佐賀藩の支藩・蓮池藩
佐賀市の中心部から東へ約5km離れた蓮池町。田圃が広がりクリークが巡らされた長閑なこの地域に佐賀藩の支藩の一つ、蓮池藩がありました。
佐賀藩は肥前を支配していた龍造寺氏の跡を継ぐ形で、家臣である鍋島氏が立藩した経緯があります。そのため同じ藩内であっても竜造寺系の勢力を牽制する必要があり、支藩を設けたと言われています。

三支藩の創設は慶長14年(1609)に鹿島藩(2万石)、元和3年(1617)に小城藩(7万石)、寛永16年(1639)に蓮池藩(5万石)です。
これらの三支藩は寛永19年(1642)から大名として扱われたため、参勤交代や手伝普請(幕府が命じた城の建設などの大規模な土木建築工事)などの負担を強いられ、藩の運営は厳しいものだったようです。
初代藩主は鍋島直澄で、佐賀藩初代の鍋島勝茂の三男に当たります。島原の乱では佐賀勢の総指揮官として功を挙げた人物です。

明らかになって来た蓮池城下
蓮池「城」と言えど、立派な城郭があったのは江戸時代に一国一城制が敷かれる前のようです。
中世にこの地を治めた小田氏。その城跡を鍋島直茂・勝茂父子が整備し、天守付きの城郭を造ったと言います。一国一城制により廃城となった後、直澄はこれを改修して陣屋(御館)としました。現在の蓮池公園です。
蓮池公園内にある蓮池神社は歴代藩主をお祀りしていましたが、現在は社殿の老朽化により解体されています。

それでは蓮池城下町はどのような姿だったのでしょうか。写真は2016年に発見された蓮池城の古地図で、全貌が次第に分かって来たようです。
蓮池城は佐賀江川が南へ突き出したように蛇行する部分に築かれ、大曲・小曲などと呼ばれていました。現在は河川改修工事により真っ直ぐな河川となっています。
ここには大きな港があり、藩主はこの港から筑後川・有明海を通って蓮池藩の所領である塩田へ赴いたと言います。

城下町は城へ通じる東西の魚町、そこから南北へ通じる本町、八坂神社から東西へ続く神崎町・城原町で主に構成され、こうして四方を町で囲んだ中心に武家屋敷がありました。
城下町の北側は見島、南側は諸富という地域になります。かつての城下町は住宅地と化し閑散としてはいますが、古い家屋や寺社が多く残り、割と面影を留めています。

なお、蓮池藩に並ぶ三支藩一つ、鹿島城下の散策はこちらをご覧下さい。
蓮池城下 散策
長崎街道の境原宿から南へ蓮池往還が続いていました。今回は、蓮池往還の起点を境原宿の西原の町交差点と設定し、散策の始点としました。蓮池城下町を散策後、南方からの蓮池往還ルートと思われる諸富町大堂の風景を最後に見て回りました。
蓮池往還の正確なルートについては現時点で調べた所、分かりませんでした。インターネット上の数少ない断片的な情報を基に記述しておりますので、ご了承下さい。
① 境原宿 西原の町交差点
蓮池城下へ続く蓮池往還の起点を厳密に言うならば、境原宿の中心地、現在のニューきたばる店前の交差点です。しかしそこから進んで行くと突き当り、道は消失。結局、隣の県道48号線を歩いて向かうことになります。ニューきたばる店前の交差点や境原宿についてはこちらで紹介しておりますので、ご覧下さい。
今回は、境原宿から県道48号線と接続する西原の町交差点を蓮池往還の始点として散策を開始します。

写真は県道48号線の風景で、蓮池城下町へ向かっています。おそらくですが、左手の田圃や民家の間を道が続いていたのではないかと推測しています。ここから次の見島まで1km程真っ直ぐ歩きます。

② 見島の風景
県道48号線から東へ進み民家のある方へ進んで行きます。田圃の中を進み城下町へ。この辺りが蓮池町見島です。

早速、折れ曲がった道を発見。宿場町や城下町などで特徴的な鉤型(枡形)の道です。角には恵比須像もありました。

③ 神崎町・城原町の風景
写真は八坂神社の鳥居前です。ここで再び鉤型の道です。また鳥居下に道路元標もありました。道路の長さを測る基準として明治期に建てられた物です。「蓮池村 道路元標」と彫られています。
写真右手の一本道を進むと神崎町・城原町です。この町並みには割と古い家屋や寺院が残っており、古き面影を感じられる場所です。では、八坂神社から東へ順に見て行きましょう。

