接続します。街道は田畑の広がるのどやかな風景が広がり、車の往来が激しい県道からひとつ離れた田舎道です。
途中で訪れた各地域の神社には天満宮が多かったのが驚きでした。天神信仰の篤い地域なのかもしれません。
時は四月下旬、最高気温25度という汗ばむ暑さの中での街道散策となりましたが、青空と山や田畑の緑が映える晴天に恵まれ、鮮やかな風景に思わず写真を撮り続けていました。

① 松崎宿北構口
写真の北構口からまっすぐ進むと国道500号線に出ます。横断歩道を渡って北へ続く細い道を進みます。


② 霊鷲寺
霊鷲寺は臨済宗南禅寺派の寺院です。松崎藩藩主・有馬豊範が延宝八年(1680)に三潴郡西牟田からこの地に移し、菩提寺としました。勅願寺で格式が高く、参勤交代の大名も駕籠や馬から降り、礼拝して通過したといいます。


本堂の裏には稲次因幡のお墓があります。享保十三年(1728)不作や税制の変更により負担の増えた農民が一揆をおこしました。久留米藩の家老・稲次因幡(27歳)がこの対応にあたり、おおむね農民の要求に応じたため一人の犠牲者を出さずにこの一揆を収めました。しかしながら、稲次因幡はほかの老中や藩公から激しい批判を浴び、幽閉され、元文元年(1736)疱瘡にかかって35歳で亡くなりました。農民は彼の死を悲しんだといいます。

③ 風景A

④ 立石国民学校奉安殿
立石中学校のそばに奉安殿があります。これは戦時中の立石国民学校の敷地内にあったものです。奉安殿とは天皇陛下・皇后陛下の御真影と教育勅語を納めた社殿風の建物で各学校に建てられました。生徒は登下校の際に最敬礼して通っていました。戦後GHQの命令で処分されていきましたが、この奉安殿は立石村役場の金庫として使用されたため残り、現在は写真のような形で保存されています。

⑤ 一里塚跡
この一里塚は早くも江戸時代中期には原形を失うほど廃れていたようです。

⑥ 赤松病院
干潟という地域に入ると赤松病院が見えます。赤松病院は昭和初期から現在まで続くこの地域の病院です。写真奥の洋館が昭和初期からの病棟で現在は修復工事が行われています。戦時中に大刀洗の陸軍飛行場ができ、院長は飛行場関係の嘱託医でした。当時は赤松外科病院といい規模もずっと大きく、傷病兵でごったがえしたといいます。

ちなみに干潟という地名の由来は何でしょうか。海岸にできる干潟と関係ありそうですが、実はこの辺りは標高20mの台地であり干潟はできません。「ひがた」ではなく「ひかた」と読むことから、実は花立山の別名・日方山によるものだといわれています。
⑦ 干潟阿蘇神社
干潟阿蘇神社には生目神社・祇園神社があり、境内には他にも梵字石・猿田彦大神・恵比寿像などがあり見どころ満載です。


⑧ 野越堤
干潟から乙隈へ向かう際、草場川を渡りますが、この川の手前にあるのが野越堤です。江戸時代に造られたこの堤は、上は街道、下は野越しという機能を持っていました。野越しとは、草場川が氾濫した際、洪水を一時的にせき止めて溢れた水を下流へ少しずつ流す堰のようなものです。久留米藩が石工集団に命じて花立山古墳の石室に使用されていた花崗岩の石を利用して構築したといわれています。平成二十八年(2016)に発見されたこの野越堤は、街道と野越しの機能を兼ね備えたものとしては九州初でした。

⑨ 乙隈城跡
乙隈交差点から坂を登り、街道から左へ外れたところにあるのが乙隈城跡です。案内板によると、正安二年(1300)鎮西探題を任された北条光時がここに居城を築き、戦国時代には龍造寺隆信がこの地に勢力を延ばして支城を築いたといわれています。

⑩ 乙隈天満宮

⑪ 国境石
筑後と筑前の国境を示す二つの国境石。左が「従是南筑後国」で久留米藩が、右が「従是北筑前国」で福岡藩がそれぞれ建てました。どちらも2mくらいの堂々とした大きさです。街道のカーブするあたりに突如このような立派な石柱が見えるため驚きました。その向かいには榎の切り株があります。これも国境を示すものだったといわれていますが、切られてしまっているのは残念でした。ちなみに現在はこの国境石が小郡市と筑紫野市の境になっています。


⑫ 馬市天満宮

⑬ 風景B

⑭ 水神社
水神社のそばには橋や川を建設・工事した記念碑が建っています。この先は田畑の広がる見晴らしのいい平野に出ます。しかしながら、街道は田畑の耕作地として開発された結果、消滅してしまいました。仕方ないので田畑の区画に沿って歩きこの平野を通過します。


⑮ 東小田峰遺跡
田畑のど真ん中にあるのが東小田峰遺跡です。この遺跡は弥生時代を中心とする一大拠点集落で、竪穴住居跡457軒、甕棺墓532軒が見つかっています。また朝鮮半島系の土製の鋳型が見つかっていることから、この地が内陸ではあるものの玄海灘沿岸の地域に匹敵する先進的な生産地域であったと考えられています。

⑯ 風景C
街道は写真の地点で再び復活します。この交差点の一角に真言宗醍醐派・岩磨山教会という建物があり、その敷地内に二つの石の彫刻物がありました。一つは猿田彦大神なのかもしれませんが読み取れませんでした。


交差点をまっすぐ進むと住宅地の狭い一本道が続きます。これもまたどこか古い面影を残し緑も映える素敵な道です。正面に見えるのは砥上岳です。

⑰ 丸町天満宮

⑱ 風景D
いしびつ交差点を直進し、写真のV字路に出ます。ここを左にまっすぐ進みます。

⑲ 石櫃の追分石
写真はV字路を突き当りまで進んだ地点です。右に追分石があり「右 肥後 薩摩道」「左 豊後 秋月 甘木道」と彫られています。薩摩街道はここが起点・終点であり、日田街道と接続します。山家宿に向かうため左へ進みます。


⑳ 石櫃天満宮
石櫃天満宮の入り口は中津屋幼稚園の入り口にあり、幼稚園の敷地を通ってお社まで行くことになります。参道には道真公の大きな石像がありました。



㉑ 古市彦大夫の墓
古市彦大夫の墓は中牟田という地域にあります。案内板によると、この地域は農業用水の確保に苦労しており、応永十一年(1404)この地にやってきた税田小四郎は山家側から水を引くため若宮井手を築きました。江戸時代には古市彦大夫がこの若宮井手の水量をかさ上げする大改築をし、中牟田のさらに下流の地域まで水が届くようにしました。こうして彦大夫は村の恩人として語りつがれています。

㉒ 風景E
写真は蔵役交差点を過ぎた辺りにある猿田彦大神や恵比寿像です。日田街道にはこうした道祖神の石像をよく見かけます。


㉓ 間片交差点
追分石や山家宿の関番所やあったと伝えられている間片交差点。お店の左の細い道を進みます。

㉔ 山家宿西構口
散策の終着地点に到着です!山家宿はこちらをご覧下さい。最後まで読んで頂き有難うございました。

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