一直線に伸びる参道と木々が印象的な八坂神社。拝殿前の丸みのある狛犬には威厳など欠片もなく、ユーモラスです。



江崎利一は1881年蓮池村に生まれた江崎グリコの創業者。写真にある石碑は、ここに江崎の生家があったことを教えています。
両手を挙げてゴールインする少年がマークの製菓会社で有名ですが、このマークは江崎が八坂神社の境内で駆けっこをしていた少年を見て、健康的で相応しいとして決定したとのことです。蓮池の地で意外な人物を知ることができました。

真教寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。初代直澄が明暦2年(1656)に開基し、歴代蓮池藩主の位牌が安置されています。
面白いのが本堂前に立つ御隠し塀。家臣が寺の前を通る時、お堂の位牌が見通せるため、殿様に失礼に当たらないよう毎度下馬し拝礼していた。それを時の住職が不憫に思い、塀を築いて隠したとのことです。

写真は二階の壁に竜の鏝絵が描かれた白壁の家屋です。色鮮やかです。その先には浄土真宗本願寺派の福正寺。通りの突き当りには城原町会館があり、鉤型に折れ曲がります。神社や石像がありました。



④ 本町の風景
八坂神社から南へ続く一本道が本町です。道幅は離合困難な程狭く、当時のままなのでしょう。ここの町並みも古い面影を感じます。ここも北から順に見て行きましょう。

県道20号線を横切るとお堂があります。お堂にはもおっさんの愛称で親しまれている文殊菩薩像と恵比須像があります。

文殊菩薩は知恵の仏様で、獅子の背中に坐した姿は仏教を悟った様子を表しています。
毎年8月に子供達がお堂で身籠り、文殊菩薩の大光明を頂戴する千燈籠という年中行事があるそうです。

その先も古い家屋が点在し、浄土宗の浄国寺は境内が保育園でした。


⑤ 魚町の地蔵堂
本町の突き当りを東へ、蓮池公園へ続く町が魚町です。先述の通り、この辺りは川港であったことから海産物の集散地でした。それが町名の由来でしょう。
魚町には地蔵堂があり、地蔵菩薩と恵比須像が祀られています。この地蔵堂は八坂神社の下宮でもあり、祇園祭では御神輿がここへやって来ます。

地蔵像の隣の小さな恵比須像は回り恵比須像と呼ばれ、月交代で各家庭に持ち回され、思い思いにお祀りしていたとのこと。大正時代から続く町の慣習でしたが、現在はこのお堂で祀られています。

⑥ 蓮池公園
写真は蓮池公園の石柱です。ここから100m程真っ直ぐな道が続きます。蓮池神社の参道でもあり、藩主の陣屋へ通じる道です。桜が咲けばきっと綺麗でしょう。

蓮池公園は、明治7年(1874)の佐賀の乱の災禍によって焼失した陣屋の一帯を、明治9年(1876)に地元の人々が公園として整備したものです。
その時、御館跡地には歴代蓮池藩主を祀る蓮池神社が建てられました。現在、社殿は老朽化のため解体され東屋が立っています。

公園は佐賀江川を跨ぐようにして広がっています。大きく蛇行していた川も今では一直線に整備されています。

公園内にはいくつかの遺物があります。写真はマリア観音像です。直澄が島原の乱で持って帰って来たものと伝えられています。

蓮池藩の第8代藩主は鍋島直与と言い、隠居する際に御館東館の近隣の土地を遊園として天賜園を造りました。
また隠居した心情を七言十律の詩で表し、それを塩田の石工に彫らせ、雲庵道人帰田詩碑を園内に建てています。雲庵道人とは直与のことです。

⑦ 諸富町大堂の風景
最後に佐賀江川を渡り諸富町大堂という地域を500m程南へ散策して終わります。その理由は、南から蓮池城下へ向かう道がこの地域を通るこの道だと思うからです。実際歩いてみると古い家屋や寺社が点在していました。
明圓寺は浄土真宗本願寺派の寺院で県道48号線側を向いて立っています。



県道に合流する手前に大神宮があります。拝殿正面に彫られた白猫が気になりました。


今回の散策はここまでです。最後まで読んで頂き有難うございました。
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